1. うさぎ、跳ぶ
金曜日の夜。
望はパソコンの自分のアカウントからログアウトをすると、ため息をつきながらラップトップを閉じた。今日遅い時間まで残業をしたのは、別に望が真面目な社員だからではない。週末を心穏やかに過ごすために、キリの良いところまで仕事を片付けておきたかったのだ。
ジャケットを羽織り、カバンを肩にかけると、持ち物をチェックした。今月、すでに2回スマホを忘れて取りに戻っている。最後にデスクの上のペン立ての隣にちょこんと置いてあるペーパークラフトのうさぎに小さな声で話しかけた。
「また来週ね、うさぎさん」
このうさぎさんは、今年のカレンダーについていた付録のうさぎだ。
『紙を折りたたむだけでうさぎになります』と書かれたそのベージュ色の厚紙は、切り取って折り曲げてみた時は全然うさぎには見えなかった。むしろこのフォルムはカンガルーなんじゃないかって思っていたけれど、デスクに飾って毎日見ているうちにどんどん愛着が湧いてきた。
今では朝と帰りの挨拶は欠かさない。
もちろん人に見られないようにこっそりとだ。
人気が少なくなってきた会社を出て、今夜の夕食は何にしようかと考えながらしばらく歩いた。
今更スーパーで買い物をして何かを作る気にはなれない。デパートの地下に寄って、ちょっと高級なデリでおつまみ系のサラダとか買っちゃう?それでワインとかあげちゃう?今の時間ならきっと安売りセールをしているはずだ。
気分が上向きになった望は、スマホで電車の時間をチェックしようとジャケットのポケットに手を突っ込んだところで――
あ、パス忘れた。
パスがないと電車に乗れない。
望はため息をつきながらオフィスに戻った。
最近うっかりミスが多い。年か、疲れか。社会人になって早数年。ゴリゴリと体力も若さも削られていっている気がする。
でもいいのだ。どうせ早く帰ったところで待っていてくれる人がいるわけでもないし、デートの予定もない。金曜日の夜であるというのに、なんと悲しいことか。
望は彼氏に振られたばかりだ。
うすうす怪しいなとは思っていたのだ。
一緒にいるときによそよそしい。常にスマホを手放さない。挙句には、うっかりと名前を間違って呼ばれそうになったこともある。
でも、浮気されたあげく、浮気相手と一緒に呼び出され、きっぱりあちらを切ってくれるのかと思ったら、逆に切られたってどうなのよ?
『こんな状態で君と付き合っても申し訳ないから』なんて申し訳なさそうな顔をされて、
『彼のことは私が幸せにします』なんて健気な表情を浮かべた浮気相手にきっぱりと言われて、
『そうなんですね』と言うほかに、どうすればよかったのだろうか?泣きわめいて、なじるほどの気力は望にはなかった。
それ以来、すっかり『いやね、男って』が口癖になってしまっている。
いつの間にか社内にほとんど人はいなくなっていたらしい。かろうじて点いている灯りは隣の部署か。
あちらは誰かが残っているのかもしれない。
お互い大変ですねえ。
そう思いながら自分のデスクに近寄ると、何かがデスクの上で跳ねていた。
ぴょんぴょんぴょん
え?
ぴょんぴょんぴょん
え?なに?虫?
望は恐る恐るデスクに近づいた。
バッタか?それとも口に出すのもおぞましいあの黒いヤツか。
望はカバンを両手で持った。書類やら着替えやらが入っているずしりと重いカバンは、こういうときに武器兼ガードとして役に立つ。こっちに向かってきたらいつでも投げられる準備だ。
ぴょんぴょんぴょん
飛び跳ねているのは、白っぽい卵ほどの大きさの何か。望が目を凝らして見ると、それは望が先ほど声をかけたうさぎさんだった。
……うさぎさんが望のデスクの上で跳ねている。
ええええ?
うさぎさんはペーパークラフトだ。つまり、紙。厚手の紙ではあるけど、バネは付いていない。もちろん、バッテリーも付いていない。
「ど、どうしたの、うさぎさん?」
望はいつものくせでつい話しかけてしまった。
「うさぎ、跳ねてる」
……返事が返ってきた。
「うん、それは見たら分かる」
望もつい返事を返してしまった。
「うさぎ、まいばん跳ねる」
「そうなの?」
「うさぎ、れんしゅうしてる」
「跳ねる練習?」
「そう。うさぎ、きょうのためにまいばん跳ねる」
「そうなのね」
なんだか分からないけど、頑張って跳ねている姿が可愛くて、望はとりあえず席に座った。
しばらくうさぎさんが跳ねるのを眺める。体全体を使って、一生懸命跳ねているうさぎさんは、いつにも増して愛らしい。凛々しい表情すらしている気がするのは、親(いや別に親じゃないけど)の贔屓目だろうか。
癒されるわあ。
いや、癒されている場合じゃないだろう。紙のうさぎが跳んでいるのだ。動いているのだ。喋っているのだ。
おかしいのはうさぎか、私か。
でも、この乾燥した日々を送る私に癒しをくれるうさぎさんが悪いものだとは思えないのだ。
そしてこの際、私がおかしかろうとよしとする。たとえこれが疲れ果てた私の脳内で作られた妄想だとしても、今この瞬間、私は幸せだ。
「あ、なんかどんどん大きくジャンプできるようになっていってるね。うさぎさんすごいね」
「うさぎ、もっとたかく跳ねる」
ぴょーんぴょーんぴょーん
最初は数センチしか浮かなかったうさぎさんの体は、どんどん距離を伸ばしていき、天井に付くくらいまで跳ねている。
「すごいねえ。うさぎさんは身体能力が高いのねえ」
……紙だけど。
「うさぎ、月いく」
「月に行くの?」
「うさぎ、かえる」
「え、帰っちゃうの?」
「きょう、まんげつ。じゅうごや。うさぎ、月かえる」
「十五夜…?ああ!今夜は十五夜か!どうりで外が明るいなって思ってたけど」
望はちらりと窓の外を見た。ビル群が煌々と輝く中、大きなお月様が空高く輝いていた。いつもより大きく見える気がするからか。まん丸のお月様には、うさぎが餅つきをしている形がくっきり見えるようだ。
十五夜ねえ。お団子を食べるんだっけ?ススキを飾るんだっけ?もうしばらくそんなこともしてないわねえ。
バンバンバン
望のデスクをひょいと飛び越えたうさぎさんは、窓ガラスに向かって突進し始めた。
「ちょっと!うさぎさん!危ないよ!」
「うさぎ、かえる」
「ええ!でも。さすがに落ちちゃうよ。ここ、ビルの15階だよ?下に落ちたら痛いよ」
こんな小さなペーパークラフト、落ちたら風にあおられて見つからないだろう。
「おちない。うさぎ、跳ぶ」
「ええええ」
バンバンバン
うさぎさんが体当たりをするたび、窓からは結構な音と振動がする。
「ちょっと待って。ガラスが割れたらそれはそれで大惨事だから。ここからガラスが落ちたら下にいる人が怪我するから。待って、ね?」
望はそっとうさぎさんを両手に閉じ込めた。インクで塗られた真っ赤な目が微動だもせずこちらを見つめている。
ただの点なのに。なんでそんな訴えるような目をするんだ。
うぅっ
「分かった、分かった。じゃあ…えっと…」
どうすればいいんでしょうね?