19. 月へ渡る条件
「はい。ここニ、三百年ほどでしょうか。どんどん月を訪れる地球の命は少なくなってしまいました。それはなぜか。我々は人間ではないので想像の域を出ませんが、おそらく明かりが原因ではないかと。
人間は夜になっても、明かりを灯すようになりました。明るければ、眠ることはできない。眠ることはできても、眠りが浅かったり、すぐに朝が来てしまったりします。その結果、月までたどり着く魂が少なくなってしまったのではないか、というのが我々の予想です」
「眠る時間が関係してるってこと?」
「はい。地球と月は距離が離れていますから、往復ではそれなりの時間を要します。かかる時間はまちまちで、子供のほうが早いですね。大人は現実のしがらみが多い分、時間がかかります。
のんちゃんは、眠りにつく瞬間が怖いと思ったことはありませんか?」
「うーん、特にないかな」
「俺はある」
真剣な声で真鍋が答えた。
「なんで?」
あー、疲れた。お休みー、って寝るもんじゃないの?
「意識を手放すということは、体が無防備になるということだ。その時に獣に襲われたら? 仲間に、家族に、寝首を掻かれたら?」
「いや、さすがに現代ではそれはなくない?」
洞窟に住んでいた時代でも、殿様の時代でもあるまいし。
「そういう恐怖が脳に埋め込まれてるんだよ、人間には。それに、身体に負傷がなくても、人は日中は心に鎧を纏って生きている。誰かの心ない言葉に傷つかないように、たとえ人と衝突しても、やらなければならないことを遂行できるように。意識を手放す瞬間には、その鎧が剥がれるんだ。その恐怖のことを言っているんだろう、ルナは?」
「まさにその通りです。硬い殻に覆われている魂は、子供も大人も柔らかいままです。ですが、月へと旅立つには、剥き出しの魂にならなくてはなりません。
子供はすこんと眠りにつくことができるでしょう? あれは、殻がまだそこまで硬くないので、あっさりと脱げるからです。大人は『鎧』を剥がされないように無駄な抵抗をするから、眠りに落ちる時間が無駄にかかるのです」
ルナは『無駄』を強調した。
「確かに。心配事とかあるとなかなか眠れなかったりするよね」
元カレのことでいろいろ悩んでたときは、あんまりよく眠れなかったな。
肌は荒れるし、目は充血するし、頭は働かないし、ほんと最悪だった。
「人間が躊躇するのも分からなくはないのです。旅路では何に遭遇するかは分かりませんから。その旅路も楽しいと私は思うのですが……
そんなことにぐずぐずして、さらに睡眠時間が短いと、せっかく月へ行っても帰ってくる時間がなくなる。魂の防御反応で、月へ旅立つこと自体をやめてしまう魂が多いのですよ」
え。ちょっと待って。
「月に旅立ったまま、魂が体に戻ってこれなかったらどうなるの?」
「人格の一部が変わりますね。最悪」
「それは……私、時々夜中にトイレとか起きるんだけど……?」
「それくらいだったら大丈夫です。夢を見ている途中で起きても、すぐに眠れば夢の続きが見れるでしょう。それと同じです」
望は頷いた。
いい夢だとちょっと得した気分になるし、悪い夢だと怖さが倍増するけど。
「いずれにしても、魂の全てが一気に月まで旅立つわけではないので、魂が体から抜けて、すぐに抜け殻になってしまうことはありません。数日内にしっかりと睡眠を取れば、月に旅立っていた魂の一部もしっかりと人間の体に戻るので安心してください」
「そうなんだ、よかった。眠るのにちょっと緊張しちゃうところだった」
「リラックスして眠るのが月へ旅立つ一番の秘訣ですからね、安心してください」
「そっか、じゃあこれからもしっかり睡眠をとろう」
「……今の話を聞いても、のんちゃんはまだ月に来たいと思いますか?」
ルナが躊躇いがちに聞いた。
「もちろん。こんなにいい所だもん。何回だって来たいよ。でも、せっかくなのにもったいないね。明るくて便利になったけど、月に来るチャンスも逃してるだね、私たち」
そういえば、ブルーライトも睡眠にはよくないって言うしな。
「明るいことが良いことなのだと、暗闇は消し去らないといけないと、そう思うからこそ、人間は夜に明かりを灯すのでしょう?」
ルナはまっすぐな瞳で望を見上げた。
「それは……」
そう……なのかもしれない。ご先祖様たちが頑張ってくれて、そのおかげで豊かになった。その恩恵を享受している私たちが、何を言えるだろう?
「人間くらいらしいぞ、わざわざ睡眠時間を削って、働いたり、娯楽に興じるの。人間だけじゃなくて、動物も植物も月に来てないっていうのは、もしかして明かりがあるからか?」
真鍋が皮肉げに笑ってから、眉を顰めた。
「どういうこと?」
望は真鍋を見た。真鍋はいつのまにか体を起こして、小さい葉の上に器用に座っている。腕を組んで、右手の人差し指は顎の下につけている。考えているその表情は真剣そのものだ。
「人間は明かりを灯すでしょう。人間の住む家に、ビルに、工場に、道に、一晩中明かりがついていれば、その近くにいる植物や動物はうまく眠ることができません」
「道……街灯のことか。確かに、防犯の観点から日が明けるまで街灯は消えないからな」
「車のライトなんかもあるしね」
真っ暗なところもないわけではないだろうけど、昔よりは確実に減っているだろうしな。
「それだけではありません。月に旅立つには、もう一つ、重要な条件があります。それは、『月への往復は、地球から月が見えている時間のみ』ということです。今回、のんちゃんのうさぎが月まで飛べたのは、月の光が地球を照らしていたからです。今夜のような特別な月光は稀だとしても、通常の月の光にも魂を引き寄せる力があります。その光を道標として魂は移動するのです」
「うーん、それは……」
お月様が出てて、眠ってて、なおかつリラックスしてる時ってこと?
「それは現代人には厳しい条件だろうな。夜勤の人だっているし、上限の月なんて早くに登って早くに落ちてしまう。いくら日が暮れたからと言って、六時七時台に眠れるかって言ったら無理だろう。今時、小学生だって十時位まで起きてるからな」
望が思っても口に出せなかったことを、真鍋はズバリ言った。
ルナは寂しそうに下を向いた。
「昔はそれほど難しい条件ではありませんでした。人々は日が落ちれば火を囲んで集い、やがて眠りにつく。必然的に月が出ている時間に眠っていたのです。現在のように、眠るのも起きるのも人間の都合に合わせるというわけではありませんでしたから。
でも、昔を嘆いても仕方ないことは皆、承知しています。
……だから、だから私はあなた方にここに来て欲しくなかった。うさぎたちがまた、人間と共に生きる未来を期待して欲しくなかったからです。それなのに……」
ルナは自嘲するように呟いた。「それなのに、私自身がその夢を捨てられずにいる」と。
抱きしめているルナの体は小刻みに震えている。
「ルナ……」
望の胸に熱いものが込み上げてきた。ルナをぎゅっと抱きしめる。
悲しむルナは見たくない。
うさぎにはみんな笑っていて欲しい。
ちっぽけな人間である私に、何ができるだろう?
目頭が熱くなる。
こぼれ落ちそうなのは、望の涙か、それともルナのものか。
頭の片隅を掠ったのは、遠い昔の記憶。
泣かないで。
笑っていて。
私の大事な――
くらりと眩暈がする。
闇に飲まれそうになった瞬間、ほっぺたに厚紙の感触がした。
うさぎさんがちゅっと望のほっぺにキスをすると、望の肩にひらりと乗った。
「のんちゃん、なかないで。うさぎ、のんちゃんのこと、月につれていってあげる。うさぎ、跳ぶの、じょうずよ。うさぎ、ぴょんってしたら、のんちゃんうれしいね」
「うさぎさん……」
それからうさぎさんはルナの顔の上に移った。
「ルナ、うさぎが、のんちゃん、つれてきてあげる。ルナ、さみしくないね」
「……そうですね、ありがとう。あなたのおかげで楽しい時を過ごすことができました。私は寂しくないですよ。あなたのおかげです」
ルナはうさぎさんの鼻先に自分の鼻先を擦り合わせた。
うさぎさんは、わーい! と飛び跳ねると、温泉に浮かんでいるお友達の方に遊びに行った。
離れたところで望たちのことを見ていたうさぎたちは、うさぎさんのことを歓迎している。
やがて楽しそうな笑い声が聞こえてきた。
「ふふ。子うさぎに慰められるとは。私もまだまだですね。さて、いつまでもこんなところに浸かっているわけにはいきません。急ぎませんと」




