18. 懐かしい
せっかくの温泉だというのに、服が皮膚にぴったりとくっついて気持ちが悪い。
望がそう呟くと、
「だったら脱いでしまえばいいんじゃないでしょうかね?」
とルナがなんてことないふうに言った。
「そうだね。せっかくだしね」
望は水を吸って重くなったジャケットを脱ごうとした。
真鍋くんのスーツの事をからかってたけど、私のこのスーツも、もうだめだろうな。
いや、確かこれウォッシャブルだったから、家に帰って洗って乾かせばいけるかもしれない。高級スーツじゃないって気が軽いわ。
……そういえばスマホは?
望は恐る恐るスーツのポケットに手を突っ込んだ。
ポケットに入っていたのは、ハンカチと飴の包み紙だけだった。
そっか。スマホはカバンの中に入れっぱなしだった。カバンはまだオフィスにあるはず。
よかった! スマホの水没なんて切なすぎる。でも、そもそも月って電波入るのかな?
そんなことを考えながら水に濡れたジャケットと格闘していると、やっと片腕が抜けた。
「ちょっと待った! お前、そんなハレンチなことするなよ」
「ハレンチって、どこの時代の人よ?」
「不公平だ! 男が脱いだらセクハラで非難ごうごうなのに、女だったらいいのかよ!?」
「いや、確かによくないね。でも、こんなに広いんだしさ、お互い背を向けて入れば、そんなに気にはならないんじゃないかな? ほら、海外だと男女混浴のサウナもあるって言うし。すごいよね。温泉ならまだしも、サウナって目のやり場に困らないのかな?」
「そういう問題じゃねえ。とにかく脱ぐことは禁止だ」
「えええ」
「禁止!」
「はいはい、わかったわかった」
望はあきらめて葉っぱの上に横になることにした。膝下だけ温泉の中でゆらゆらさせる。
川のせせらぎが聞こえる。
虫の鳴く音も遠くで聞こえる。
鳥の鳴き声も、地球とそう変わらない気がする。
地球と同じようで、でもところどころ違くて。
うさぎがのびのびと暮らす、うさぎの楽園。
「なんだか落ち着くね」
望は思いきり伸びをして、ふうと息をついた。
うさぎさんもルナも望の胸の上でのんびりモードだ。
「そうだな」
水面で仰向けになった真鍋が同意した。
また突っかかってくるかと思ったら、意外に穏やかな声だ。
「なんか懐かしい感じがするっていうか」
パシャパシャと水音を立てているのは、同じく温泉に浸かっているうさぎたち。子供のうさぎたちが、お友達と遊んでいるようだ。
ブーンと音を立てて耳元を通り過ぎていくのはミツバチか。
そういえば、風の匂いもほんのり甘い匂い気がする。何かのお花の匂いだろうか。
なんだろう、この感じ。
そうだ、季節の変わり目だ。
望は季節の変わり目の風を感じるのが好きだ。
日差しはまだ真夏かと思うほどに強いのに、足元に吹いてくる風はひんやりと冷たくて。
風が運んでくる匂いは、どこか遠くの地を思い起こさせる。
ギュッと掴んで離したくないのに、風はふわりと通り抜けてしまう。
悲しいと思うには甘すぎて、嬉しいと思うには切なすぎて。わくわくするような、何かが始まるような、何かが終わるような。もどかしくて、でもつい口元に笑みを浮かべてしまいそうな、そんな感じ。
クスッと隣で真鍋が笑った。
「どうしたの?」
「いや、小さい頃によく遊びに行ったばあちゃん家のことを思い出して。まだ幼稚園児くらいの頃なんだけど、俺がいきなりばあちゃん家の裏山で、『懐かしい』って言って泣き出したらしいんだよ。それが面白かったらしくてな。『幼稚園児が懐かしいって言葉を使うなんて』ってな。結構大きくなるまで、思い出しては笑われたもんだ」
くすぐったそうに真鍋が笑った。
望も幼稚園の頃の真鍋を想像して微笑ましくなった。
そう。
懐かしい。
何かが懐かしいのだ。
ずっと昔に住んでいた家のような、ずっと昔に見た風景のような。
心の琴線を優しく触れられるような、そんな感覚。
「あなたたちは……」
ルナは震える声で言った。
「どうしたの?」
望は思わず体を起こしてルナを抱き抱えた。うさぎさんもぴょんとルナの背中に乗った。
「あなたたちはきっと、以前に月に来たことがあるのです」
「そうかな? そんな覚えないけど」
「俺もないな」
真鍋も首を振る。
「もちろん生身の人間のまま月へ来ることはほぼ不可能です。ですが……」
不可能。私達って一体何なんだろう。
望と真鍋は同じ方向に首をかしげた。
うさぎさんも真似して体を傾けた。
ルナはごほんと咳払いをした。
「今回はいろいろイレギュラーなことがあったのでしょう。お二人は、『人は眠りにつくとき、夢の旅に出る』という話を聞いたことはありますか?」
「エジプトの方の伝説にそんなことがあったような気がする」
ピラミッドとかがあった時代の話だったような。
「人は眠りにつくとき、その魂は体から抜けて、夢の旅に出ます。その行く先は、かつてはほとんどが月だったのですよ」
「そうなの? 月の夢なんて見たことあったっけ?」
「大抵の人は、夢の内容は起きたと同時に、忘れてしまいますから」
ルナは寂しそうに微笑んだ。
「そっか。だから月が懐かしく感じるのかな」
「人間だけではありません。地球に生きる植物も、動物も、虫も、眠りにつくときには、月を訪れることがあるのですよ。もちろん全ての魂が月にたどり着くとは限りません。ここはうさぎの楽園ですから。うさぎに危害を加えようとする邪悪な魂は入ってこれません」
「……私、大丈夫かな?」
望は思わずそわそわした。
「なに挙動不審になってるんだよ、お前だったら大丈夫だろう」
真鍋が言った。
「そうだといいなとは思うんだけどさ」
あれだ。道を歩いてるときに向かい側からお巡りさんがやってくると、途端に『や、私、何も悪いことしてないです』って挙動不審になるのに似てるかもしれない。
正しく生きているかと改めて問われると、自信がなくなるものよね。
真鍋くんは堂々としてるけど。
この、男の人特有の、溢れる自信はどこから来るんだろう?
望は相変わらずだらんとしている真鍋を見た。
「ですが、今は月を訪れる人間の魂も、他の生き物の魂も、めっきり減ってしまいました」
いかんいかん、ルナの話に集中しないと。
「どうして? もしかしてみんなが邪悪になっちゃったとか?」
「そういうわけではないのですが……」
ルナはため息をついた。
「睡眠不足ですね」
「……睡眠不足?」