34. 帰還
え、ちょっと待ってちょっと待って。
ぐんと体が持ち上がる。頭に圧がかかって、頭部に風が吹き付ける。
足はすでに地に付いていない。それでも反射的に足場を探すように足をぶらぶらとさせてしまう。
ああ、確か、行きもこんな感じだった。
声を出す暇もなく、望たちは月の楽園を跳び立つと、勢いよく空に向かった。
「ああ! ちょっと待て! うさぎ! じゃなかった、サリー!」
唐突に真鍋が叫んだ。
ほら、やっぱり真鍋くんも怖いんじゃん!
望はそう言おうとしたのだが。
「魔女に! 俺のスマホ直せって言うの忘れた! サリー、戻れ!」
真鍋が腹から声を出して叫ぶ。その度に望のお腹がぎゅうぎゅうと締め付けられる。
「え、無理だし! スマホは諦めなよ!」
望も負けじと叫んだ。身をよじろうとしても、がっちりとホールドされているからぴくりともしない。
「諦めたらそこでっ! くそ! 終わりになんてさせねえ!」
「人間諦めが肝心って言うでしょうが!」
声が出たのはそこまでだった。
バリアを突き抜けたのだろう、ポフッと気の抜けた音がしたかと思うと、あたり一面に真っ暗な世界が広がった。
遠くに眩しく見えるのは太陽。その手前にある地球は、地形をなぞるように光がきらめいている。
望は目の前に広がる絶景に思わず見惚れた。
真鍋くん、見て、綺麗だね、と声をかけようとしたけれど、真空のこの空間で声を出すのは賢いことなのか?
望は人生のゴールデンルールである、『沈黙は金』を守ることにした。
ぐんぐんと宇宙空間をすり抜けていく。星が高速で移動しているように感じるが、実際に動いているのは望たちだ。
行きは一瞬かと思えた地球から月への移動だったが、帰りは少し余裕があるのかもしれない。周りを見る余裕も、少し考え事をする余裕もある。
これがルナが言っていた月への旅路か。
これは確かに好き嫌いが分かれるかもしれない。360度を暗闇に包まれるというのは、動物の本能が恐怖を覚えるものだ。
望だって、サリーと真鍋がいなかったら、怖くて仕方がなかっただろう。
前に進んでいるのか、上に上がっているのか、それとも下に落ちていっているのか。基準となる大地がないということは、拠り所にするものがないということ。ましてや目的地がはっきりとわからない状態だったら、それは躊躇もするだろう。
子供だったら『楽しそう!』ということだけであっさりと跳べてしまっても、大人になればいろいろ考えもする。
もし途中で失速してしまったら?
もし戻って来れなかったら?
保証はどこにもない。だったら、月へ行くのはやめておこうと思っても不思議ではない。
リスクを冒すほどの価値はあるのか?
打算的な考えが頭をよぎれば、メリットの少ない、もしくはメリットが分からない行動を避けるのは仕方がないことなのかもしれない。
もったいない。楽しいのに。
そんな余裕のあることを思っていたのはそこまでだった。
目の前に地球がどんどんと近づいてくる。移動するスピードが加速した気がする。つまり、落下しているということ。
「ひい」
思わず望は悲鳴を上げた。真鍋の手が容赦なく望のお腹に食い込んでくる。最近ちょっとぷにっとしてきたかもと悩みの種であるお腹だ。
目が開けられないほどの強風が顔に叩きつけられて、望は思わず目をつぶった。両手のひらに乗っているサリーを握りつぶさないように、力んでしまった力を逃すために遠慮なく真鍋の腕に膝を食い込ませる。
早く着いてくれ!
そう祈るように落下に耐えていると、真鍋が叫ぶように話しかけてきた。
「なあ! 俺らどこに落ちるんだ?」
「どこにって……どこに? ええ……どこだろう? 会社かな? 会社から来たし」
望はパニックになりながら答えた。
「いろんな企業のオフィスがひしめくビル街の会社にか。本気か? 大騒ぎになるぞ!」
「でもそんなこと言ったって……行きだって会社から来てるし!」
口はほとんど開けることができない。腹話術のようになるべく口を開けないようにしながら、望は大声で叫んだ。
「よく考えろよ! 飛び立っていったものは追うことができないから、周りは諦めるかもしれないけど、何かが落下してきたら、それは何だったんだって周りの人間は見に来るだろうが! オフィスになんかに落ちてみろ! 警備員に捕まって、そのままCIAに売り飛ばされるぞ!」
そういうことは先に言ってよ!
叫び返したいのは山々だが、ピカピカと光る日本列島はすぐ目の前だ。吸い込まれるようにどんどん目の前に近づいてくる。いや、近づいて行っているのは望たちの方だが。
これみんな、人が起きてるから電気が点いてるんだよね。そりゃあ、なんかが落下してきたら大ニュースになるよね。
望たちの住む地域はさすが大きい都市だけあって、地形がくっきりと分かるように大小様々な光が点灯している。頭から夜景にダイブしながら望が思ったのは、ああ、これが百万ドルの夜景ってやつか、という現実逃避だった。
「でも私たち彗星じゃないし! 光ってるわけじゃないから気づかれないかもよ!」
やけ気味に望は叫んだ。
「周りからどう見えるかなんて分からないだろうが!」
負けじと真鍋も叫び返す。
一つ一つの建物や公園、学校のグラウンドまでもが目視できるようになってきてしまった。
「じゃあどうしろっていうの!?」
「サリー、どっか人のいないところに降りろ!」
真鍋は望の頭上からサリーに向かって叫んだ。
「サリー、おうちかえる。サリーのおうち、のんちゃんのかいしゃ。サリー、かいしゃかえる」
「そうなんだけど! 後で必ず家まで連れてってやるから、とりあえずどっか人のいないところに降りろ!」
「ひとのいないところ……?」
サリーが自信なさげに小さい声でつぶやいた途端に、望たちの体がグラグラと大きく揺れ始めた。まるで乱気流の中を抜ける飛行機のようだ。
「ちょっと! 真鍋くんが混乱させるようなこと言うから、サリーが動揺しちゃったじゃん。サリー、大丈夫だよ。えっとね……あそこ! あそこに大きな広場があるでしょう。あそこに行こうか。そこから一緒にオフィスに帰ろうね」
望はパニックになりながらも、一番初めに目についた人気のなさそうな広場の方に手のひらを動かす。
なるべく落ち着いて、ゆっくりした声でサリーに話しかける。
大丈夫。……多分。
ここは月の楽園じゃないから大丈夫じゃないかもしれないけど、私たちは地球人だし、そこは地球の神様がなんとかしてくれるはず。
ああ! 神様仏様お助けください!
「わかった」
サリーはそう言って、ぐるんと方向転換をした。
その衝撃で、真鍋の腕が一瞬抜けそうになる。
真鍋は慌てて望の体を抱え直すと、顎で望の頭のてっぺんを押さえた。
「痛い! 顎が刺さって痛い!」
「ええい! わがまま言うな!」
これ、最後、どうやって降りるんだっけ?
そうだ。確かぐるんって体が180度回転したんだった。
真鍋くん、二度目だけど、足大丈夫かな?
思ったそばから、体がぐるんと回転した。ジェットコースターで落下を始める瞬間のように、体がふわりと浮いた。その気持ち悪さに、望は目をギュッとつぶって耐えた。
衝撃を予想して望は体を固くしたが、意外なほど軽やかな音とともに、望たちの体は地面に着いた。
真鍋の体がよろめいて尻餅をついた。望はそれに引っ張られて一緒に尻餅をつく。
「つ、着いた……」
望は地面を手で触って確認した。手のひらに当たるのは砂利の感触だ。こんなに砂利を愛しく思えたのは人生で初めてかもしれない。
「どけ」
体の下から低く唸る真鍋の声がする。
「ああ、真鍋くん。大丈夫?」
望は振り向いて真鍋に声をかけた。
「だからどけって。当たってるんだよ」
「え、やだごめん!」
望は慌てて真鍋の体の上から飛び退いた。
サリーが望の肩にぴょんと乗ってくる。
「のんちゃん、サリー、跳ぶの、うまくなった。のんちゃんもたっくんも、いたくないね。サリーすごいね」
「本当だね! サリー、跳ぶのがうまくなったね。やればできる子だってわかってたよ。さすが私のサリー。よ! 有言実行! よ! できる子! サリーは偉いね。一番だね」
望はサリーの頭を撫でながら思いっきり褒めた。
「お前、本当に……こんなことがあった後でよく普通に会話できるな」
真鍋は肩で息をしながら低い声でつぶやいた。
「じゃあオフィスに帰って荷物を取って帰ろうか」
望は砂のついた服をポンポンと手で叩きながら立ち上がった。
ついでに真鍋に手を貸してあげる。真鍋は望の手を取って立ち上がった。
「オフィスに帰るのはいいんだけど、ここどこだろうな?」
あたり一面に広がっているのは、工場のような灰色の建物群だった。
望たちが着地したのは、駐車場らしきところだ。
使われていないのか、それとも夜には稼働していないのか。街灯がポツリポツリと灯っているだけで、人っ子一人いない。廃屋をめぐるツアーに使われそうな、薄気味悪い雰囲気の場所だ。
「どこだろうね?」
望は同意すると、真鍋の顔を気まずげに見上げた。
怒っているかと思いきや、意外にも真鍋は楽しそうに微笑んでいた。
真鍋の頭上にあるのはまんまるの大きなお月様。
月の光に照らされた真鍋は、雑誌のモデルになりそうなほど輝いていた。
「まあ、なんとかなるだろう。ここは地球なんだ。一歩を踏みしめられるありがたさに感謝しながら歩こうぜ」
真鍋は望の手を掴んだまま、歩き出す。
サリーは望の肩の上にちょこんと座って、スヤスヤと寝息を立て始めた。
「月が綺麗だな」
「本当だね。さっきまであそこにいたなんて信じられないね」
真鍋は望の顔をちらりと見て、クスッと楽しそうに笑った。
「何?」
「いや、何でも。それより腹が減ったな。なんか食って帰ろうぜ」
「焼肉! 焼肉しようよ」
人気のない建物の路地裏に、二人の声は思いのほか響いた。それが二人で秘密を共有しているようで、望は嬉しくなって言った。
「なんでまた? 別にいいけど」
「えっとね。この前テレビで見たんだけど、台湾の人は十五夜の日にバーベキューをするんだって」
「へえ。月餅だけじゃないんだな」
「知らなかったでしょう?」
望は得意げに笑った。
「なんでバーベキューするんだ?」
「え。わかんない」
わかんないのかよ、と真鍋は楽しそうに声を立てて笑った。つられて望も笑い出す。
「よし食べよ。今日は金曜日だし、ニンニクたっぷりなタレつけて、がっつり食べよ」
「そうだな」
歩き出した二人のことを、月は優しく照らした。
お月さまに映る餅つきをしているうさぎの顔は、笑っているように見えた。
第一章はこれにて完結となります。
番外編を挟んで、第二章は来春頃の再開を予定しております。
お付き合いいただいた読者の方にお礼申し上げます。




