第12話 王都騒乱中、公爵様はケーキを召し上がっております
──ターラント公爵邸、執務室。
机が鈍い音を立てて揺れた。
「ロカルドはまだ見つからんのか!!」
苛立ちの声と共に、ロルフ・ターラント公爵が机を拳で叩く。その怒声に、報告に来ていた執事がビクリと肩を震わせた。
「も、申し訳ございません…。現在、王都中を捜索しておりますが、いまだ手がかりは──」
「まさか……ビースト侯爵家の仕業ではないのかっ!?」
「そ、それが……どうやら、ビースト侯爵家側でもお嬢様が行方不明になっており、侯爵自ら血眼になって捜しておられるとのことです。そして……王太子殿下も、私兵を引き連れ、ヒューナレラ嬢を探しているとか……」
「……!」
ロルフの眉間に深い皺が刻まれる。
「つまり、ロカルドが何者かに襲われ──その場に居合わせた、ビースト侯爵家の令嬢まで巻き込まれた……ということか?」
「はい。その線が最も濃厚かと……。現在、王族直属の捜査班も動いておりますが……」
「なんということだ……!」
ロルフは立ち上がり、ぎし、と椅子を鳴らして窓の外へと目を向けた。
遠く、曇天の空。重く垂れ込める雲の下、静かに揺れる庭の樹々。
(ロカルド……)
心の中で名を呼ぶ。
(我が最愛の妻との、唯一の愛の結晶──。お前には、貴族として厳しく育てすぎたかもしれん。だが、それでも……やはり、私は……)
「どうか、無事でいてくれ……ロカルド──」
一方その頃。
ビースト侯爵家の別荘──通称:文明監禁ラブハウス。
「……私は、このふわふわした生地の方が、舌触りが好ましい」
ロカルド・ターラントは、姿勢正しくソファに腰掛け、フォークで一口分すくったチョコレートケーキを口に運びながら言った。
「かしこまりましたわ♡ やはり、ロカルド様は“ふわふわ系”がお好きなのですね♡」
ヒューナレラは満面の笑顔で答え、目を輝かせながら記録用ノートに「ふわふわケーキ◎」とメモを取る。
「……いや、しかし」
ロカルドは続ける。
「たまにならば、こちらの“ガトーなんとやら”とやらも食したくなるやもしれん」
「その時の気分、ということですね。では次は、チョコにオレンジピールを加えたバージョンなども……♡」
「ふむ。選択肢が多いのは悪くない。飽きずに済む」
(※ロカルド様、完全におやつの選り好みができる立場になっていることに気づいておられない……)
ほくほくと嬉しそうに見守るヒューナレラの隣で、ロカルドは優雅にティーカップを口に運ぶ。
外では王家と貴族家が大騒ぎしているとは露知らず、当の本人は、まるで宮中ティーサロンのような午後を満喫していた。
そのとき、屋敷の奥から、玄関扉が軋むような音を立てて開く。
「ロカルド様、しばらくケーキをご堪能なさってくださいませ。どうやら、物資の納品係が来たようですので──」
「あぁ……」
軽く頷いたロカルドは再びティーカップを手に取る。
ヒューナレラが廊下を抜け、玄関へ向かおうとした──その瞬間だった。
「ッ! 危ない──」
ぐい、と背後から腕が伸び、ヒューナレラの肩を引き寄せる。
抱きしめるようにして庇うのは、ロカルド・ターラント本人だった。
「貴様……暗殺ギルド〈黒獅子の牙〉の頭領、ラカンか」
「……おっと。これはこれは」
扉の前に立っていた男──ラカンは、両手をゆっくりと上げた。
「いまの俺は、ただの納品係ですよ、公爵様。お嬢様に雇われてるだけのね」
(ロ、ロ、ロ、ロカルド様に、だ、抱きしめられてる……!!抱きしめ……っ)
ヒューナレラの脳内では、何かがぐるぐると回転していた。足がふわふわして、地面の存在を忘れそうになる。
「雇われの身だと? 貴様ほどの者がか」
「ええ。ご希望でしたら、公爵様と同じく“隷属の腕輪”をつけて従うことも、やぶさかではありませんが」
「…………なんだと」
ロカルドの眉が、ぴくりと動く。
こんなに重たい会話が交わされているというのに──ヒューナレラの目は完全にハートのかたち。
彼の腕のぬくもり、距離、香り、包まれる感覚……どれもが魂を溶かす麻薬だった。
「……公爵様も、もうお気づきのはずです」
ラカンは言った。
「彼女の“逸脱した能力”に。あなた様が見たすべては、その一部に過ぎませんよ」
「…………。……チッ。……何用できた」
「物資の納品ですよ。あとは、ご依頼いただいていた本も一式」
「……おい」
「ひゃい?」
「部屋に戻る」
短く吐き捨てるように言い、ロカルドはヒューナレラを放して踵を返す。
「あっ、はい♡」
ヒューナレラは抱きしめの余韻を全身に染み込ませたまま、夢うつつで頷いた。
ラカンは彼女に小声で囁く。
「おい……惚れ薬でも盛ったのか?」
「まさか。そんな野蛮なこと……わたくし、ロカルド様に“手を出されても、出しても”おりませんわ」
「…………」
ラカンはため息まじりに肩をすくめた。
部屋の扉が閉まりかけた瞬間、ロカルドの視線が鋭く此方を振り返る。
(……完全に警戒されてんな)
それでも、ラカンは微笑みを浮かべたまま言う。
「まぁ、無理もないか……。それより、お嬢様」
「はい?」
「王都は騒然だ。王太子殿下と、あんたの父上が手分けして、おまえを探してる。捜索隊が倍に膨れたってさ」
「……そうですのね」
ヒューナレラは微かに笑った。
その瞳には焦りも怯えもない。ただ──どこまでも確信に満ちた光だけが灯っていた。
「でも、ここは見つかりませんわ。誰にも──」
この別荘は、前世で研究途中だった“光学迷彩”技術を応用した結界で覆われている。
周囲からはただの岩場か、もしくは“なにもない”空間に見える。
誰にも気づかれず、誰にも入れない。
そう、ここは“推しとふたりきりの絶対不可侵の監禁聖域なのである。
玄関での騒ぎもひと段落し、ヒューナレラがケーキの香りただよう部屋へ戻ると──
扉のすぐ内側、壁際にぴたりと寄りかかって立っていたロカルドの姿に、思わず飛びのいた。
「わ、わぁっ……!? ろ、ロカルド様っ……!」
ヒューナレラの声に、彼は微動だにせず──そのまま、無言で部屋の中央へ向かい、ソファに腰を下ろすと、先ほどのケーキを黙って手に取った。
ぱく、と。
ひとくち。
また、ひとくち。
いつものように美しく、優雅な所作だったが……その横顔は、どこか険しい。
ヒューナレラは、気まずそうに手をもじもじと握りしめながら、おずおずと口をひらく。
「あの……えっと……ラカンは……」
「……言わなくていい」
短く、それだけ。
その声音に、強い拒絶はない。
ただ、そこには“意志”があった。
「……はい」
ヒューナレラは素直に従い、深くうなずいた。
そのとき、ロカルドは考えていた。
──もし、今、あの男の素性や、この“監禁”の真実を聞いてしまえば。
自分は、彼女の罪に目をつぶれなくなる。
そしてもし──
将来、何かの“形”でこの女と縁が結ばれたとき、今の自分の判断が“障害”になるかもしれない。
だからこそ、聞かない。
聞かず、記さず、知らなかったふりを貫く。
そう……それが、公爵としてではなく──一人の男としての、“初めての保身”だった。
フォークが皿にあたる音だけが、部屋に響く。
ヒューナレラは胸を押さえながら、思った。
(……ロカルド様、怒ってない……? でも……少し、何かを“抱えている”顔だった。どうされたのかしら。)




