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いつつの四季

いつつの四季02『真夏の朝の夜想曲』

作者: 藤邑微風

『真夏の朝の夜想曲』


セミが鳴き始め、教室の窓から差し込む光がやけに白く感じる。朝の澄んだ空気の中で、セミの声だけが響いている。湿った空気が教室に漂い、古い窓ガラスを通して外の景色がぼんやりと見える。グリーンのカーテンが揺れ、時折風が入ってくるたびに、教室の空気が少しだけ入れ替わる。そのたびに、静寂がほんの少しだけ破られる。


「おはよう~ 天気がいいねぇ~」


寝起きの軽いノリで気安く話しかけてくる。いつも教室に一番乗りするクセに、朝のホームルームの頃にはふわっといなくなっていることもある。よくわからないヤツだ。私はいつもこいつよりずっと遅くに教室に入る。今朝はなんだか家に居たくなかった。普段なら耐えられるはずなのに。夏の清々しい朝の空さえ、私に当てつけるように深く青い。


こいつだって。だけど、こいつは空のように青くない。いや、みんなには青く、美しく見えるのかもしれない。けれど私にはその青の奥に、月灯りを霞ませる暗い空が見える気がする――。


だからいつも退屈そうに朝の教室にいるこいつの暇でも紛らわせてやろうかと、一番乗りを奪ってやったんだ。


「こんな天気のいい日は、天井が邪魔だなぁ~」


意味がわからない。猫のように全身を伸ばして、気持ち良さそうに息を吐き出したこいつはまたサボるつもりなのだ。


教室の天井を見上げると、白くて無機質な塗装が、なんとなく沈んだ気持ちを引きずるような感じがする。その下で誰かの声が響く度、私はその音に少しだけ引き寄せられる。


「川、好き?」


「は? 意味わかんないんだけど。好きでも嫌いでもない。」


「じゃあ行こうか。カバンはロッカーに隠して! 机にかけてあったら、どこだ~って探されちゃうからね~」


そう言うと、臆面もなく私の手首を握り、廊下を金魚が泳ぐように軽やかに進んでいく。


教室を抜け出すと、廊下のひんやりとした空気が顔に触れて、どこか心地よい。外からは蝉の声がいっそう大きくなり、夏の始まりを告げるように、強い日差しが教室の窓を通して教室を満たしていく。


最初はゆっくりとした足取りだったが、少しずつ歩調が速くなる。風が少しだけ背中を押し、教室の静けさが遠のいていく。廊下を抜けると、外の温かい空気が私を包み込む。最初のひんやりとした感触がすぐに溶けて、体全体がじんわりと温かさに包まれる。


「あれ? 風が少し気持ちいい。」


金魚が振り返り、私の顔を見て、満面の笑みを浮かべる。その顔に、少し照れくささと、何か新しい世界を見つけたような光が浮かんでいた。


次第に、街の景色が速く流れ出し、風がさらに強くなり、髪を揺らす。空はどんどん明るくなり、まるで私たちを待っていたかのように、太陽の光が一層鮮やかに降り注ぐ。


河川敷に到着すると、耳に風が当たるごうごうという音が響く。周囲には人々の声や車の音はなく、ただ風の音と、川の流れの音が空気を満たしている。その静けさが心地よく、夢の中にいるような、不思議な感覚が漂っていた。陽射しが強く、川の流れが光を反射してキラキラと輝いている。周囲の景色がどこかぼんやりとして、何もかもが夢の一部のように感じられた。


目の前に立っている少年が、ふと手を伸ばして楽器を差し出す。


「はい、これ。」


小さな鍵盤ハーモニカが私の手に渡る。まさかこんな楽器を手にすることになるとは思わなかった。私は一瞬その楽器を見つめ、少し戸惑う。しかし、少年はすでににやりと笑っていた。


「ショパン弾いてよ。」


思わず苦笑しながら言う。こんなに小さな楽器で、ショパンなんて弾けるはずもないと思った。でも、どこかでわかっていた。この瞬間を逃したくないと思ったのだ。


「こんなダサいので弾いたことないんだけど。」


「いいから、いいから。」


その一言で、私は気がつけば楽器を手に取っている。指を鍵盤に触れると、薄っぺらな音が部屋に響き渡る。音域が狭く、普段のピアノとはまるで違う。でも、不思議と心地よく、その音は空気に溶けていく。


音が流れ出し、次第に心の中の静けさが崩れていく。普段のピアノと違って、鍵盤は軽く、何かに囚われているわけではなく、まるで自由に弾いていいという許可をもらったかのようだった。指先から出てくる音は、ひとつひとつが流れるようで、どこか懐かしく、でも新鮮だ。


気がつくと、風がふわりと流れ、川の流れに音を重ねるようにして、少しずつ空気が変わってきた。その瞬間、どこからともなくフルートの音が重なってきた。それはまるで夢の中から聞こえてくるような、柔らかくも力強い音色だった。私の演奏に対して、自然にその音が応えるように響く。


「ちょっとずるい! なんでそっちがちゃんとした楽器なの?」


「その子だって立派な楽器だよ? いいから続けて?」


少し苦笑しながら、私は再び鍵盤に指を乗せる。無意識のうちに、体がリズムに合わせて動きだす。その音に合わせて、自分の体も軽やかに、まるで踊っているかのようだった。まるで月のうさぎが、夜の訪れを祝うように、私もまた、心の中で歓喜を感じていた。

「たのしいね。」


「ふふ…。そうかも。」


私は指を鍵盤に滑らせながら、その音に合わせて身を委ねていく。跳ねるように、指が鍵盤の上を駆け抜け、音が軽やかに流れ出す。どこまでも続くような気がして、演奏にのめり込んでいった。少年のフルートもその音に合わせて、まるで二人の心がひとつになったかのように響く。音がひとつになり、空気が共鳴して、まるで世界のすべてがこの瞬間に存在しているかのように感じた。


「二人だけの世界…。って感じ。」


「なにそれ。」


私はどんどん、もっと自由に、もっと楽しく演奏していく。それはまるで、夜が長く続くように感じた。演奏の中で、私はどんどん心地よくなり、体を揺らしながら、月の光の下で踊っているかのような気分になった。


「演奏が…もうすぐ終わる。 このまま踊り続けていたい。 終わらないで… この夜を止めないで…。」


その願いが、音の中に溶け込んでいく。その瞬間、二人の演奏の最後の一音が響き、そしてその音はすっと溶けるように消えた。すべての音が消え、空気だけが残る。


私は一瞬、何が起きたのかを理解する暇もなく、周りの景色が急に現実に戻ってきたように感じた。ずっと夜だと思っていたその一瞬は、実は朝の河川敷だった。


急に陽射しが眩しく感じて、私は目を細めた。でも、その眩しさは嫌なものではなかった。どこか、心が温かくなるような、そう感じた。


「あれ? 空がきれい。」


その一言と共に、青い空が広がるのが見えた。すべてが変わったように感じる。その瞬間、私は心からその景色が美しいと思った。


「帰ろっか。」


自転車にまたがる彼は、ほんの少しの間私を見つめ、その目がどこか嬉しそうに輝いている。まるで私に向けた微笑みが、夏の陽射しのように爽やかに心に染み込んでくる。


その顔が、あまりにも可愛くて、思わず視線をそらす。私も今、同じような表情をしていることに気づいて、顔が少し熱くなる。それはきっと、夏の陽射しのせいだ。そうに違いない。恥ずかしさと、でも嬉しさが入り混じったような…あぁ、もうっ!


自転車にまたがると、私たちは来た道を引き返す。風が頬を撫で、軽く身を揺らしながら、彼の後ろに座る。


「ねえ、サボらないの?」


風に負けまいと、私は少し大きな声で聞く。でもその声は、どこか照れくさくて、でも心の中では楽しさを感じている自分がいる。


「君はサボったらマズイでしょ?送ってく。」


「アンタはサボるんかい!」


「え?…痛っ!叩かないでよ~。」


彼の背中は、細くて頼りなさそうに見えるのに、なぜだかその背中はとても大きく感じられた。叩いた手のひらから、何だか不思議な温かさが伝わってくる。


思わず笑いが込み上げてくる。二つの笑い声が重なり合って、まるでこの瞬間が世界のすべてであるかのように広がり、朝の空に吸い込まれていく。




ヒグラシの声が響く。


まるで朝と夜みたいに正反対の僕らは、大人でも子供でもないそんな時間を、朝でも夜でもない溶け合った時間の中で過ごした。



君は僕を月のように輝いているって言ってくれたけど、僕が輝けるのは君が照らしてくれているからだと思う。これからも。




「ちょっと、何やってんの。早く行くよ。」


振り返った彼女は小さな子どもの手を引きながら僕を待つ。


「天気がいいね~。」


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