21. 呪
「ああ! 俺のスマホが! ……水没っていうか……なんだこれ?」
気になった望は真鍋の後ろからスマホを覗き込んだ。
「うわっ」
思わず望は仰け反って声を上げた。
スマホの画面は真っ黒だ。電源が入っていない画面は真っ暗なものだから、それはおかしくない。では何がおかしいのかというと、平面で均一なはずのスクリーンの黒が、時々闇がうごめくようにゆらゆらと揺れていることだ。
――ゆらゆら
――どろんどろん
――ぐじゅぐじゅ
そんな音が聞こえてきそうなほど、闇は生き生きとスマホの中を踊っている。
そのまま魅入られたように二人が画面を注視していると、やがて濃い闇が集まって、『呪』という漢字が浮かび上がってきた。
「あー……真鍋くんのスマホ……呪われてるよ」
「そ、そんな」
スマホを持つ真鍋の手が震える。
そりゃあ呪われたら怖いよね、と望はそっと真鍋の肩に手を置いた。
「俺の企画書のデータは!? 見積もりは!?」
「え?」
「なんでこんなことになってるんだ」
真鍋は画面をタップしたり、電源ボタンをいじったりと忙しない。が、真鍋がいじればいじるほど、『呪』の文字は影を増す。
「やばいね、これ。写真とか全部消えちゃってるんじゃない? 会社のスマホ?」
「いや、プライベートのやつ。写真が消えたら困る。XX社の担当はすっとぼけた顔をして見積もりをさらっと変えてくるんだよ。証拠としてスクショを撮っておいたのに」
「仕事のことばっかりじゃん」
「それだけじゃない。この中には今まで俺が読んだすべての本の記録と、今までの人生で取ったすべての賞の記録が入っている」
ええ。
「いやなんかもっとさ、楽しい思い出とか、ほら、彼女と撮った写真とか、旅行の写真とか、友達とかとメッセージのやり取りとかさ」
「俺は必要ないデータは定期的に断捨離するようにしている。だから大丈夫だ」
えええ。
ルナがぴょんと真鍋の頭の上に登ってスマホの画面を覗き込んだ。
「ここはうさぎの楽園ですから、こういった人間の摩訶不思議なアイテムは持ち込めないようになっています。持ち込んだが最後、すべて呪われますね」
「ほえー。そうなんだ。大魔女様はすごい人なんだね 」
「もちろんです。なにせこの世が誇る偉大な大魔女様ですから」
ルナは胸を膨らませて、誇らしげに言った。
「そんなことよりどうすんだよ、これ。地球に戻ったら直るのか?」
「まあ無理でしょうね」
ルナは冷たく言った。
望もそれには同意だ。
「真鍋くん、呪いがあるかないかに関係なくても、がっつり水没してるから直りはしないんじゃない?」
真鍋は項垂れた。
「でもバックアップは取ってあるでしょう?」
真鍋くんはその辺はしっかりしていそうだから大丈夫だよ、と励ますつもりで望は言ったのだが。
「取ってはいるけど、まさかそのバックアップまで呪われてるなんてこと……ないよな?」
真鍋は縋るような声でルナに聞いた。
「うーん、バックアップって、クラウドサービスのことですよね? ああいったバーチャルなものは、意外と魔法と親和性が高いですから、もしかしたらそこまで呪われてるかもしれませんね 」
「ルナ、クラウドサービスなんて知ってるの? 本当に物知りねえ」
「いえ、それほどでも……ちょっとした一般知識ですよ」
ルナは照れたようにもじもじとしながら、真鍋の髪の毛を齧った。
「いてててて。頼む! 呪いをどうにかしてくれ! あの企画、今週末までが期限だったんだよ。あと少しスマホで修正してから送ろうと思ってたんだ!」
「たっ、大変申し訳ない変なことに巻き込んでしまいまして」
望は頭を下げた。
そういえば、あの時間まで真鍋くんが残ってたってことは、真鍋くんは残業をしていたということ。人は仕事があるから残業をするわけで、その働いた分がおじゃんになったら、そりゃ悲しくもなる。
「ね、ルナ。どうにかできないかな」
「うーん、そうですね。大魔女様にごめんなさいをするしかないですね。それで許してもらえるかは、わからないですけど」
「大魔女様はどこにいらっしゃるの?」
ルナは悲しそうに目線を下げた。
「大魔女様は……儚くなられて永い時が経っています。ですが、大魔女様を奉っている神社があります」
「じゃあそこに行こう! ね? 真鍋くん」
「ああそうだな」
「残念ながらその神社は少々アクセスが悪いところにありまして。今から行くのはちょっと厳しいですかね。行っている間に、地球の時間で夜が明けてしまいます。そしたらお二人は地球に戻ることができなくなりますよ」
それは困ると二人は顔を見合わせた。
「でも大丈夫です。今夜は十五夜。うさぎたちが月に帰ってくるのは、十五夜を祝うためです。そこで大魔女様へ感謝を込めて、捧げものをします。誠心誠意、心を込めてお祈りをすれば、もしかしたら願いを叶えてくださるかもしれません」
「よし行こう。今すぐ行こう。なんだってやってやる。ルナ、どっちへ行けばいい?」
今までいやいやながらについてきた真鍋だが、ここにきて積極的に動き出した。エンジンがかかったようだ。真鍋は会社でよく見せるようなキリッとした顔をしている。
こうしていると格好いいんだけどね。女子社員がキャーキャー言うのもわかるわ。
望はうむ、と頷いた。
うさぎさんも真似をした。
「そんなに慌てずに、体を乾かしてから行きましょう」
急かす真鍋をよそに、ルナはのんびりとしている。
「大丈夫だ、体はすぐに乾く。それより先を急がないとって、ルナが言ったんだろうが」
「やれやれあなたって人は」
ルナはふうとため息をついて、額に前足を置いた。
「ここにか弱い女子が、全身ずぶ濡れで立っているのですよ。あなたはそれを無視するのですか。配慮ができない男は嫌ですよね、のんちゃん」
「いやあ、私はどっちでも」
望は言葉を濁した。
ここにドライヤーがある気もしないし、だったらここにいても、歩いていても、あんまり違いはない気がする。
「パンプスが濡れてて気持ち悪いけど、しょうがないよ、行こう」
真鍋はちょっと気まずい顔をした。
「そうだよな。ごめん。なんだったら、俺がおぶって行くよ」
真鍋は両手を広げた。
「いえ、それは結構です」
望は手でノーを作ってきっぱりと断った。
ルナは真鍋の肩の上でぷっと吹き出すと、ぴょんとジャンプした。
「こちらへついてきてください。乾燥機があります」
「乾燥機があるの?」
良かったね真鍋くん、と望は真鍋の方を振り向いたが、真鍋は顔をしかめている。
「どうしたの?」
「今までの流れからいって、ろくなことにならないのがわからないのか」
真鍋は真顔で望に問いかけた。
「確かにそれは……」
二人は微妙な顔をしながら、ルナについて行った。