8. ピーターくんのお母様
「あの……もしかして、ピーターくんのお母様ですか?」
「あら、あら、あら!やっぱりわかっちゃう?そう、そうなのよ。うちのピーター、世界で一番有名なうさぎですからね!」
ほほほ、とそのお母さんうさぎはお上品に笑った。
「ピーターって何の話だ?」
真鍋が怪訝な顔をして望を見た。
「あれだよ。ピーターっていう名前のうさぎのキャラクターがあるじゃない、本で」
「俺は童話なんて読まない」
「えー、グッズとかもいっぱい出てるし。絶対見たことあるよ」
「うーん……あれか!いっつもにんじん齧ってるやつ」
「いつもかは分かんないけど。でもそのうさぎ。お父さんは人間に捕まって、うさぎパイにされて食べられちゃったんだよ。結構有名な話だけど」
「何のトリビアだよ、それ」
「すごいですね、ピーターくんのお母様」
望はキラキラとした目でピーターくんのお母さんを見た。
「でしょう?ほほ。だからね、うちの旦那はぐたぐただったけど、うちの子は立派に育ったでしょ。なにせ世界で一番有名ですからね」
ピーターくんのお母さんは、『世界で一番有名』ということをもう一度強調すると、鼻をヒクヒクさせた。
「世界で一番有名なうさぎって、他にもなかったっけか。……何だったっけな?うーん……」
真鍋が腕を組んで考え込んだ。
「あ、そうだ。ミッフ――」
ピーターくんのお母さんは、目にも留まらの速さで飛び跳ねると、真鍋の額に突撃した。
ルナよりがっちりとした体で体当たりされた真鍋は、額を抱えてうずくまった。
「何すんだよ!凶暴すぎだろ、お前たち!」
「ちょっと!その間抜けなうさぎの名前は出さないでちょうだい!あんな目が点で口がばっちょんの間抜け面と、うちのピーターを一緒にしないでくれるかしらっ!」
「そんなこと言ったって、うさぎのキャラっつったらあっちの方が有名じゃねえか」
なあ?真鍋は望に同意を求めた。
いや、私にそんなこと言われても……と望は真鍋から一歩距離をとった。
「なんですって!あんないつも正面を向いて間抜け面をさらしているうさぎと一緒にしないでちょうだい。いいこと?うちのピーターの作者はね、うさぎのことを研究するために、大きな鍋にうさぎを丸ごと煮て、肉を溶かして骨格を取り出したのよ。だから、あの作者の描くうさぎには躍動感があるの。筋肉や骨の動き、筋の動きまで全て綿密に計算された芸術作品なのよ」
うっとりとピーターのお母さんは、天を見上げた。
「そんなこと言ったってな……あの目が点で口がばっちょんのうさぎにだって色々とこだわりがあるんだぞ。
ブルーノカラーって 呼ばれている六色は、作者が独自に生み出した色で、それぞれ意味が込められている。これが独特の世界観を作り出しているんだ。だから子供だけじゃなくて、大人にまであのキャラは受けてるんだろう。あのうさぎを嫌いだっていうやつはそうそういないだろうが」
真鍋は肩をすくめながら言った。
「そんなことないわよ!うちのピーターは文房具にだって、食べ物にだって、いたるところに使われているんですから!おかげで印税がっぽり生活なんですからね。マーチャンダイズや、フランチャイズや、それだけでお金がガバガバ入ってくるんだから!売り上げナンバーワンよ!うちのピーターより売り上げがあるうさぎなんていないんですから!」
「そうかあ?目が点で口がばっちょんのうさぎだって、いろんなところに使われてるじゃないか。 あのうさぎ目当てに発祥の地まで観光に行く人だっているんだから。一大観光名所だぞ」
バトり始めた真鍋とピーターくんのお母さんを見た望は、天を仰いだ。
……ちょっと……真鍋くん……
「なんですって!あなた、こんな男と番うのはやめた方がいいわよ!私がもっと出来のいい男を紹介してあげるわ。お隣さんの家のうさぎがそろそろ成人になるんだけど、どうかしら?」
ピーターくんのお母さんがくるりと望の方を向いた。
こっちにとばっちりが来た。
ほんと、勘弁してよ。
「いやー、私、うさぎはちょっと……」
望は言葉を濁しながら、手を振った。
「よかったじゃないか。紹介してもらえよ」
ニヤニヤと笑いながら真鍋が望を見ている。
お前、後で覚えてろよ、と望は睨み返した。
「あら。ニ人は見つめ合ってるわ。やっぱり番なのね」
「以心伝心ね。 心が通じ合う2人……ロマンチックだわ」
「心で会話しているのね。『愛してるわ』『僕もだよ、ハニー』かしら」
「『昨日は素晴らしい夜だったよ。今夜も、ね』かもしれないわよ」
「きゃあ!熱い夜を過ごすのね」
ちょっと待った!違う、違うったら!
「私!ピーターくんのこと、とっても好きですよ。目がくりくりして愛らしいですよね」
話が怪しい方向に進み始めたことに焦った望は、慌ててピーターくんのお母さんに話しかけた。
「そう、あなた目が高いわね、うちのピーターはね……」
「まあ さすがだわ」
主婦三人はまた井戸端会議に戻ったようだ。
ほっと息を吐いた望は、顔を赤らめながらチラリと真鍋の方を見た。
真鍋は営業だ。
うちの会社は見た目で採用しているわけではないと思うけど、営業には顔の整った人が多い。いわゆる美男美女が多いのだ。
真鍋もその例に漏れずイケメンだ。
背は高く、180センチを超えている……らしい、噂によると。
目鼻立ちがはっきりとした顔立ちは集団の中にいても目立つ。
鋭い目つきをしていることが多いから、くっきりとした二重でも甘い顔と言うわけではない。どちらかと言うとクールな印象だ。
髪の毛は真っ黒ではなく、少し明るめだ。染めているのか、自毛なのか分からないけど、まつ毛も同じような色をしているから、元からの色なのだろう。
こんなに近くで見ることもなかったから、望は気にしたこともなかった。
いつも明らかに吊るしではない質のいいスーツをビシッと着ていて、 それがまたよく似合う。営業の人は稼いでるなと思っていた。
営業といえば、会社の中ではピラミッドの頂点の上の方にいる。もちろんトップは経営陣だ。
営業の人たちは、『俺らが仕事をとってきてやってるからお前らが働けるんだ』といった態度で社内を歩いている。
総務で勤務している望は、その上から目線のマウンティングをがっつり受ける立場にいる。
まあ、確かに営業が仕事をとって来なかったら総務の仕事なんてなくなっちゃうけどさ。でもみんなが働いて企業って言う組織は回っているわけじゃない。もうちょっと気を遣えよ、とはもちろん、口に出して言えるはずもないが。
……そんなことないな。さっき真鍋くんに言っちゃったっけ。
今日はなんだか口が軽い。疲れているのかもしれない。
真鍋とは新人研修の時に何度か同じグループになった事はあるが、その後は一切接触がない。
というか、 近づく隙がない。何故かと言うと、真鍋は営業部の有料株らしいのだ。
営業マンは、二十代の中頃までは足で稼いで、上に顔を覚えてもらう。
それができた社員の一握りは、海外赴任をして数年働いて戻ってくる。
海外で結果を出せた人たちは、その頃には出世コースに乗っている。
だから、社内の女子たちは、そういった化けそうな有料株をめぐって水面下で激しい争いを繰り返しているのだ。
彼女たちが目指すのは、もちろん海外赴任の夫に付き添っての寿退社。
現地では、夫の給料には住居手当やら海外赴任手当やらふんだんに手当がつくから、ヨーロッパだったら、やれファッションだ、芸術だなどマダムっぽい生活ができるし、アジアだったらお手伝いさんを雇ってセレブみたいな生活ができる。
子供ができたら現地のインターナショナルスクールに通わせてもいいし、 そしたら子供も英語ペラペラ?ふふ。……なんて感じで数年間、海外生活を送って、すっかり外国かぶれして日本に帰ってくる。それからは出世コースに乗った夫を支える専業主婦になってもいいし、復職してもいいし、人生バラ色だ。
まぁいずれにしても私には関係ないけど。
望はこっそりとため息をついて、何事もなかったように歩き続けた。
隣を歩いている真鍋は無表情のままだ。
私一人、慌ててばかみたい。
真鍋にとっては、私はどうせ同期のその他大勢の中の一人なのだろう。