23. 山を目指す
◆◇◆◇
望は地面に両手足を付けて、四つん這いになって息を整えた。
「ゼェハァ、ゼェハァ」
「もう、お二人ともだらしがないですね。これくらいの距離でへばるなんて。もう少し上まで飛びたかったのに」
ルナは鼻息をふんと出して呆れている。もし人間のように腕を組むことができたら、そうしていただろう。
そ、そんなこと言われたって……
望は言葉を返そうとするが、心臓どころか頭の血管までドクドクと激しく脈打っていて、言葉を出すことができない。
真鍋は魂が抜けたように呆けた顔をして横になっている。
首が不自然なくらいに曲がってるけど、あれ、大丈夫なのかな?
ルナが二人の体を道連れに穴の中心に飛び込んだ直後、二人の体は落下した。
どれくらい落ちたかはわからないけど、少なくとも望の心臓が縮み上がるくらいには下に落ちた。
真っ暗な穴の底に吸い込まれていくような感覚は、恐怖以外の何物でもない。頭上の光がどんどん小さくなっていって、それと一緒に魂が体から抜けるかと思った。
突然ぶわっと足元から強い風が吹き上げてきて、望たちの体は今度は急上昇した。そこから何がどうなったのか、いろいろな方向に吹き荒れる風にぶつかり、ぐらぐらと揺れて、望は鈴木の顎に二、三度ほど額を打ち付けた。
「さあ、跳びますよ!」
ルナはそう言うと、風の上でぴょんと飛んだ。
でもルナは大切なことを忘れている。いつもだったらルナの足で着地しているであろう風だけど、今、ルナの体は望と真鍋の間に挟まれている。
そうなるとどうなるか。
代わりに、望の体か真鍋の体が風に着地して、跳び上がることになる。
望も何度か風に当たって飛び跳ねはしたが、いかんせん真鍋の方が体が大きい。そうなると、ほとんどの負担は真鍋の方に行くわけで。
「グエ」
真鍋が潰れたカエルのような声を出した。
「ちゃんとに足で着地してください! 思いっきり足で飛び跳ねるんですよ!」
ルナが指示を飛ばす。
「そんなこと言ったって、どこにぶち当たるかわかんないんっ! グエ」
今度は腰で風を受け止めたらしい。真鍋はまた潰れた声を出した。
「真鍋くん、大丈夫!? いった!」
望は思い切り自分の舌を噛んでしまった。
「いいからお前は黙ってろ! わっ!」
次は右肩にぶつかったらしい。体が横に逸れた。
それでもまだ上に上がっていた時は良かったのだ。方々にぶつかりつつも、順調(とは言えないけど)移動して行った。
恐ろしいのはその後のこと。
星に重力がある限り、全てのものは地面に引っ張られる。
それを身をもって体感したのは、だんだん風の力が弱くなってきた頃だった。
体が徐々に落下し始める。勢いよく体が風にぶつからないかわりに、ルナが跳ぶために着地する箇所も少なくなるわけで。
そして、無情にも風は途切れる。
あ、フリーフォールだわ。
望の頭に浮かんだのは、遊園地のアトラクション。
ふわっと一瞬体が浮いた感覚がして、望たちの体は急降下した。
「ぎゃゃー!」
「もう少しこらえてください!」
ルナが慌てたように叫んだ。
「無理、無理、無理、絶対無理! もう落ちるっ! 落ちるからぁ!」
……ということがあった上での、ルナの『お二人ともだらしかないですね』発言なのだ。
確かにルナは優秀なのだろう。おかげで傷一つなく望たちは地面に降り立った。
頑張った。私たち頑張ったよねえ。真鍋くん。
望はピクリともしなくなった真鍋の顔を、ボサボサになった髪の毛をかき分けて見つめた。
あ。髪の毛乾いてる。
『乾燥機』ねえーー! 確かにそうだねーー!!
命懸けすぎやしないか。
「お二人とも、地球から月まで跳んできたじゃないですか? 何がそんなに怖かったんですか?」
いまさら、とルナは純粋な眼差しで聞いてきた。
「な、何が? ……何がだろうね?」
望が言えたのはそこまでだった。働かない頭を動かして考える。
地球から月へ飛んだ時は、びっくりしすぎて驚く暇もなかったっていうのもあるけど、月の光に引っ張られて、導かれている感覚があった。これがお月様の加護なのかもしれない。
でも、この風はただの風。凧じゃないんだからさ、空を悠々と舞うっていうわけにはいかないんだよ。
「ふふふふふ、俺は風になった。風になったんだ」
虚な目のまま、唇もろくに動かさず、真鍋が弱々しく言葉を発した。
「ふふふふふ、俺は風だ。空を舞う風だ。ふふふふふ」
どうしよう?
真鍋くんがより一層おかしい方向にいっちゃった。
社会復帰できるのかな? この人。っていうか、私もか。
ええ、いやだ。もう会社行きたくない。
突発的に出社拒否が出た。
って、そんな現実逃避をしている場合じゃなくて。
なんとか乱れていた息を整えた望は、あたりを見渡した。
相変わらずの鬱蒼と茂る森の中だ。木々をすり抜けて着地したルナはやっぱり優秀だ。
お目当ての『もくもくのお山』は――
「ね、お山、結構遠くない? あの山だよね?」
「だから言ったじゃないですか。もう少し先まで進みましょうって」
「うんそうなんだけど」
人間の体には限界ってもんがね……
「さあ、時間を食ってしまいました。さっさと行きますよ。山の上までお休みはできないですからね。覚悟して歩いてくださいね」
ルナはビシッとお山を指し示す。
ルナが指し示した先(もちろん指では示せないのだが)には、山々が連なっている。その真ん中にある小さめの山のてっぺんからは、もくもくと煙が出ている。
「何の煙?」
望は気を取り直して聞いた。
「あれは火山です」
「へえ。月に火山なんてあるんだね」
「火山って活火山か? さっきから気になってたんだよ。白い煙がずっと出てるから」
真鍋はいつの間にか起き上がって、さりげなく会話に加わると、腕を組んで眉を顰めている。
あ。再起動した。
「そうですよ」
ルナは何てことない風に答えた。
「へえそうなんだ、すごくもくもくしてるね」
真鍋は呆れた顔で望を見た。
「お前、話聞いてたか? 活火山だぞ? 今現在煙が出てるんだぞ? いつ噴火するか分からないんだぞ」
「ええ! 大変じゃん!」
「どうりで温泉なんてあるわけだ。するっていうとこのあたりの地質は……」
真鍋はぶつぶつと考え込むように独り言を始めた。
「のんちゃん、大丈夫ですよ。あそこのエネルギーは我々うさぎたちが有効に活用してますから。とりあえず行ってみましょう。十五夜のメインイベントはもう始まっていますよ」
◆◇◆◇
山登り。
ひーひー息を荒げながら、望は山を登っていった。
日頃の運動不足がこたえているらしい。
学生時代は運動部だったから、体力はある方だと思っていたのに。
社会人恐ろしい。こうしてオフィスワークの人間は体力が減っていくんだろうな。
よし。これからは、駅の階段を使うようにしよう。エレベーターなんて使ってる生活をしているからいけないんだ。そう思いつつ結局使っちゃうんだけどね、エレベーターって便利だよね。
隣を歩く真鍋は、息を乱すこともなく、ゆっくりと望のペースに合わせて進んでいる。八つ当たり百パーセントだけど、時々望の方を『大丈夫かこいつ?』と言う目で見てくるのが憎たらしい。
私に体力があったら、うさぎみたいにぴょんと一跳びして、『やだ、真鍋くん、大丈夫?』と山の上から心配してやるのに。
急な上り坂になると、真鍋は先に歩き始めた。望は見よう見まねで真鍋の足跡を追っていく。ほんとうはもう少し歩幅が広いはずなのに、小さく刻んで歩いてくれるのが望のためだと気づいたのは、少し周りを見る余裕ができてからだ。顔の高さの枝を避けてくれたり、滑りやすいところは先に注意してくれたり。
「ね、真鍋くんさ、回復早くない? ってゆうか山登り慣れてない? もしかして山登りが趣味なの?」
「別に趣味ってほどじゃないけど、時々登ってる。人生何があるかわからないからな。山でサバイバルすることもあるかもしれないし」
……この人はどういう人生を想定して生きてるんだろう? 山でサバイバルすることなんて、ある?
でもまあ私も、無人島に飛行機がクラッシュするサバイバルな海外ドラマを見て、自分だったらどうするかなと想像したことはあるし。男の子ってこういう遊びが好きなのかもしれない。
望は気を紛らわすためのおしゃべりはやめて、山登りに集中することにした。