2. ご紹介します。うさぎさんです。
「おい、何をやっている」
「あ」
やば。
騒ぎを聞きつけたのか、他の部署の人が来たようだ。
「なんで窓を叩いているんだ。危ないだろう」
…おっしゃる通りでございます。
スーツ姿の男性がずんずんと望のほうに歩いててくる。薄暗いオフィスの蛍光灯では、顔をはっきりと見ることはできないが、明らかに警戒されているようだ。
「えっと、その、忘れ物を取りに来てですね」
しどろもどろに言い訳を始めた望は、望のすぐ手前まで近づいてきた男性に、思い切り不審な目で見られた。
違う!怪しい人じゃないから!確かにうちの会社はセキュリティーがゆるいから誰でも入れるオフィスだけど!社員です!
「ああ?お前、総務課の及川か」
男性が、なんだよ、といったふうに肩をすくめた。
げ。知り合いだった。
望みは、思わず一歩後ずさった。
さすがにこの距離であれば、望にも相手の顔が見える。相手が自分の名前を覚えていることに少し驚いたが、望も不自然にならないように会話をつなげた。
「あー。営業の真鍋さん。こんなに遅くまで残ってるんだ。営業は大変だね」
望はハハハと誤魔化し笑いをしながら話を逸らそうとした。
このまま立ち去ろう、と一歩踏み出したところで——
「手に何を持ってるんだ」
ぎくっ
真鍋は不自然に両手を閉じている望に鋭い視線を投げかけた。
咄嗟に手を後ろに隠した望は隠し事ができないタイプだ。
「……何か盗ったのか」
真鍋が低い声で、望に聞いた。
「とっ!盗ってないし!これ、私物のうさぎ!」
…のペーパークラフト
手を開けて真鍋にうさぎさんを見せようとした瞬間、うさぎさんは勢いよくぴょぉぉんと天井まで跳ねた。
「あ」
「…は?」
真鍋の目が点になっている。
いつも動じないこの人を動揺させたうさぎさん。さすがです。
望は深くうなずいた。
「ふふ。見たわね。これであなたも共犯よ」
「は?え?なんで、なんだこれ?」
真鍋は、ぴょんぴょんと跳びはねるうさぎさんを捕まえようとうするが、うさぎさんは器用にその手をすり抜けた。
「ご紹介します。うさぎさんです。はい、初めましては?」
「うさぎさんって…なんだこれ?」
「私の私物のペーパークラフトのうさぎよ」
望は『私物』を強調した。私物ですから、会社のものじゃないですから。
「なんで跳ねてるんだ。バネか?モーターでもついてんのか」
「いいえ?100%紙ですよ。エコでしょう?」
望は、勝ち誇った笑みを浮かべた。
してやったりという顔を浮かべた望と、何言ってんだこいつ?と顔を顰めた真鍋がにらめっこをしていると――
がんっ!
うさぎさんが天井に激突した。結構な振動だ。
「うさぎさん!怪我してない!?」
さすがに痛かったらしい。うさぎさんはぽとりと地面に落ちた。紙の体が力無く横たわっている。
「うさぎ、月いく」
望の手のひらに掬われたうさぎさんは、弱々しく、でもはっきりと言った。
そこまでして……望は、うさぎさんの真摯な姿勢に心を打たれた。
「分かった。乗り掛かった船だわ。うさぎさんが月に行って帰ってくるまで、私ここで窓を開けて待ってるから。存分に楽しんできて」
待ってるから。必ず帰ってきて。
「おい!こいつ喋ったぞ!」
少し涙ぐみそうだった望を現実に引き戻したのは、パニックになった真鍋の声だった。
「いやーね、男は。これくらいのことで騒いで。柔軟性に欠けるわあ。この子はお利口さんなのよ。今から月に行くの」
「だー!意味わかんねーし!」
真鍋は、髪の毛をかき回して、地団駄を踏んでいる。
ああ、ありがとう。この人が動揺してくれるおかげで、私とっても冷静でいられるわ。
望は、余裕の笑みを浮かべた。
「いっしょにいく」
「え?」
「のんちゃん、いっしょにいく」
「ええ!私の小さい頃のニックネーム知ってるの!?」
「そこかよ」
動揺しながらも、しっかり会話を聞き取っていた真鍋がつっこんだ。
「のんちゃん、いつもじぶんのことのんちゃんっていってる」
あー、言ってるかも。心の中だけど。
「そっか。以心伝心ね。うさぎさん」
「おい!こいつお前のこと連れてくって言ってるんだぞ!攫われるぞ!エイリアンかもしれないぞ!」
「いやーね、男はいつまで経ってもSF好きで。エイリアンなんているわけないじゃない」
「じゃあこいつはなんなんだ!」
「うさぎはうさぎ」
「うさぎさんはうさぎさんよ」
声が揃った。
心の友よ!
気分が上がった望は鼻歌交じりに窓の鍵を開けると、窓をぱぁーんと全開にした。人工的なエアコンの空気から一転して、涼しくて乾いた秋の風がオフィスに入ってくる。昼はまだ暑い日もあるけど、日が沈んでしまえばすっかり季節が変わっていることが感じられる。
「結構風が強いけど大丈夫?」
「月、でてる。うさぎ、跳べる」
ぽわーん
月からうさぎさんに向かって、一本の光の筋が差し出した。
「じゃあ、私たちはこれからちょっと月に行ってくるから。真鍋くんはここでお留守番しててね」
望は、子供に言い聞かせるように真鍋に告げた。
そうだ。すっかり忘れてたけど、こいつは同期だった。あっちが私のことを『お前』呼ばわりするのであれば、私だって敬語を使う必要は無い。就業時刻はとっくに過ぎているのだ。
「ちょっと待てよ」
慌てたように真鍋が近寄ってきた。
冗談なのに。いくらうさぎさんが飛べるからと言って、さすがに月までは跳べないだろう。
望は両手のうさぎさんの顔を窓の外へ向けると、月の光が当たるところに手をかざした。
キラキラと輝くうさぎさんはいつもよりさらに愛らしい。
「うさぎ、跳ぶ」
ぴょん
えっと思ったときには、望の体は床から30センチほど浮いていた。
「おい!」
慌てて真鍋が望の腕を掴んだ。
望の体はガクンと引き戻された。
ぴょーん
うさぎさんがもう一度跳んだ。
今度は望と真鍋の体は窓枠を跳び抜けた。
「ちょっと!」
真鍋の手が望の腕にのめり込んで痛い。
「ちょっと、離してよ」
「離せるわけねーだろうが!俺たち今、宙を浮いてるんだぞ。手を離したら俺だけ落ちる気がする」
「じゃあもっとまともなところを掴んでよ」
「わかった」
そう言うと、真鍋は望のお腹に手を回して後から抱きしめた。
「ちょっと、変なとこ触らないでよ!」
「触ってねーよ。緊急事態だ。動くなって!落ちるぞ」
「うさぎさんが私を落とすなんてないでしょう!」
言い争いをする二人をよそに、うさぎさんはふわふわの雲に着地すると、軽やかにまた飛び跳ねた。
目まぐるしく風景が変わっていく。望たちの体は上空に掛かった薄い雲を突き抜けて、地球を飛び出した。
「やだ、真っ暗!これってもしかして宇宙?真空?息できなくない?」
「おい黙ってろよ、舌噛むぞ」
そういう問題なの?
そんなことを考えている間に、目の前に月が迫ってきた。