4. 長老さん
うさぎさんは私の癒しなのだ。
望は総務課で働いている。
『総務課』という言葉からも、何をしている部署なのか、いまいちピンとこない人も多いだろう。営業のように華やかな部署でもなければ、経理のようにお金を握っているわけでもない。成果として何かを提示できるわけでもなければ、社内で表彰されることもない。いわば印象の薄い影のような存在。
総務課の業務は多岐に渡るが、一言で言ってしまえば総務とは苦情受付のようなものだ。
トイレの使い方が汚いだとか、どこどこの照明が切れてるとか、自販機になんであのメーカーのあのジュースが入ってないんだとか、うちと隣の係は仲悪いんで、まとめて書類持ってくるのやめてもらえます、とか。
さらには、なになにさんがすごい感じ悪くしてくるんですけど、どうにかならないんですかと愚痴られることすらある。他の部署の人間のことなんか知らねーよとは思うけれども、そこは総務の出番なのである。人事に言うほどでもない苦情がこちらに流れてくるのだ。
そんな時に、うさぎさんはいつも私のそばに寄り添っていてくれる。落ち込んだ時にうさぎさんの顔を見ればほっこりするし、イライラする時も、うさぎさんのゆるふわな形を見れば肩の力が抜けてくる。折り方が甘かったのか、うさぎさんの耳は上にぴんと立っているわけではない。へにょりと横に広がっている。それがまた、『今のままで大丈夫だよ』と言ってくれているようで、望は笑顔になることができるのだ。
望はうさぎさんと目を合わせた。
「いつもそばにいてくれてありがと」
うさぎさんはその小さい体ごと、こくりと小さく頷いた。
「それにここまで跳べるようになるとはな。十五夜は月の力が強いと言え、大したものじゃ」
「うさぎ、のんちゃんのおかげ、跳べるようになった」
「そうなの?」
「のんちゃん、くしゃみした。体、ぴょんってした。うさぎ、まねしてみた。うさぎ、跳べた」
「まあお利口さんね!」
「うさぎ、おりこうさん?」
「うんうん。うさぎさんは可愛くて賢くて私の癒しよ」
「いい出会いをしたようじゃな」
白うさぎは耳をぴんと立てて、うさぎさんの頭を撫でた。
「わしはこの地の長老じゃ」
「長老様でしたか。私、望と申します。よろしくお願いします」
とりあえず初対面の人にはよろしくお願いしますと言ってしまうのは、国民性だろう。せっかく座ってるし、と望は正座をして頭を下げた。
「いや、順応性あり過ぎだから」
いつの間にか立ち上がっていたらしい真鍋は、望を一歩離れたところから見ている。
「何が?うさぎさんが喋るんだったら、この長老うさぎさんだって喋ってもいいじゃない。長老さん、そうですよね」
「そうじゃそうじゃ」
「友達かよ」
そんなことより、と真鍋は腕を組んで白うさぎを見下ろした。
「ここはどこだ。お前ら何者だ。今すぐ俺らを帰せ!」
背が高い人間に上から睨まれて低い声を出されると、それだけで高圧的だ。望はカチンとして言い返した。
「ちょっと!マナー悪いよ!」
「マナーの問題じゃねえよ。もっと危機感を持てよ。俺らは誘拐されたんだぞ」
「はあ?うさぎさんがご招待してくれたんじゃん!真鍋くんちょっと感じ悪いよ!会社で評価されてるからって、どこでも威張るのはどうかと思うよ。営業でしょう。もっと愛想よくできないの!」
「こんな得体の知れない生物に愛想振りまいてどうするんだよ。海外だったら金銭巻き取られてバラバラ死体にされるぞ。お前、女だろう。日本の平和ボケのぬるま湯に浸かっていたら痛い目見るぞ」
「この海外かぶれが!しょっちゅう海外出張行ってるからって何よ!営業どもはそうやってドヤ顔して社内を歩き回って!総務は何ですか、あなた方の召使いですか。『これ、頼んでおいたはずなんだけど』とか半笑いで言われても、私たちは営業のためだけに存在するわけじゃないんだからね。総務がいないと会社は回らないんだから!」
「俺は他部署にも礼儀を弁えてるぞ!わざわざ会社の人間を敵に回しても仕方がないだろう。そんなアホな他の営業と一緒にするな!」
「ここは月じゃよ」
言い争いを始めた二人に、長老はのんびりと告げた。
ポカポカとした日差しが長老さんとうさぎさんに当たって、二匹の体を優しく包んでいる。
「月はこんなところじゃねえ。もっと岩がゴツゴツして何もないところのはずだ。
そもそも水の存在すら長年の間、議論されてきたんだ。もし仮に月に水があったとしても、月面に留まることはできない。何せ岩しかないからな。だから、水は水蒸気になって宇宙空間に拡散してしまう。
太陽光が当たる部分でも水があると証明されたのは最近のことだ。こんなに緑が生えているわけはねえんだよ」
「ふぉっふぉっふぉっ」
長老は真顔をくずさずに笑った。
……どこから声が出ているんだろう?
「それはな。ただのバリアじゃよ」
「バリアだと?」
「そうじゃ。お前さんたちが月と呼んでいるものは、バリアの膜じゃ。本物の月を覆うように、くるりとバリアを囲ってあるんじゃ」
「そんなことしてるんですか!?」
望は目を見開いた。
「そうじゃ。昔からな、ここは隕石だの魔術だのというのがポンポン当たってくる場所じゃからな。引きがいいと言えばいいんじゃが……このままでは月がなくなってしまうとわしらも覚悟を決めたときに、偉大な大魔女様がここにバリアを張ってくれたんじゃ」
「そうだったんですか。すごいですね。その魔女さん」
「ああ。そのおかげで、我々うさぎたちは安心してここで暮らすことができるようになったんじゃ」
「そうなんだ。知らなかった。そんなの学校で習ったっけ?」
望は真鍋の方を振り向いた。
「お前な、何でもかんでも信じるなよ。しっかりしろよ、社会人だろうが」
「なによ!今のところ疑う材料も反論する材料もないじゃない。とりあえず話を聞こうっていう気がないの、あんたには。若いのに頭が固いわー」
「何だと!俺は心配して言ってやってるんだ」
「何よこの小心者!」
「仲良しじゃのう」
長老が二人をにやにやと見ながら――表情は相変わらずそのままだが――言った。
「仲良しじゃない!」
「仲良しじゃねえ!」
「………」
「………」
「青春じゃのう」
「ちがっ!ごほん。じゃあ、話を続けろよ」
「ちょっと!もう少し丁寧に接しなさいよ。長老さんですよ。偉い人なの。真鍋くんだって会社ではもっとぺこぺこしてるじゃん」
「そりゃ礼儀正しくするだろ、上司なら。うさぎにぺこぺこしてどうするんだよ」
「まぁ、呆れた。人によって態度を変えるなんて。うさぎさん、こんな大人になっちゃだめだからね」
「せいしゅん?」と体ごと顔を傾けたうさぎさんは相変わらず可愛かった。