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川岸と赤い花

作者: 朱田基世

 仕事を終えて、同僚と夕飯を食べて、帰宅して午前零時。家に帰ると、アパートのドアの前に沙紀が座っていた。ぼんやりと前を見つめている。ボブカットの柔らかそうな茶髪も、細い手足も、記憶にある通りだった。記憶と違うのは、丸みを帯びた頬を赤黒く染める痣。ファンデーションを上から重ね塗っているのだろうが、よほど色濃く浮かんでいるのだろう、隠すには至っていなかった。

 「……何してんの」

呆けたような声を出す俺に今更気付いた沙紀は、顔を上げて、柔らかく笑う。泣いた後なのだろう、目元が赤く浮腫んでいた。

 「来ちゃった」

えへへ、とわざとらしく声を出して笑うと、沙紀は立ち上がった。細いジーンズに白いシャツ。隣に置いていた鞄を拾い上げる左手の薬指には結婚指輪がはまっている。

 「帰れよ」

「やだ」

「旦那がいるだろ、何か勘違いされたら困るだろ」

「もういないよ」

沙紀が小さな頭を左右に振る。さらさらと髪が揺れて頬にかかるのを見て、綺麗だな、と思う。

「もういないの」

もう一度沙紀が繰り返し、部屋のドアを指さした。

「開けて」

 何が何だかわからないまま、半ば押し切られるようにして明けたドア。当然のように沙紀は入って来て、当然のように自分のマグカップを出して、そこに冷蔵庫に冷えているペットボトルの麦茶を注いだ。――そう、沙紀のマグカップ。五年前に別れた沙紀が置いて行ったマグカップ。それがまだ俺の部屋の食器棚に鎮座していることを知っていたようだった。沙紀と別れてからそのままの二脚の椅子の片方に沙紀は座って、脚を組む。

 「旦那、どうしたの」

「もういないの」

「それは聞いたよ。離婚したの?その割に指輪はしてるけど」

「離婚はしてない」

「死んだの?」

「そう」

冗談で聞き返した言葉に彼女が頷くものだから、完全に面食らってしまった。その俺に追い討ちをかけるように喉を鳴らして笑い、沙紀が言った。

「私が殺したの」

 冗談だろ、と言おうにも声が出ず、沙紀を頭の先から爪先まで眺める。そういえば少し痩せたかな、と場違いに思い当たる。

 「言い訳を、して」

震える声で言葉を紡ぐと、沙紀が深い息を吐いた。

「信じてくれるんだ」

「冗談苦手だったろ、いつも俺の冗談を真に受けて怒ってたじゃないか」

「あなたが面白くない冗談を言うのはとっても嫌いだった」

「とにかく、言い訳をして」

急かす俺を見て笑い、沙紀が自分の頬を触る。

 「夫に殴られたの」

シャツの袖を捲ると、緑色の痣が前腕に浮かんでいた。

「これも」

シャツの裾を捲る。薄い腹の上、肋骨の上には黄色くなった痣がいくつも。後ろを向けば、背中や腰にも古かったり新しかったりする痣が散見された。頭の中で誰かが歌う、『咲いた 咲いた 赤青黄色』。それを言うなら白だろう。

 「毎日毎日。結婚して四年間、毎日。あんまり辛いから、殺しちゃった」

何かを握る仕草をして、それを突き出す。

「ぶすり」

 「何で逃げなかったんだよ、殺す前に逃げろよ」

「何処に?仕事もさせてもらえなかったし貯金もすぐに取り上げられた、逃げる場所も費用も無いのにどうやって何処に逃げるの」

「警察は」

「まだ見つかってない、さっき殺したから」

「そうじゃなくて、旦那に殴られてるって相談しなかったのか」

「したけど、こいつ精神疾患があって、って言って連れ帰られちゃった。その晩腕を折られた。あれは痛かったな」

 暫しの沈黙。俺は水も麦茶も飲む気になれず、下を向いて、黙って突っ立っている。

 「悪びれる様子がないんだな、まったく」

「悪いことはしてないもの。確かに、酔って帰ってふらふらしてる時に後ろから刺したのは卑怯だったと思うけど」

「まあ、それはしかたないだろう――じゃなくて」

口を開き、言葉が出ずに閉じて、また開く。

「何でここに来たの」

 「さいごに会いたかったから」

当たり前でしょう。そんな空気感を以て、沙紀が笑った。

「さいごって何、もう誰も沙紀を殴らないのに、殺そうとしないのに。この殺人だって正当防衛が通用する」

 「私、夫を愛してた」

沙紀が溜息交じりに囁いた。

「私を殴る手も、このクソアマ!って私を怒鳴る喉も、好きだった。殺しちゃったけど」

沙紀がぼろぼろど涙を落とした。赤黒い頬に雫が伝い、顎から滴る。

「本当に好きだった。でも、夫はもういないから、世界で二番目に好きなあなたとお別れしてから、何処かに行こうと思って」

 ――何処か、が何処なのかは何となくわかった。暗く冷たいところだろう。決して光が届くことのないそこで、沙紀は自分をぼこぼこ殴った夫に再会して、また殴られるのだろうか。

 「……そう、」

何も言えずに呟くと、沙紀は薄く笑った。俺のこういう優柔不断で優しくなれないところが嫌で、沙紀は俺を捨てたのだろう。十年連れ添った俺を。

 「ねえ」

沙紀が手の甲で涙を拭って、こちらを見上げた。

「昔、一緒に花火大会に行ったところ、覚えてる?あの川」

「覚えてるよ」

「あそこに連れてって、そうしたら私はもう迷惑をかけないから」

 ――迷惑だなんて、そんな。言葉を飲み込んで、俺は頷いた。玄関の棚を開け、軽自動車の鍵を出して、握り締める。迷惑だなんて思う訳がないだろう。沙紀と生きたかった。ただ俺にはその勇気がなかった。昔も、今も。

 俺が黙って家を出ると、沙紀も付いてきた。かかとの高いベージュのパンプスは、昔俺が買ってやったもので、よく取っておいたな、と視線を注ぐと、沙紀が笑う。

 銀色の軽自動車に乗って、カーナビを設定する。ここから一時間弱。おそらく三十分と少しで着くだろう。無言のまま、軽自動車は滑り出した。

 「知ってる?」

車が出発して十五分ほどだろうか。沙紀が口を開いた。

「三途の川を女の人が渡るときは、初めて身体を開いた男の人に手を引かれて渡るんだって」

喉の奥で笑い、車の窓を開ける。生ぬるい風が入って来て、俺は冷房を強くする。伝承通りじゃないか、とは思うものの、それを口にすることができない。それを口にしたら、俺が沙紀の行き先に気付いてることがわかってしまう。

「面白いよね」

沙紀が窓の外を眺めて呟いた。

「とっても、面白い」

 間もなくして、車は川べりのコンビニに着いた。虫が鳴く声を聴きながらエンジンを止めて、車を降りる。沙紀も降りた。大きく伸びをする。

「真夜中にごめん、ありがとうね」

沙紀が笑った。――俺はその背中に花火を見ていた。大輪の花火。赤く、白く、光り輝く。あの時の沙紀は紺色の浴衣を着ていて、今も沙紀がシャツではなく浴衣を着ているように錯覚した。何も、何も言えなかった。何が現実で、何が幻かわからなかった。十代だったあの日の帰り道、俺と沙紀はホテルに寄って、そこで身体を重ねた。俺の、そして沙紀の初めての夜だった。これからホテルに行くのだと思った。そして、俺たちは初めての夜を迎えて、何年もぬるま湯のような幸せな時間を過ごす。沙紀が俺を捨てるまで。

何も言えない間に、沙紀が手を振って、俺は今日は初めて身体を重ねる夜ではないのだと現実に引き戻される。

「――沙紀」

喉から絞り出すようにして名前を呼んだ。

一緒に帰ろう、警察に行こう。その後、一緒に暮らそう。そんな言葉も絞り出そうとしたけれど、沙紀は俺に背中を向けて、川に向かって歩いて行った。川岸に降りる階段を下りて、姿が見えなくなる。

暫くの間呆然と立ち尽くしていたが、弾かれるように走り出て川岸を見下ろすと、沙紀の姿は無く、彼岸花が揺れていた。


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