靴跡のつかない雪景色(好事百景【川淵】出張版 第ニi景【雪】)
車、運転するときは積もってほしくありません。
※ ホラーが苦手なかたは、ご注意ください。
わぁ、雪だ。
きがつくと、わたしの目のまえには雪景色がひろがっていた。
だれも、踏み荒らしていない、まっさらな雪のキャンバス。
わたしは、そこに靴跡をつけるのが大好きで。
わたしの体重がのると、ふわふわの雪を踏み固めるようにして、それが描かれる。
真っ白なふわふわと、くっきりした靴跡。そして、あの踏み固めるような音と感触。
雪だるまや雪合戦も悪くはないけれど、手袋を濡らして指を凍えさせてしまう。
だいいち、ここにはわたししかいないようで。
ひとりで雪合戦はできないし、雪だるまだって、ひとりでつくるにはオーバーワークだよ。
解けかけならともかく。これほどの雪なら、靴を汚す心配もないだろう。
うん、やっぱり。ここは思う存分、靴跡をつけさせてもらおう。
あとから来たひとが、さきをこされたって、悔しがるくらい。
駆け出してしまいたい、うずうずする気持ちを抑えて。
まずは、一歩。そしてまた一歩と、歩みを進める。
……あれ? おかしい??
わたしの大好きな、あの踏み固めるような音と感触がやってこない。
わたしは、不思議に思って、さらに数歩、進んでみたが。期待した音と感触は、いっこうにやってこない。
おかしい。
じつをいうと、ないのは音と感触だけではなく。
たしかに、わたしは進んでいるのに。
歩いているという実感が、まるでないのだ。
わたしは、おそるおそる。つけて歩いてきたはずの靴跡が、雪景色に刻まれていることを確認しようと視線を落とす。
わたしのあしもとから、ここまでたどってきたはずの。一歩めからの軌跡を、逆に追ってみたが。
靴跡は、ひとつとしてついてはいなかった。
音も感触もないのだから、それはもっともなはなしだ。
だけど、わたしの心に特大の雪玉のような衝撃をあたえたのは。わたしの一歩めがあるはずの場所より、もうちょっとあっち。
そこに伏して倒れている、わたしの躯だった。
あぁ、そういうことね。
伏して倒れている、自分自身を見て。記憶は、復元ソフトにかけられた壊れた写真ファイルのように、鮮やかさを取り戻していく。
恋人とふたりで来た山。
ケンカして、ひとり飛び出したコテージ。
道に迷って、一晩じゅう歩いて。
それで、わたしはここで力尽きた。
伏して倒れている、わたしの躯。
ぬくもりはすでに失われて、硬いぬけがらになってしまったのが、ひとめでわかる。
わたしは、わたしの躯を見て思った。
悔しい。
悲しいでも、寂しいでもなく。
ただ、悔しいのだ。
わたしとケンカした恋人のことを、恨んで悔しい?
ケンカの勢いで、コテージを飛び出した、愚かさが悔しい?
道に迷って、こんなところでひとり力尽きたのが、情けなくて悔しい?
いいや、どれもちがう。
どれも、まったく、まとはずれだ。
わたしが悔しいのは、もう硬いぬけがらになってしまった、わたしの躯が。
もう、わたし自身には、かなわないことだというのに。
わたしの躯ときたら、全身を雪景色にうずめて。存分に、その音と感触を楽しんだであろうこと。
その躯は、真っ白なふわふわに、くっきりした跡をつけているではないか。
わたしの躯のシルエットに、全身で踏み固めて。
あぁ、悔しい。
もう、わたし自身には、かなわないことだというのに。
悔しいなぁ。
ほんとに悔しいんだってば。
あまりに悔しくて。
こんな気持ちのままでは、わたしはしばらく成仏できそうにない。
あぁ、悔しい。