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第15話 理性の檻が軋む時

監禁生活も、十四日目になっていた。


 異常なはずの日常に、やや慣れてきた自分が怖い──そんな葛藤を抱えつつも、ヒューナレラは今日もロカルドの紅茶を淹れていた。


 だが、最近、ロカルドの様子がどこかおかしい。


「……っ!!」


 手元で音がして、次の瞬間、カップから紅茶がこぼれた。


「大丈夫ですかっ!?」


 すぐさまかけ寄ったヒューナレラは、彼の手をとり、側に用意していた濡れたタオルを押し当てる。


(……まただ。ここ最近、やけに多い。紅茶をこぼされるの)


 最初は偶然だと思っていたが、もう五回目である。


 ヒューナレラは、もはや紅茶を出すときには必ず冷やしたタオルを傍らに置いておくようにしていた。


 それだけではない。最近、特に気になることが多すぎる。


 急に服がきつくなったと採寸を頼まれた時、合法的にロカルド様を抱きしめるチャンスが発生したり──

 そして昨日は、風呂場で彼がタオルをうっかりバスタブに落としてしまったというので、仕方なくヒューナレラが中に入って──


(これが…“ラッキースケベ”…ってやつなのかしら?いや、でも、でもっ……!)


 混乱しながらも、そっとロカルドの手にタオルをあてがう。


「……もう、大丈夫そうですね」


「いや、まだひりつく」


 不意に低い声で返され、息を呑んだ。


「そ、そうですか。では、もう少し……」


 しゃがんだまま、タオルを優しく押し当てる。ふと、自分の小さな手がロカルドの手に添えられているのを意識してしまった。


(……あ、あれ。私の手って、こんなに……)


 その時だった。


 ふいに、彼がヒューナレラの手をとった。


「……小さいな」


「え……?」


 その声は、どこか遠くを見るような響きだった。


「こんな小さな手で、よく私の世話ができるな」


 そっと、親指がヒューナレラの手の甲をなぞるように動いた。


「えーっと……あ、あのっ……」


 混乱しすぎて、何を言おうとしたのかも思い出せない。鼓動が耳の奥で大きく鳴っている。


(な、なにこれ……どういう状況!?)


 瞳を合わせれば、彼の紅い目がいつもよりもずっと近くにあって。


 理性の檻が、わずかに軋んだ音を立てているのが──わかった。


「……あの男とは、どのようにして知り合った?」


 唐突に落とされた低い声。ロカルドの紅い瞳が、ヒューナレラの視線を射抜く。


「え? ラカンのこと……ですか?」


「あぁ」


 わずかに眉を寄せ、ロカルドはヒューナレラの返答を待つ。その手はまだ、ヒューナレラの指を包むように握ったままだ。


「えっと……その……ロカルド様のことを調べていた時、私、限界がきまして……それで、雇うことに……」


「……それで、どうしてわざわざ“黒”──あの男だったんだ?」


 問われた瞬間、ヒューナレラの心臓が跳ねた。


(言えない……! 乙女ゲームの攻略キャラの一人で、妹が梅毒にかかってるイベントがあって、助けたら仲間になってくれるなんて、言えるわけないっ!!)


 必死で笑顔をつくる。


「たまたま……ペルロジアにかかっている彼の妹さんを治してしまっただけ、ですわ」


「……ほう? 世界的にもあれの特効薬は稀少と聞いているが、“たまたま”か」


 皮肉を込めたようにロカルドが言うと、握る手にふっと力がこもった。


 痛みを感じるほどではなかった。けれど、そのわずかな圧に、ヒューナレラの胸がざわついた。


「えっと、その……この国にもいつか流行が来るかもしれないでしょう? だから……ロカルド様の身に万一があってはいけないと……必死に、開発したのですわ」


 手が離された。


「……また私か」


 その呟きは、自嘲にも似ていた。


(ロカルド様……どうしてそんな、寂しそうな顔をするの……)


 だが次の問いに、ヒューナレラは凍りついた。


「そこまで想っていて……何故、手を出さない」


「え、えぇっ!? で、ですから、ロカルド様が望まれていませんからっ……!」


「監禁はしたのに、か?」


「それは……えっと……」


 視線を彷徨わせるヒューナレラに、ロカルドの声がさらに追い討ちをかける。


「私とエミリア嬢の見合い話を聞き、正気を失ったか?」


「あ……はい……。そう、ですね……」


 その小さな声と、伏せられたまつ毛の震え。口元に浮かぶのは、痛みを隠すような笑み。


(わかる。……もう、十四日もこうして過ごせば。ソナタの顔を見れば、大体の感情は読み取れる)


 ロカルドは視線を鋭くした。


「他にも何かあったか。……王太子か?」


 その名を口にした瞬間、ヒューナレラの眉がピクリと動いた。


「……そうか。ソナタも、ストーカーをされる身であったな。……追い詰められたのか?」


「…………脅されはしましたが、たいしたことでは……ありませんわ。ですが……いちばんは──」


 彼女は、ふっと目を細めて、切なげに微笑んだ。


「……やっぱり、ロカルド様が……誰かのものになることに、耐えられなかったんだと思いますの」


 その言葉は、決して重くない。軽やかに、静かに、でも確実に──ロカルドの胸の奥へと、染み込んでいく。


 愛など、信じていなかった。


それが、どれほど恐ろしく──

 それでいて、どれほど美しいものかということも。


 ロカルドの瞳に、一瞬、迷いの影が差した。


「……なら、この先も私の妨害を続けるということか」


 問う声は低く、冷ややかで、それでもどこか震えていた。


「そ、それは……もう……」


 言葉に詰まるヒューナレラ。目を逸らし、唇を噛み、ぐっと手を握りしめる。


「できるのか?」


 重ねられる問いに、答えを飲み込みかけた喉が、ごくりと鳴る。


「……できなければ……いけない、ですよね……」


 弱く、でも確かに答えたその声は、今にも壊れそうだった。


(そうよね。本当は、こんなこと……絶対にしちゃいけないんだもの。推しを困らせて……私、ファン失格だわ)


 必死にこらえるように伏せた視線。その長いまつ毛が、かすかに震えている。


 ロカルドは息をついた。


「……くっ。忌々しい奴め。どうしてこうも……私を……」


 口にしかけた言葉を呑み込んだ。だが、その続きを聞くより早く──


「も、申し訳ございません。あの……」


 絞るような声とともに、ぽろりとひと粒、頬を伝う雫。


 堪えていた涙が、こぼれ落ちた瞬間だった。


 バッ──。


 ロカルドの腕が、強くヒューナレラを抱きしめた。


「……!」


 思考が、真っ白になった。


 体温が伝わる。震える肩を、広い腕が包み込む。その強さと優しさに、ヒューナレラの全身が凍りついたように固まる。


「……もういい。泣くな。……やめろ。泣くな、ヒューナ」


 低く、喉の奥から漏れたような声が、彼女の耳元に落ちてくる。


「私をこんな気持ちにさせておいて……その上、泣くななどと……どれだけ厄介な女なのだ、君は……」


 その言葉に、ヒューナレラの涙がさらに溢れた。


 これは罰なのか、祝福なのか。

 罪と恋の境界線が、いま──音もなく、崩れていく。

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