月餅と中秋節 一
十五夜の夜にうさぎさん改めサリーに月に連れて行ってもらってから一週間ほどが経った。今までの人生観をひっくり返すような出来ことだったとはいえ、働かざる者食うべからず。今日も今日とで望は出勤している。
自分のデスクの上に積まれているのは山盛りの書類。これをパソコン上のデータと照合して、数字を合わせて、修正箇所をあぶり出して、メインデータとバックアップデータをアップデートして、という地味な作業を今日は一日かけてする日だ。
まあ、そういう日もあるさ。
ふっとため息をついて望は諦めの笑みを浮かべた。
華やかさとは程遠い仕事だが、誰かがやらないといけない仕事でもある。
一口紅茶を飲んで、よしやるかと気合いを入れたところで、なんだか周りがざわざわしだした。
ざわざわというのは正確ではないかもしれない。女性社員のテンション高めの声が主だ。どうしたんだろうと望が顔を上げると、営業部の数名がパリッと高そうなスーツを着て、爽やかな笑みを浮かべながら総務の部屋に入ってきた。
「部長、お疲れ様です」
「ありがとう」
「時差ボケとか大丈夫ですか?」
「ああ、香港だから問題ないよ」
などという会話が営業と女性社員の間で繰り広げられている。
一瞬で自分には関係がないと判断した望はパソコンに目を移したのだが、すぐ傍に気配を感じた。横を通っただけだろうと、望は気にも留めない。
「及川さん」
よそ行きの笑顔を張り付けた真鍋が、望のデスクの前に立ち止まって望を見下ろしている。
反射的に吹き出しそうになった望は、慌てて咳をしているように口元を手で隠した。
真鍋の顔を見ると、『お前なんでこんなところで吹き出してるんだよ』と顔に書いてある。それがまたツボにはまりそうで、望は唇を噛みしめて笑いを押し殺した。
「真鍋さん」
ぎゅっと目を閉じて笑いを封じ込めると、望は立ち上がった。なんとなくだけど、見下ろされてる感じにムカッとしたのだ。まあ、立ち上がったところで身長の高い真鍋の顔を見上げる形にはなるんだけど。
真鍋は片眉を上げて望を見ると、また営業スマイルを貼り付けた。
「うちのチームで香港に出張に行ってきたんです。総務の方には日頃大変お世話になっておりますので、お土産を買ってまいりました」
そう言って真鍋は望に紙袋を押し付けた。
「はあ、それはお気遣いを」
望はなんとも気の抜けた返事を返した。
香港、香港ね。真鍋くん、いつの間に香港になんか行ってたんだ。そういえば最近見ないなって思ってたけど。まあ、今までだってそんなに社内に行って顔を合わせることもなかったし、営業部の近くなんて用がなければ近寄らないしなあ。
「ありがとうございます。香港に行かれていたんですね」
特に興味もなかったが、お土産をもらった以上、世間話の一つや二つくらい望だってする。それはいいのだが、周りから突き刺さる視線が痛い。ああ、なんで私がもらってるんだって思ってるんだろうな。めんどうな。
「及川さんには特に航空券の手配でお世話になったので」
そんなことしたっけ? と望は首をかしげた。
確かにトラベル関係の部署が忙しかったから、そっちを手伝った記憶もあるけど。そうか、その中に真鍋くんが入ってたのか。人の名前なんていちいち覚えてないし。
「無事に帰れてよかったですね」と言おうかと思ったが、先週は月まで旅立っていたのだ。それに比べたら香港なんて目と鼻の先か。
「とんでもない。オフィスのみんなで美味しくいただきますね。お心遣いありがとうございます」
代わりに、望はそう言って真鍋に負けないくらいの営業スマイルを貼り付けた。
真鍋の頬がぴくりと引き攣る。それを見て望は小さくにやっと笑った。
「それでは失礼いたします」
真鍋は営業チームと共に去っていたのだが、みんなから見えないように大きな紙袋を死角にして、小ぶりな紙袋を一つ望に押し付けていった。
なんだこれと思いはすれど、今この場で追求する気にはなれない。よくわからないまま、望は紙袋を二つ受け取った。大きな紙袋の方は上司の元へ持って行き、上司の指示で総務全体に配った。もちろん営業からのお土産だと一人一人に伝え、不在の人にはポストイットを残していく。数は均等に、平等に。端数はめんどくさくなったので上司の机に置いておいた。
小さい紙袋は、なんとなく望個人宛てなのではないかと思ったので、お土産配布の間はそっとデスクの下に隠しておく。間違っていたら後で聞いてみればいいし。
配り終わった望はやっと作業が再開できる、やれやれと席に座った。足をデスクの下に入れたところで、紙袋を蹴り飛ばしてしまった。いかん、もしかしたら食べ物かもしれないのに。しかもまだ自分宛てかも分からない。かといって、さらに書類が追加されたデスクには紙袋を置く場所がない。仕方なく望は、お菓子保管庫にしている引き出しの一つに紙袋を入れた。ややくしゃっとなってしまうがやむを得ん。
そうして作業に戻ると、望はその存在をすっかり忘れてしまった。




