14. ごめん
「大丈夫ですよ。あなたたちは月に認められた存在ですから。そんな恐ろしいことにはなりません。というか、帰ってもらわないと困るんですってば」
「ほら、ルナだってそう言ってるし」
「信じるのか、お前?」
「もちろん信じるよ。ルナとうさぎさんだし。それによく言うじゃん、『毒を食らわば皿まで』って」
「毒扱いなのかよ?」
「ただの例えだってば。私のモットーは『同じアホなら踊らにゃソンソン』です」
望はキリッとした顔でそう言うと、川の水を手ですくって飲んでみた。
「甘い! 美味しい!」
喉をすり抜ける、ちょうどいい甘さ。
こくりと飲み込むと、ふわりと蜂蜜の香りが鼻を突き抜けていく。
「すごく美味しい。甘露水ってこういうことを言うのかな」
「ローヤルゼリーが入っていますからね。お肌にもいいですよ」
「やった! 一杯飲まなきゃ」
望はさらに手で水を掬って飲み干した。
「くそっ」
真鍋は望の隣にしゃがみ込んで、両手で水を掬った。
両手のひらの上に輝く黄金色の水を睨む。
そしてゴクリと生唾を飲み込むと、目をつぶって一気飲みした。
「やっぱり飲むの?」
「お前だけ一人にするわけにいかねえだろうが」
とくりと望の心臓が跳ねた。
何、今の?
何でもない、何でもないったら。
望は自分にそう言い聞かせると、さらに川の水を口に入れていく。
五臓六腑に染み渡るおいしさだ。
何かが体の中に満たされていくような感覚がする。
「のんちゃん、いつもかいしゃで、あまいもの、たべてるね。のんちゃん、あまいもの、すきね」
「あはっ。うさぎさんには見られちゃってるね。会社の引き出しの一つは全てお菓子で埋まってるからね」
「うさぎ、のんちゃんが、おいしいもの、たべてるの、みるの、すき。のんちゃん、しあわせそうね」
「そうなのよ。わかってくれるのね、うさぎさん。会社での数少ない癒しの時間だからね。一番の癒しはうさぎさんとお話しすることだけどね」
「……太るぞ」
ぼそっと真鍋が言った。
バシャ
望は両手で川の水をすくうと、真鍋の顔にぶちまけた。
「何すんだよ!」
「いえ。ちょっと手が滑ってしまって。いやね、ほほ」
「お前な、凶暴な上に手も早いのか!」
「いやですわ。レディが怒るようなことを言う方が悪いんじゃないですか。本当に無神経ですわね。うさぎさんはこんな風になっちゃダメだからね」
「なんだこの嫁き遅れ!」
「何が嫁き遅れだ! 同い年でしょうが!」
「のんちゃん、せいしゅんしてる?」
「これは青春とは呼ばないのよ」
「のんちゃん、このひと、すき?」
「好きじゃないわ!」
「好きじゃねぇ!」
「…………」
「ああ! ったく。なんでこんな小さいことにムキになってんだ、俺は」
真鍋は自分の頭を掻きむしった。
「そうだよね。真鍋くん、会社だともっと冷静沈着……っていうか冷めた感じだよね。表情もあんまり変わらないし、同い年だってことも忘れちゃうくらい大人っぽい人だなって思ってたけど。今日話してみると意外に子供っぽいっていうか、近所のガキ大将みたいな感じ。なんかイメージと違ったわ」
「それは、月がうさぎの楽園だからですよ」
望の足元に近づいてきたルナが言う。
「人間は心の中で思っていることと、言動が一致しない不可思議な生き物です。にっこりと笑って手を差し伸べたとしても、うさぎを抱きとめたその手でうさぎの首を絞めることもある。ペットとして可愛いがっていたのに、ある日急に飽きたのか、何のためらいもなく捨てることもある。
地球に生まれ、生きたうさぎたちは、人間の行動に翻弄され、疲れ果てている子も多いんです。だから、ここではうさぎたちが怯えることなく安心して暮らせるよう、大魔女様が魔法をかけてくださいました。
もしここに人間が来ることがあれば、その者の心が曝け出されるように。ここでは大きな嘘はつけないし、心に思っていることが言動に表れる。つまり、言葉や表情で心の中を取り繕うことができないのです」
「そうなんだ。確かに私も何か心が軽いっていうか……そういえば営業の人の悪口なんて、今まで言ったことがなかったけど、やっぱり心の中で不満に思ってたのかも」
望はなるほどと感心したふうに真鍋を見た。
真鍋はうっと詰まった。
「いやそれは他の営業の奴らが」とごにょごにょと口の中で言い訳をしている。
「営業の人って、意識高い系の人が多いっていうか。それはそれで別にいいんだけど。営業の人が頑張ってくれるからこそ業績も伸びるわけだし。でも自分が高みに行こうとするのと、人を見下すのって違うんじゃないかと思うんだよね。ほんとにトップを走ってる人って、周りのことはあんまり気にしない気がするんだけど。周りと自分を比べてる時点で、ねぇって感じ」
さすがに毒舌すぎたか。でも心が軽い。
望はスッキリした気持ちでルナを見た。
ルナはそうでしょうね、とうなずいた。
「うさぎの中でも、特にペットとして飼われていたものは、人間の心の中と言動が一致しないことにとても怯えています。だからあなたたちも、心が素直になったといえば美しいですけど、要は子供のような状態になるんです。心の奥底で思っていることが、そのまま言葉に出てしまいますから。早い話が幼児返りですね」
ああ、と望は頷いた。
「なんか聞いたことがある。『インナーチャイルド』だっけ? 人の心の中には、いくつになっても子供が住んでいるっていうやつだよね」
「そうですね。人間は成長するに従って、本音と建前を使い分けるようになります。ですがこの地では、建前という自分の心を守るバリアがない状態になります。そうなると、ダメージを受けやすいというか、ほら、この方のように」
ルナはぴょんと飛んで、真鍋の頭の上に着地した。
あれ?
いつの間にか、並んで座っていたはずの真鍋は、頭を突っ伏しておでこを地面にのめり込ませている。
……石、冷たくない?
「ルナ、重い。どけ」
「人がせっかく落ち込んでいるあなたを慰めようとしているのに」
そう言ってルナは真鍋の頭の上で伸びをした。
「それが慰めようとする奴の態度かよ」
「あなたは地面にのめり込むのがお好きなようですから、頭が冷えないように温めて差し上げているのですよ」
いいなあ、真鍋くん。ルナとすっかり仲良しになってる。
……って、そうじゃなくて。
「ごめんね。私、真鍋くんのこと傷つけちゃった?」
「傷つけたとか言うなよ……余計に悲しくなってくるだろうが」
「やっぱり傷ついてるんだ。ごめんね」
「ごめん言うな!」
真鍋は頭の上に乗っているルナを捕まえるべく頭を起こした。
「そんなことより、」
真鍋は赤くなった目元をごまかすようにルナを見た。
ルナはおとなしく真鍋の手の中に収まっている。
「嘘がつけないのは困る」
「え?」
「嘘がつけないのは困るだろう。人間は一日に百回くらいは嘘をつくんだぞ。子供だって嘘をつく。ここでいくら子供返りをしているからといって、嘘がつけないのは人間の行動心理に反している」
「そうなの? 一日に百回も嘘つくかな」
「女だってよくやるだろう。『全然太ってないよ』とか『その洋服かわいいー』とか『初めてですぅ』とか」
「それは嘘じゃなくて気遣いだよ」
「でも事実と異なることには変わりない」
「まあそうだけど……」
「そうですね。おっしゃる通り、全く嘘がつけないわけではありませんが、それでもうさぎを意図して傷つけるような嘘はつくことができません。そんなことよりあなた、ぐだぐだ言い訳ばかりしないでいい加減素直になったらいかがですか?
見苦しいですよ」
ルナが冷めた目で真鍋を見た。
何のこと?
真鍋が低く唸った。
「うるさい。男にはいろいろあるんだ」
「めんどくさい人ですね。のんちゃんもそう思いませんか?」
何の話かわからないが、めんどくさい人だと言う意見には同意する。
望は肯定も否定もしないまま、曖昧に笑った。
「ごめん」
真鍋がルナを抱きしめたまま望に頭を下げた。
「……何が?」
「俺が悪かった」
「だから何がよ?」
「その、さっき、お前のことを疑って」
疑われたことなんてあったっけ?
なんのことだと望は首をひねった。
スパイでもあるまいし。
スパイ……企業秘密とか?
「ああ! 何か盗んだかってやつ?」
そういえばさっき会社で、盗っ人疑惑をかけられたんだった。
「そうだ。お前がそんなことするやつじゃないっていうのはわかっていたはずなのに。最近、社内で盗難が多くて、その対応に追われてるんだ」
真鍋は深いため息をついた。
「いやー、あれは私も怪しい行動をしてた自覚はあるし。申し訳ない。むしろわざわざ危険人物に声をかけてくる真鍋くんが偉いと思うけど」
私なら見なかったことにして立ち去るだろうから。
だって、怖くない?
このご時世、刃物とか持ってたら。
「俺は一応、リーダー職に就いているからな。なんとかしろって上から言われてるんだよ」
まとめ役ともなると、仕事の責任が重くなるのだろう。かわいそう。平社員の私には全然わからないけど。