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十五夜の夜、うさぎは月に還る  作者: 上条ソフィ
十五夜の夜、うさぎは月に還る
20/38

20. 陸に上がる

「急ぐって?」

 もう少しここに居たいなと望は辺りを見渡した。


 うっすらと湯気が上る水面は、ところどころ、ぽこぽこと波立っている。地下からお湯が湧き出ているのだろう。

 望たちが体当たりのジャンプをした飛び込み台の脇からは、川から淡い黄金色の水が細く入り込んできている。川の水はやがて温泉水に混じり合っていく。


 このぬるま湯(文字通り)にもう少し浸かっていたい。肩まで浸かって、頭にタオルを置いて。日本酒をくいっと一杯、なんて贅沢は言わないから、せめてラムネでも。

 夏休みの終わりをぐずる子供みたいだとは分かっていても、手放すのは惜しすぎる。


 望は期待を込めてルナを見た。ルナは首を振った。


「そろそろ向かいますよ」

「えー、向かうってどこに?」

 唇をとんがらせて望は聞いた。

「それはもちろん、今日この日のために、うさぎたちがわざわざ集まった目的を果たすためですよ」

「あ、目的あったんだ?」

「もちろんです。ただでさえ協調性がない我々うさぎたちが集まった目的はただ一つ」

 ルナの目がきらんと光った。

 楽しそうな雰囲気に望も笑顔になる。望はルナの言葉の続きを待った。

「ふふ。見てのお楽しみです。さあ、行きましょう」

 ルナはするりと望の腕の中から抜け出すと、岸へぴょんと跳んだ。

 望も手で葉っぱを漕ぎながら、岸に向かって行った。後ろから真鍋がぱしゃぱしゃと泳ぐ音がする。


「うさぎさーん! 行くよ!」

 うさぎさんはお友達にバイバイすると、望のところへ戻ってきた。

「のんちゃん、うさぎうれしい。いっぱいあそんで、もっとあそぶ」

「そうだね、きっと面白いことがあるんだね。私、わくわくしてきた」


 後ろから真鍋がこれみよがしにため息をついた。

「よし、俺は腹をくくった。何でも来い」


 え。何その気合い?


 ◆◇◆◇


  「でも行くって言っても、さすがにこのずぶ濡れのままだと」

 岸辺まで来ると、望は火照った頬を冷ますように顔に手を当てた。手も全身も温かい。血行がとても良くなったようだ。

 この温泉、地球にも欲しい、と望は名残り惜しそうに温泉を振り返った。


 月の温泉成分が地球のものと違うからか、それとも大魔女様の加護のおかげなのか。ここの温泉は本当によく効く。

 いつもパソコンとにらめっこばかりで、つらかった眼精疲労も、偏頭痛も、腰痛もとても軽くなっている。

 しかも、お肌がツルツル。ハニーリバーと温泉のダブル効果だからなのか、肌が水を弾くのがいつもよりだいぶ早い気がする。

 ほっぺたもツルツル。残念ながらメイクはガッツリ落ちているみたいだけど、いいのだ。仕事はもう既に終わってて、あとは家に帰るだけなんだから。

 思えばだいぶ寄り道したもんだね。


 望と真鍋はルナに促されるように温泉を出た。

 うさぎさんは一足先に出て、ちょっとしたビーチになっているところで日向ごっこをしているお友達に挨拶をしている。うさぎさんがぴょんと望の肩に戻ってきた。


「ああ……」望は思わずため息をもらした。

 さすがに陸に上がると体がずっしりと重い。小学校の頃、プールで遊んだ後みたいだ。

 ポカポカの日差しと、けだるい体。

 このままお昼寝なんてしたら最高なんじゃ……


 望が頭をこっくり、こっくりと漕ぎ始めると、「及川、ジャケットを脱げ」と真鍋が望に向かって手を差し出してきた。

「真鍋くんいきなりどうしたの? さっきあんなに脱ぐなって言ってたのに」

「それはお前が全部脱ごうとしたからだろう。違う。スーツのジャケットだけでも絞れば少しマシになるかと思って。そのままじゃ重いだろう」


 それもそうかと望は悪戦苦闘しながらジャケットを脱いだ。

 決してジャケットがキツくなったから脱ぎにくい訳ではない……はずだ。くそう、アイスか。アイスのせいか。だって夏バテして食欲が減って、せめて栄養を摂ろうとしてね? アイスは水分と糖分と脂肪分が含まれているから、夏バテのときはバランスが良いんですよって、テレビでね?


 ジャケットの下に着ているのは、ベビーブルーのふわふわの半袖のシャツだ。

 ジャケットはさすがに長袖を着ているけど、まだまだ暑いこの季節、中まで長袖のワイシャツなんて着ていられない。内勤の子はだいたいこのスタイルだ。営業のフロアは真冬並みに寒いから膝掛けが必須らしいけど、総務は省エネをモットーにしてるからみんな薄着だ。


 望はジャケットを手渡した。真鍋は望を凝視している。

「えーっと、真鍋くん、お願いしていいのかな」

 なかなか受け取ってもらえない。

 これは、やっぱり自分で絞れということなのだろうか。

 真鍋は我に返ったように望からジャケットをひったくると、横を向いた。

「お前な、もうちょっと厚手のシャツを着るよ。なんだ、そのペラペラの薄っぺらいやつ」

「そんなこと言ったって、まだ暑いし、オフィスで対応中は上着も着てるし、女子はみんな大体こんな感じだよ」


 真鍋は営業のオフィスにいるから知らないのかもしれない。外回りをする人にとっては、冷房がきつめの方がいいのだろう。ひざ掛けを持参している女子もいるなんてこと、知らないんじゃ。

 男の人だってもうちょっと薄着をすれば冷房がこんなにきつくなくていいんだけど、とは思うけど、そうもいかないのがサラリーマンの辛いところだ。日中に外に出てる人は本当にすごいと思う。


 真鍋は、力いっぱい望のジャケットを絞った。

 ぶちっとなにかがちぎれる音がして、黒のボタンが地面に転がった。

「悪い!」

  「大丈夫、多分これ、取れかかってたんだよ。だいぶアクロバティックな体験をしてきたから、緩くなってたのかも」

 望は真鍋からジャケットを受け取って、手で伸ばしてみた。なかなか残念な形になっている。


 よし、これはクリーニングだな。


 望はジャケットを丁寧に折ると、傍に抱えた。


「着ろよ」

「うん、後でね。そのうち」

 これくらいのペラペラのシャツだったら、ちょっとしたら乾く気がする。そうしたらジャケットを羽織ろう。

「そのうちじゃなくて、今すぐ着ろ」

 多分腕が通らない、と言いたくなかった望は、代わりに「真鍋くんってさ、もしかして学生時代、風紀委員とかやってた? ほら漫画とかでよくある、校門の前で立ってる人」と茶化してみた。

「やってねえよ、俺は生徒会長だった」

「ほぉー、できる男は若いときからできる男だったんですな」

 はっはっはっと誤魔化そうとしたのに、真鍋は望を無言で見下ろしてきた。

  望は仕方なくジャケットの袖に手を通した。すんなり入るかと思われたが、肩で突っかかった。


「…………」

 諦めたい。


 望が遠い目をしていると、今度は真鍋が自分のジャケットを脱いだ。シャツが体にぴったりと張り付いている。


 これはなんとも目のやり場に困るやつだ。


 肩とか、胸板とか、腕とかが、透けて見える。筋肉ムキムキではないけど、引き締まった体は、なんとも独特の雰囲気を醸し出していて。


 望はぱっと顔を背けた。


 みっ、水も滴るいい男ってやつか。すごく色気が出てる気がする。これが男の色気ってやつか。なるほど、なるほど。


 これくらいで赤くなるものかと、望は心の中で平常心を保とうと必死だ。目を逸らすのはなんか負けた気がするから、敢えてガン見してやる、と謎の競争心が湧いてきた。が、実際にはチラ見して、また目を逸らすということを繰り返している。


 挙動不審な自覚は、ある。十分に。


「何こっち見てんだよ、すけべ」

 真鍋がそっぽを向きながら言った。

「いえ、私のことはお構いなく、どうぞ存分にその上腕二頭筋を発揮してください」

「なんだよ。俺はさっきお前のことを見ないでやったのに」


 そういうことか。ペラペラのシャツが貼りついたら、そりゃあ気にもなるだろう。でもインナーも着てるしな。残念ながら今までの人生で胸の大きさを褒められたことは一度もないから、見るほどのものもないだろうと思いつつも、お目汚し申し訳ない。


「はいはいわかった、見ないであげるから早く絞りなよ」

 望は真鍋に背を向けると、ルナの方を見た。ルナは心なしか、ニヤニヤしている気がする。髭がピクピクと動いている。

「……ルナ、どうしたの?」

「いいえ、何でもないですよ? ただ面白いなと思って」

「うるさい、ルナ黙れ!」

 真鍋が望の肩越しに叫んだ。

「青春ですねえ」

「のんちゃん、せいしゅんだね」

 ルナの背中に乗っていたうさぎさんが、あたらしいことばをおぼえた! と嬉しそうにしている。


 うーん、ちょっと違うような。でもかわいいからいいか、と和んでいると、背中から真鍋の悲鳴が聞こえてきた。


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