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第1話 目覚めたらそこは、バッドエンド確定の世界でした

 電車の揺れが、やけに心地よく感じる朝だった。


 通勤ラッシュの車内。吊り革につかまったまま、私は目を閉じていた。昨日も会議は四本、メールは未返信三桁、深夜帰宅で睡眠時間三時間。なのに肌荒れもメイク崩れもない私は、たぶんもう人間じゃない。


 某大手家電・生活用品メーカー勤務。三十代前半、開発戦略室所属、プロジェクトマネージャー。

 社内で“仕事ができる女”としてそれなりに知られた存在――が、そんな私にも、誰にも言えない“趣味”がある。


 乙女ゲーム。

 その中でも、社会人になってからハマったタイトルがひとつあった。


 『蝶よ花よとお戯れ』。


 ……どういうタイトルだよと思いつつも、内容は秀逸だった。


 学生時代から乙女ゲーには親しんでいたが、大人になった今こそ、このゲームのストーリーが刺さった。

 陰謀渦巻く貴族社会、政略と愛情の駆け引き、そして血のにじむような正義。


 王子様系イケメンは一通り攻略した。どのルートも綺麗にまとまっていて良かった。

 でも――私が本当に心を奪われたのは、ただ一人。


 「……やっぱり、ロカルドが一番かっこいいよね……」


 小声でつぶやいた瞬間、隣のサラリーマンが一瞬こっちを見た気がして、慌てて咳払いをする。

 いけない、電車内で推し語りは自重、社会人のたしなみ。


 でも心の中は、いつだって彼のことでいっぱいだ。


 ターラント公爵、ロカルド・ターラント。


 冷静で、誠実で、責任感の化身みたいな男。

 メインヒロインの恋の成就を支えるだけの、寡黙で影のあるサブキャラ。


 誰にも頼らず、ただ正しくあろうとする姿に、どうしようもなく惹かれてしまった。


 若い頃なら、甘いセリフやスチルでときめいたかもしれない。

 でも今は、黙って立っているだけの彼の背中に、何より胸を打たれる。


 ノートはすでに三冊目。

 彼のセリフは全て書き写し、登場シーンはスクショして切り貼りし、性格分析から交友関係まで論文のようにまとめた。

 休日にはそれを持って、近所のカフェで推し語り妄想タイム。

 ……はたから見たら何の研究書だと思われてるんだろう。


 でも、これが私の癒しだった。

 生きるための、ささやかな灯火だった。


 ──別に、恋人になりたいわけじゃない。

 ただ、彼が“幸せになる瞬間”を、どうしても見届けたい。それだけなのに。


 ふと気づけば、駅に到着していた。コーヒーを飲み干し、スマホをしまいかけたその時。


 赤信号が青に変わる。


 そして──


 視界の端に、異様なスピードで近づく“何か”。


 ──え、あれ……? なんで、トラックが……


 咄嗟に足が止まる。心だけが先にふわりと浮いた気がした。


 ──私、今……何考えてたんだっけ。

 ──ああ、そうだ……ロカルドの、新しいSSが……


 記憶は、そこで途切れた。


◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇


 ──カサリ、とシーツの擦れる音がした。


 体が重い。まぶたが焼けつくように熱い。

 どうにか目を開けると、目に飛び込んできたのは、金と白で統一された、まるで宮殿の一室のような空間だった。


「……え?」


 吐息のような声が漏れる。

 天井の装飾、レースの垂れ下がった天蓋ベッド、身に纏うふわふわのナイティ。

 そのすべてが現実離れしていて、どこか舞台のセットのようだった。


(これは……夢?)


 混乱しながらも、かすかに自分の名を呼ぶ声が耳に届いた。


「お嬢さま、ヒューナレラ様。お目覚めになられましたか?」


 ドアの向こうから、柔らかくも礼儀正しい声がかかる。

 ヒューナレラ。確かにそう聞こえた。


(ヒューナレラ……?)


 心臓が、ずしんと脈打った。


 その名前、知っている。というか、忘れたことがない。

 乙女ゲーム『蝶よ花よとお戯れ』に登場する、いわゆる“悪役令嬢”。

 ヒロインの恋路を邪魔する冷徹な令嬢として、物語終盤で破滅する運命にあるキャラだ。


「ちょっと待って……私、なんで……この名前、部屋、服……」


 言葉を繋げるよりも早く、頭の中で答えが浮かんでくる。


(まさか、転生? あのトラックに……轢かれて……?)


 記憶が、最後の瞬間に戻る。

 青信号に変わるのを確認して、スマホをしまおうとしたその時だった。

 トラックのヘッドライトが眩しくて、それ以降は……。


 がたり、とベッドを降り、足元にある絨毯の感触に、もう一度自分の存在を確かめる。

 ゆっくりと、部屋の奥の鏡台へと歩を進めた。


(お願い……違うって言って……)


 そう思いながら覗き込んだ鏡の中には、見慣れない少女の姿があった。

 長く波打つ金の髪。桃色にきらめく大きな瞳。肌は透けるように白く、端正で気高い顔立ちをしている。


 完璧すぎるまでの美貌。けれど、その冷たさと孤高さに、嫌でも心当たりがあった。


「……嘘。やっぱり、これ……」


 鏡に映る自分をまじまじと見つめ、呆然と呟いた。


「ビースト侯爵令嬢……ヒューナレラ・ビースト……」


 まぎれもなく、“あの”キャラクターだった。

 そう気づいた瞬間、どっと冷や汗が吹き出す。


(このままだと、王太子との婚約は破綻。ヒロインに敗北して、社交界で吊し上げにされて、家名に泥を塗って追放……いや、もっとひどいルートでは……)


 震えそうになる両手を、無理やりぎゅっと握りしめた。


 そんな時だった。


「──ロカルド……」


 自分でも意識せずに、口をついて出たその名前に、胸が締めつけられた。


 ロカルド・ターラント。

 この世界に登場する、“攻略対象外”のサブキャラ。

 物語のメインに関わることは少なく、けれど、その少ない出番に魂を込めるように生きていた人。

 誠実で、理知的で、何より不器用に他人を守ろうとするあの姿が――何より好きだった。


「この世界に……彼がいるんだよね……?」


 確かめるように呟いたその瞬間、胸の中にぽつりと灯がともる。

 自分がどんな立場にいようと関係ない。推しがここにいる、それだけで生きる理由になる。


「……攻略できなくてもいい。恋人になれなくてもいい。彼のそばにいられたら、それで……」


 声が震えていた。けれどそれは、悲しみでも絶望でもなかった。


「ただ、あの人の孤独が、少しでも癒えるなら……私は……」


 指先が、そっと胸元に触れる。

 そこに鼓動があることを確かめながら、彼女は、初めてこの世界に“生まれた意味”を感じていた。


(ビースト侯爵家の令嬢? 悪役? 上等。私は“オタク”として、この身と知識と人生すべてを捧げて、推しのために生きてやる)


 それが、ヒューナレラ・ビースト──

 もとい、かつての“ただの30代OLオタク”が選んだ、転生先での生き方だった。



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