月餅と中秋節 三
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いつもより少し早い時間にオフィスに着くと、望はカバンを置かないまま真鍋のいる営業課へ足を向けた。さりげなく開いているドアから真鍋の姿を確認しようとしたが、それは叶わなかった。まだ始業まで時間があるのにも関わらず、結構な数の社員が出社していたためだ。パソコンに入力していたり、海外のお客さんと電話で話していたり。
営業は意識高い系っぽい人が多くて、すごいなと思う。ギリに駆け込む人が多い望の部署とは大違いだ。
どうしよう。通り過ぎちゃった。ここで望が「すいません、真鍋さん出勤してます?」なんて、ドアからひょっこりと顔出して声をかけられるような人間だったら苦労しないんだけど。
ハードルが高いというか、気分はまるでイケメンで有名な隣のクラスの男の子に声をかけにいく地味な女といったところか。絶対に無理。
あ、そうか。何でもいいから書類を持ってくれば、声をかけられたのか。でもそれで「この書類なんですけど」なんて言いながら手紙をそっと手に忍ばせるなんて、不倫カップルっぽくて嫌だ。
周りの人は、全然見てないし聞いてないし気にしてませんよなんてポーズをとりながら、想定以外にがっつり見てるし、聞いているものなんだよ。
そしてこういうところから、社内の噂は広がる、と。
いや、無理、無理、絶対に無理。
腰が引けた望は、また次にチャレンジしようと、遠回りをして自分のオフィスに戻ろうとした。廊下の角の給湯室には、自動販売機が置いてある。その前を通り過ぎようとしたところで望は足を止めた。
せっかくこっちまで来たから何か買って帰ろうかな。ただ手ぶらで歩いてると暇人っぽいし。
朝一だと何がいいかな?
カフェオレか、それともミルクティーか。
ジャスミン茶もいいな。そうだ、帰りにジャスミン茶を買って帰ろう。
家に帰れば、絶品の月餅と冷蔵庫の中で冷えているマンゴープリンがある。
思わず鼻歌を歌い出しそうなほど上機嫌になった望は、カバンから財布を取ろうと目線を下げた。
「あれ、及川じゃんか」
手に小銭をジャラジャラとさせながら歩いてきたのは真鍋だった。
「あ! 真鍋くん! 今営業まで会いに行ったんだけど、いなかったんだよね。会えてよかった」
望は笑顔で真鍋に手を振った。
「……おお」
真鍋は歩みを止めて答えた。
あれ? 若干引かれた気がする。
そうだ。ここは会社。
真鍋くんと私は、同期、同僚、知人以下。
距離をわきまえないと。
周りに人がいないかさりげなく見渡すと、望は真鍋に一定の距離を空けて近づいた。
「真鍋さん、昨日は月餅ありがとう。ごちそうさまでした。なんかすごい高いやつみたいだけど、もらって大丈夫なの? あっ、別に値段を調べようと思ったんじゃなくて、あまりにも美味しいから日本でも買えるのかなって思って、ついつい調べちゃったんだけど、そしたらなんか、あんな小さいお菓子がこんなに高いの!? ってくらい高くて、なんかごめんね、気を遣ってもらっちゃって。カスタードクリームがね、想像以上にマッチしてね、すごい美味しかったんだよ。昨日はすごく幸せな気持ちで寝れたんだ。あと三つも残ってるなんて嬉しすぎる」
話しているうちに月餅のおいしさを思い出してテンションが高くなった望は、まくし立てた。
その勢いに一瞬キョトンとした真鍋は、「おう」と頷いた。
「いいって、ちょっと前にシーズンが過ぎたから、まとめ買いしたらちょっと安くなったんだよ」
「そうなんだ。でも本当に美味しかった。ありがとう。なんか今までの月餅の概念を覆されたっていう感じ 」
「大げさだな。たかが月餅だろう」
「もしかして真鍋くんまだ食べてないの?」
「俺はあっちで食った」
「そっか。そうだよね。本場に行ったんだもんね」
「饅頭よりあんこがぎっしり詰まってる感じだな」
「違う違う、あんこのやつじゃなくて、いただいたやつはカスタードクリームなんだよ」
望は力説したが、「へえそうなんだ」という何とも曖昧な相槌しか返ってこない。
「なんで? すごい美味しいのに。私一個サリーのところにお供えしてきたんだよね。それ取ってくる。ぜひ食べて、っていただきものを差し上げるのもどうかと思うけど」
望はダッシュでオフィスに戻ろうとしたが、真鍋が望の手を掴んで止めた。
「いいって、美味しかったんだったら。あげた甲斐があったよ。それよりさ、なんか飲む? 俺、コーヒー買いに来たんだけど」