17. 温泉
遠目には崖のように見えた大きな岩だったが、近づいてみるとそれは斜め上にカーブを描いたものだということがわかった。
岩には水しぶきが絶え間なくばっしゃん、ばっしゃんとかかっている。
細かい水の粒がキラキラと反射して、岩の上には虹がかかっている。
わーきれい。見てるだけなら。はは。
斜め上に行くなら、正面衝突はしないっぽい。……のだけど。でもやっぱり乗り上げるのは確実なわけで。で、この勢いで乗り上げたら飛び上がっちゃうのも確実なわけで。
つるつるの岩に乗り上げて、勢いのまま上に登った……その先は?
そう頭の片隅で考えながらも、緑の葉は順調に岩の方に引き付けられていく。
勢いが弱まる気配はまったくない。葉はスムーズに岩の上に乗り上げた。
ぐんぐんと上に上がってゆく。
見えないけど、もしかしたらこの先は平らな地面なのかもしれない。
ほんのりと期待を込めて登りきった先は、一瞬平面かと思われたが、すこんと底が抜けた。
絶壁!!
「落ちる!」
「のんちゃん、私にしっかりつかまってください!」
望はルナの体を抱きしめた。
下に落ちるにしても、この子だけは助けないと!
望はルナを胸に引き寄せて、ぎゅっと目をつぶった。
ぐるん
なんだか一周した気がする。
体が急速に下に引っ張られていく。
落ちる!
地面に叩きつけられることを想定して体を固めた望だが、意外にもぱしゃんという静かな音を立てて、ルナとともにどこかに着地した。
望はそおっと目を開けた。
「あれ?」
望とルナは、葉ごと水の上に浮いていた。
五十メートルプールほどの大きさだろうか。木々に囲まれた湖のようなところだった。川の急激な流れとは打って変わって、静かな水面。トンボが水面に近づいて、水面を揺らして円を描き、静かに飛び立っていった。
このパターン、二度目!
うさぎだからなの? 跳ぶのが好きだからなの?
望は脱力して葉の上にうずくまった。
「……どういうこと?」
「のんちゃん、のんちゃん、ちょっと苦しいです。腕を緩めてください」
「ああ、ごめんルナ、大丈夫? どっか怪我してない?」
「大丈夫です。それよりのんちゃんこそ大丈夫でしたか? ここに来たのは久しぶりだったので、いささか興奮してしまいましたね」
ルナは体をぷるぷると振るわせた。
「そうなんだ」
望は呆然としたまま無意識にルナの体を撫でた。ルナは気持ち良さそうに目を細めている。
平和かよ。
「忘れてるかもしれないけど、俺たちもいるぞ」
急に後ろから声がして、望は体をびくりと震わせた。
「わっ。びっくりした。真鍋くん、いたの」
「いたのじゃねえよ。散々な目にあったんだからな……」
真鍋は望たちが乗っているものよりだいぶ小さな緑の葉に、両手と顔だけを乗せている。残りの体はだらんと水の中に沈んでいるようだ。
頭の上にはうさぎさんがちょこんと乗っていた。
「うさぎさん! よかった、見つかって。大丈夫だった? 」
「のんちゃん、うさぎ、またぴょんって跳んだ」
「そうなんだ。うさぎさんはすごいね。さすが私のうさぎさん」
うさぎさんはそわそわと体を動かしている。褒めてもらって嬉しいのだろう。
元気そうなうさぎさんとは対照的に、放心し切ったような真鍋くん。
気持ちは大変よくわかる。やっぱり跳ねるのって、うさぎの常識なのかな。人間には少々ハードルが高いということを、伝えたほうがいいのかな。
「真鍋くんも、大丈夫? ごめんね、一人で先に行かせて。うさぎさんのことを追いかけてくれてありがとう」
「いや、俺が自分で行くって言ったからいいんだけどよ。こいつを追いかけて……どうにか追いついたっていうのに、いきなりこいつ、右に急カーブしたんだよ。それで岩に衝突すると思ったら、岩の上を滑っていって。それで、どうやったのか知らないけど、こいつが頭の上でぴょんって跳ねたの。で、そのままこの水の中に突っ込んだんだよ」
「そうなんだ。ジェットコースターみたいだったよね」
「そんなもんじゃねえよ! ジェットコースターは安全装置があるじゃねえか。体一つであの岩から飛んだ俺の気持ちになってみろよ。なんでお前はこんなでっかい葉っぱに乗ってるんだよ?」
「ルナがこの葉っぱで行こうって言うから」
「俺にも渡してくれればよかったのに」
「え。まさか。体一つでって真鍋くん、葉っぱに乗らないであそこの岩をスライドしたの? 体大丈夫? 怪我してない? っていうか、そのスーツ、セミオーダーだって言ってなかったっけ?」
「体は大丈夫だ。いい感じに水が流れてたからかもな。ウォータースライダーみたいでほとんど摩擦はなかった。ある意味、スーパーマンみたいな気持ちを味わえたから、貴重な体験だったのかもしれないな。ははは。このスーツはもう諦めるからいいんだ。俺は営業のエースだから、これからどんどん稼ぐから……」
そう言いながらも、真鍋はしくしくといじけている。
「のんちゃん、うさぎ、このひとがおぼれそうだったから、はっぱ、あげたの。はっぱは、あそこのおともだちがくれた。のんちゃん、うさぎ、えらい?」
「そうだったんだ。うさぎさんは優しいね。真鍋くんのこと助けてくれてありがとね。あそこのお友達って、」
そう言って望が『あそこのお友達』の方を見ると、うさぎが数匹、ぷかぷかと水に浮かんでいた。手を振って頭を下げると、前足を振り返してくれた。
「だいたいお前」
真鍋はじとっとした目で望を見た。
「なに?」
「なにじゃねえよ。お前、なんでそんなに飄々(ひょうひょう)としてるんだよ」「飄々となんてしてないよ。普通にびっくりしたよ。死んじゃうかと思ったんだから」
「それが死にそうだった人間の態度かよ。さっきもそうだったし。月までジャンプして、あっさりとこっちの環境に馴染みやがって。普通な、もっとびっくりするもんなんだよ。俺の反応の方が正しい」
ええ。そんなこと言われても。
「ああ、でも、そうか。2回目だからかな。さっき、もっと大きなジャンプをしたんだもんね。だから今回は驚きの引きが早かったのかも。うさぎって跳ぶのが本当に好きなんだね」
望はうさぎさんを見た。
うさぎさんは望と真鍋の間をぴょんぴょんと楽しそうに飛び跳ねている。
「違う、そういうことじゃなくて……ああ、もう」
真鍋は水の中に顔を沈めた。と思ったら、急に肩を振るわせ始めた。
え、どうしよう? 真鍋くん溺れてるんじゃ。
望が手を差し伸べようとしたところで、真鍋ががばっと顔を上げた。
「はははははは」
真鍋は突然大声で笑い出した。
「……どうしたの? 真鍋くん?」
望はちょっと引き気味に聞いた。
「これが笑わずにやってられるか。こんなに愉快な思いをしたのは人生初めてだ」
「いや、それはさすがに大げさなんじゃ」
「大げさなんかじゃない。俺たちは今、人類未踏の地に立っているんだぞ。そういえば俺小さい頃、宇宙飛行士に憧れてた時もあったんだった。まさかこんな形で夢が叶うとはな。やあ、愉快だ。愉快だ。あはは」
そう言いながら、真鍋は小さい葉っぱをビート板代わりにして、ぱしゃぱしゃと泳ぎ始めた。
「大丈夫かな? 真鍋くん、いろいろあってリミットが外れちゃったのかもしれない」
望はこそっとルナに言った。
「大丈夫ですよ。あの方の頭の中は、本来あれくらいシンプルな構造をしているんです。それを何かと小難しく考えようとするから、拗らせただけですよ」
「ルナは観察眼が鋭いねえ」
「そんなことないです」
ルナは照れたように言った。
「それにしても、ここのお湯はあたたかいね。それに匂いも川の甘い匂いとはちょっと違う気がする」
「ここは地下からお水が湧き出ている温泉ですよ」
「温泉!」
「ハニーリバーで遊んだうさぎたちは、ここで余分な蜂蜜を洗い流して陸に戻るのです。ほら、何匹かうさぎたちがいるでしょう?」
よく見るとうさぎたちが思い思いの格好でリラックスしている。
「うーん、おしいことをしたな」
「何がですか?」
「せっかくの温泉なら服は脱いで入りたい」
ばしゃんと真鍋が水しぶきを上げてお湯に沈んだ。