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第10話 願いはひとつ、“幸せそうな顔”が見たいだけ

 夜。

 ビースト侯爵家の別荘。推し監禁、記念すべき一日目の夜。


 ロカルドが湯浴みに入っているその隙に、玄関先にひとりの影が戻ってきた。


「……どうだ? うまくやれてるか?」


 ひょいと窓から顔を出してきたのは、白髪の筋肉質、褐色肌の男──情報屋であり、暗殺ギルドの所属でもあるラカンだった。


「ラカン!! 一人だけ逃げるなんてズルいわよ!」


 ヒューナレラは小声で詰め寄る。


「俺はまだ捕まりたくないんでな。とりあえず、頼まれてた物資、玄関に置いてきた。例の本もな」


「ありがとう、助かるわ。はい、これ、報酬よ」


 ヒューナが渡した袋には、ずっしりと何かが詰まっている。金貨、魔石、魔道具──あらゆる裏ルートの宝が。


「……まったく。俺をここまでパシリに使えるのは、お前ぐらいだぜ」


「ふふ。嫌なら他の人に頼むわよ?」


「いや、明日も来るさ」


 ラカンは肩をすくめ、そしてバンッ!!と音を立てて窓を閉め、姿を消した。


 その直後──


「……誰かいたのか?」


 バスローブ姿で現れたロカルドが、濡れた青髪をタオルで拭きながら現れる。


 ……尊い。


 ふかふかのバスローブ。濡れた髪。整った顔立ち。チラリと覗く足首。すね毛は……ない!? いや、薄いだけ!? なにこの神造形……!!


「ここへ物資を運んでくる行商人ですわ。ご安心ください、ロカルド様」


「……ほぅ。なるほどな」


 ロカルドは無言でソファに腰を下ろした。バスローブがややはだけ──はだけ──ぎゃあああ尊い!!


 ヒューナは理性を総動員して震える手を抑える。


「はっ! わ、私としたことが……お風呂上がりにはこちらを!」


 彼女が差し出したのは、よく冷えた淡いピンク色の液体。気泡が静かに弾けている。


「これは私の創作ジュースですの。お口に合うかわかりませんが……」


 ロカルドは受け取ったグラスをじっと見つめ、警戒の視線を送ったのち──


 グイッ。


「……ぶっ」


 咳き込んだ。


「だ、大丈夫ですか!?」


「いや……なんだこれは……酒か?」


「いえ、ロカルド様はあまりお酒を好まれないように思いましたので。これは炭酸のジュースですの。砂糖と果汁と、炭酸水で──」


「……炭酸、だと?」


 ロカルドはもう一度、慎重に一口飲む。ピリリとした刺激に眉をひそめるが、すぐに表情が変わった。


「……ふむ。悪くない味だ」


 その瞬間。


 ヒューナの世界が、ぱあぁっと輝いた。


 (あっ……口角が……口角が上がった!! 今、笑ったよね!? 美味しかったんだ……私のジュースが……!)


「……何をそんなに見ている」


 ロカルドの低い声に、ヒューナは背筋を伸ばして笑顔を作る。


「いえ……幸せですの。ロカルド様が“美味しい”と感じてくださったなら……それだけで」


「……」


 ロカルドは眉をひそめた。

 だが、彼女の目にはまたしても嘘がなかった。

 それが、いっそう──厄介だった。


「よければ、こちらもどうぞ」


 彼女が差し出したのは、銀の小皿に美しく並べられた小さな一口。

 薄く焼かれたクラッカーの上に、滑らかなチーズと黄金のはちみつがとろりと垂れている。


「これは……?」


「軽めのお夜食ですわ。眠る前に、お腹が空いては大変ですから」


 ロカルドは、一瞬だけ逡巡したが、すでに抵抗する気力は抜け落ちていた。


 ──ぱく。


 (……うまい。うますぎる)


「……悪くない。いや、美味だ」


「まぁっ♡ ありがとうございますわ」


 ヒューナレラが満面の笑みで頬を染める。


 (……ぐっ。礼を言うべきなのは私の方のような気がするが……いや、違う。私は監禁されている身だ。感謝など、言ってはならん……!)


「……はぁ……」


 ロカルドは小さくため息をついた。


 夜食を食べ終えると、ヒューナレラがまたそっと近づいてくる。


「次は、こちらですわ」


「……今度は何だ」


「ドライヤーです。髪を乾かす魔道具でございます」


「全く……次から次へと……」


 ロカルドは渋々、ソファの背にもたれかかった。


「温かい風が出ますので、くれぐれも驚かないでくださいね。あ、眼鏡は外していただけますか?」


 静かにドライヤーのスイッチが入ると、ふわりとした温風が髪をなでる。

 ロカルドは微かに目を細めた。


 (……これも、どうせ私のために作ったというのだろうな)


 やがて、髪が乾き終わり、ヒューナレラが鏡を差し出す。


「……見事なものだな」


 鏡に映るのは、濡れて柔らかくなった前髪が額に落ち、どこか少年のような無防備さを感じさせる自分だった。


 「……ああああああ……///」

 目をハートにして見上げるヒューナレラに、ロカルドはそっと顔をそらした。


「……寝る」


「お待ちください! その前に──歯磨きを!」


「は?」


 ヒューナレラはきらきらとした笑顔で、懐から歯ブラシを取り出す。


「命令です♡ 歯磨きをさせてください♡」


「なっ……なんだと……!?」


「さぁ、こちらに♡」


 彼女は自らソファに座り、膝をぽんぽんと叩いた。

 すでに歯ブラシには歯磨き粉がつけられている。


「……ぐっ……」


 ──そして数分後。


(……くっ……これは……屈辱だ……っ……!)


 ロカルド・ターラント、貴族評議会筆頭にして公爵。

 その威厳も誇りも、今この瞬間──ストーカー令嬢の膝の上で歯を磨かれるという奇行に、見事崩れ落ちたのであった。


 (プライドも……尊厳も……すべてが……音を立てて崩れていく……)


「上の歯、もっと開けてくださいね♡ はい、左奥も……♡」


(……やめろおおおおおお……!!!)

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