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第14話 罪びとのくせに、嬉しくてたまらない

 「……おい」


 返事がない。


 ロカルドは眉を寄せ、書類から顔を上げてソファに目をやった。そこには、裁縫道具を膝に乗せたまま、こくりこくりと船をこいでいるヒューナレラの姿があった。


 ――否。すでに、深く眠っている。


 針を持ったままでは危ないと、ロカルドは小さく息を吐いて立ち上がると、彼女の手からそっと刺繍布を外した。ついでに指にひっかかっていた細い針も摘み取って、テーブルの上に丁寧に並べ置く。


 視線が布に落ちた。


(……見事な刺繍だ)


 針目は美しく揃い、糸の色使いには品がある。ここまで整った技術は、そこらの令嬢ではまず真似できまい。――思えば、この女は、もともと社交の花と称された存在だった。花の頂点、ビースト侯爵家の一人娘。誰もが振り返る美貌に、貴族令嬢とは思えぬ実務力。その片鱗が、この裁縫にもあらわれていた。


「……全く。俺なんかを好きになって、不幸な女だな」


 小さく呟いたその声に、眠っているはずの彼女が目を覚ますことはなかった。


 そのとき――玄関の方から、ガタンと音がした。


 ロカルドの瞳が鋭くなる。


(……また、あいつか)


 玄関に出ると、ラカンが荷馬車の荷台から木箱を持ち上げているところだった。


「おや、公爵様。どうしたんですか」


「……お前は、ただの物資の納品係。そうだな?」


「もちろん。今は“そういうこと”になってます」


 ラカンはにやりと笑いながら答える。その顔の裏に、何層もの嘘が張りついているのは明白だった。


「ならば、私もそのように扱う。……ヒューナレラ嬢は今、眠っている。代わりに私が受け取ろう」


「了解です」


 木箱を抱えたラカンが、玄関に淡々と運び込んでいく。だが、その手を止めぬまま、ラカンは何気なく問いを投げた。


「公爵様は……どうして、ここから出ないんです?」


 ロカルドは答えず、少し間を置いてから、視線だけで腕輪を見せた。


「この腕輪をつけたまま外に出れば、何が起こるか読めん。万が一の自害防止措置があるかもしれんからな」


「けど、主である彼女を気絶させれば、外せるんじゃ? 今だって、無防備に寝てるんでしょう?」


 ロカルドの目が細まった。


「……随分と口の軽い納品係だな。詮索は不要だ。荷を下ろしたら、さっさと帰れ」


「へいへい。お互い苦労しますね。彼女に魅入られた者同士」


 ラカンは肩をすくめながら、軽い足取りで屋敷を後にした。


 ロカルドは、静かに扉を閉め、部屋へと戻る。


 眠ったままのヒューナレラが、同じ体勢でソファに身を預けていた。頬にかかる金の髪が、やわらかな光に揺れている。


 ロカルドは、無意識のうちにその髪へと指を伸ばしていた。


(……美しい色だ)


 まるで絹糸のような、桃色を帯びた金髪。遠く異国の空の色にも似た、不思議なぬくもりがある。


(……認めざるを得んか。思えば思うほど、惹かれている自分がいる)


 その瞬間――


「ん……」


 ヒューナレラが小さく寝返りを打った。


 慌てて指を引っ込め、ロカルドは少しばかり背筋を伸ばした。いつのまにか、心が彼女に向いていることに、気づきたくなどなかったはずなのに。


 だが、それを拒絶できない自分が、確かにそこにいた。


「も、申し訳ございませんっ! わたくし、居眠りを……」


 ばっ、と目を覚ましたヒューナレラが慌てて身を起こし、頬を両手で隠す。


(よ、よだれ……垂らしてないわよね!?)


 ロカルドは、微かに目を伏せて言った。


「構わん。……先程、玄関で物音がしていたぞ」


「あ、はい。わかりました。確認に行ってまいります!」


 すぐに立ち上がり、背を向ける。


 そのときだった。


 ぐい、と腕を掴まれる。


「……ロ、ロカルド様?」


 思わず足が止まった。振り返った先、ロカルドは彼女の腕を握ったまま、少しだけ視線を逸らしていた。


「………小腹が減った。何か、作れ……」


 言い淀んだ後、続けたその言葉に――


「……ヒューナ」


 時が、止まったような気がした。


 ロカルドの口から出たのは、“ヒューナレラ嬢”でも“貴様”でも“そなた”でもない。ましてや“侯爵令嬢”でもない。


 ただ、“ヒューナ”。


 名前の、愛称。距離の、近い呼び方。


 その音を耳にした瞬間、ヒューナレラの顔は一瞬で真っ赤に染まった。


「っ、はい! い、今すぐ、準備を……っ!!」


 ロカルドはソファに腰を下ろし、ふうと一つ、息をつく。


「……早くしろ」


「は、はいぃっ!」


  ぱたぱた、と床を蹴って駆けていくスリッパの音が部屋に響いた。


(あ、あ、あああああああ!?!?!?)


 ヒューナレラの脳内では、鐘が鳴り響いていた。


(ロカルド様が……! ヒューナって……私の名前を、あんな風に……っ!!)


 膝が、かくん、と折れそうになるのを耐えて、なんとかキッチンの調理台にもたれかかる。


(ど、どうして、名前を……?)


 耳の奥にまだ、彼の低く柔らかい声が残っている気がした。


(そ、そうよ。きっと、呼びにくかったのよ! “侯爵令嬢”とか“貴様”とか、呼ぶのも面倒だったのよ! だって、あのロカルド様ですもの。冷静で理性的で、愛とかそういうのから最も遠い人……!)


 両手で頬を挟み、ぷるぷると小刻みに震える。


(変な誤解をしてはいけないわ。そうよ、私は……私は罪人。ロカルド様を監禁する、最低の悪女なのよ)


 ぎゅっと唇を噛んだ。


(あんな風に呼ばれて、こんなにも嬉しくなって……どうかしてる。私はきっと、罰を受けるべき女)


 だけど──


「……嬉しかった、なんて」


 ポツリとこぼれた言葉は、誰にも聞かれないキッチンの片隅に、そっと落ちた。


 胸が苦しくて、でも苦しさと同じくらい、甘くて優しい熱が込み上げてくる。


(……愛してる。ロカルド様。どんな形でも、どれだけ歪んでいても、この気持ちだけは、偽りじゃない)


 一方、ソファに座るロカルドも、腕を組み、視線を落としたまま思考を巡らせていた。


(……私は、なぜ、あの呼び方を)


 ヒューナ。

 彼女の名を、あんなに自然に――いや、親しげに呼んでしまった自分に、思わず舌打ちしたくなる。


(くそっ、あの男に煽られたせいで……焦ったか。冷静さを欠いている)


 確かに、ラカンとのやりとりの中で妙な苛立ちがあった。自分の感情を見透かされたような、不愉快な視線。


 それに、彼女が眠っている姿を見て……無防備な横顔を、そっと撫でてしまったあの指先の余韻。


(ああ……厄介だ。こういうのを、世間では“情が湧いた”とでも言うのか)


 彼は眉間に皺を寄せ、深く息を吐いた。


(それにしても、名を呼ぶ瞬間――奇妙だった)


 口元に、ふっと力を入れた感覚が蘇る。

 あのやわらかな名を舌に乗せた時、唇がほんの僅かに震えた。


 まるで、誰か大切な者の名を口にするような。

 ──いや、馬鹿な。ありえん。 


(監禁された身で、何を勘違いしている。私は……ターラント公爵家当主だ。こうして名を呼んだだけで、彼女が何かを期待したらどうする。余計な誤解を与えるだけだ)


 そう、理屈では分かっているのだ。

 だが、心の奥で小さく反響していた──彼女が、あの時浮かべた、あまりにも幸せそうな顔。


 視界に焼きついて、離れない。


 指先が、またヒューナレラの髪の柔らかさを思い出していた。


(……これ以上は、踏み込むな。自制しろ、ロカルド・ターラント)


 けれど、その自制は、日に日に崩れかけている気がしてならなかった。



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