2.隠さなければならない気持ち、抑えきれない気持ち
家に帰ると、久しぶりにアレクが来ていた。
アレクのお父様と私のお父様が親しく、小さい時からよく連れられてきていた。
けれど近年は、忙しいご両親の代わりに何かと用事を頼まれてアレクが一人で来ていた。
私はいつもそれを心待ちにしていた。
けれどそれを表に出してはいけない。
「アレク、来ていたのね。お久しぶり」
私が努めて平静に挨拶をすると、アレクがはっとしたように振り返る。
柔らかそうにわずかに波打つ金の髪がふわりと揺れる。
小さい頃は簡単に触れさせてくれた少しふわふわのその髪は、今はもう手が届かないほど遠くにある。
「ユニカ、久しぶり。……今日は帰りが早かったんだね」
アレクがにこりと笑みを浮かべてくれる。けれどそのアメジストの瞳は、どこか私に踏み込ませないものを感じさせた。
「ええ。明日は剣技の技術試験があるから、体を休めるために午後はお休みなの」
試験を受けるのは子息たちだけで、私たち令嬢は観戦のみだったけど、令嬢だけで授業をするわけにはいかないから生徒は皆一斉に帰らされたのだ。
そんなことを知らなかったアレクの顔には、失敗したな、という苦笑が浮かんでいた。
私も今日アレクに会えるとは思ってもいなかったが、アレクのそんな顔を見ると、そうそう思い通りになってやるか、という意地悪な気持ちも湧いてくる。
アレクが私を避けるため、私のいない時間を見計らって訪ねてきているのは知っていた。
あの日私が約束したことを、ちゃんと守れるかわからないからだろう。
だから私は、約束を守っていることを証明するため、はしゃぎたいのも、アレクに飛びつきたいのも我慢しなければならない。
前みたいにアレクが私に笑いかけてくれるようになるために。
私が淡々とアレクに受け答えしているのを見て、アレクは少しだけそれを信じてくれたらしい。身構えていた肩の力が緩んだのがわかる。
「今日は、母さんの遣いでフルーツケーキを持ってきたんだ。よかったらユニカも食べてね。ユニカがお菓子をほおばる姿を久しぶりに見たかったって、母さんが嘆いてたよ」
「ありがとう。おばさまの作るお菓子、甘すぎなくて大好きなの。後でいただくわ」
僕もユニカがおいしそうにお菓子を食べるのを見るのが好きだよ。
前だったら、アレクは笑ってそう言ってくれたのに。もうそんな甘い言葉はかけてくれない。
私は言葉が続かない現実を見ないふりしたくて、話を切り上げた。
「それじゃあ私、ちょっと素振りでもしてくるわ」
「素振り? まだ剣技の練習してたんだね」
「ええ、気晴らしにちょうどいいの」
アレクが練習しているのを見て、格好よくて、私もああなりたいと思って一緒に習い始めた。
アレクとの差は広がっていくばかりだったし、年ごろになったら女の子が剣を振り回すものではないと両親に諫められ、先生に習うこともやめさせられてしまったけれど、私は裏庭で一人練習を続けていた。
自分の身は自分で守れるようになりたかったから。アレクと駆け落ちしても生きていけるように。
今はもう、その目的もどこへ向かえばいいかわからなくなっていたけれど、それでも身に沁みついた習慣はやめられなかった。
「ユニカは本当に頑張り屋だなあ。ユニカが明日の試験に出られたら、きっと形の演武ではトップクラスだったろうにね。僕もそんな試験なら、見たかったよ」
一緒に練習していた頃を思い出したのかもしれない。
アレクは楽しそうに笑った。
久しぶりに見る笑顔だった。
思わず胸が苦しくなる。
だけど決してそんな顔は表に出してはならない。アレクの笑顔が消えてしまうから。
「普段力をひけらかしてくる令息たちより成績がよかったら、スッキリするかもね」
「練習で怪我、しないようにね」
アレクがふふっと笑って、私の頭に手を伸ばす。
けれどそれは途中で止められ、そっと引き戻された。
アレクが自分で自分に困ったように笑みを浮かべるのが、胸に痛い。
私は前みたいに優しい重みを感じられなかった頭が寂しくて、慌ててくるりと背を向けた。
「アレクはどうぞゆっくりしていって。それから、おじさまとおばさまにも、また遊びに来てと伝えてね」
他愛もない会話。
熱のこもらない瞳。
それでもいいから、もっとアレクとここにいたかった。
けれど私は自分の足に気合を入れるようにして、淑やかに一礼してその場を去った。
背中にアレクの視線を感じる。
けれどその視線は、こわごわと私を見守っているのだろう。
また前みたいに私が遠慮のない子供に戻ってしまわないかと。
幼い頃、兄弟のいない私は、アレクを兄のように慕って「アレクお兄様」と呼んでいた。
アレクも私をかわいい妹と思ってくれているのだと思う。きっとそれは今も変わらない。
けれど私は、ただかわいがられるだけでは満足できなくなって、ただ頭を撫でられるだけでは物足りなくなって、アレクに一人の女の子として見て欲しいと願うようになった。
だから立派な淑女になろうと、勉強も頑張ったし、礼儀作法も頑張った。お兄様と呼ぶこともやめた。
何度も、アレクに好きだと伝えた。
でもアレクはいつも困った顔を笑顔で隠して、他に目を向けさせようとした。それも当たり前のことだ。アレクには小さい頃から婚約者がいたのだから。
でも私は、アレクが私のことを好きになってくれれば、そんな婚約は解消して私と結婚してくれるものだと思っていた。だから真っ直ぐにアレクに向かって突き進み続けていた。
けれどそれは、アレクの困った顔を増やすだけだった。
それでも私ががむしゃらに、あまりにも馬鹿正直にアレクへの思いをあけすけにしていたから、アレクは私と距離を置くようになった。
一人の女の子として扱ってくれた結果であるのは確かだ。
けれどそれは、結婚適齢期に差し掛かっている私に、早く婚約相手を決めるさせるためだった。
そしてもう一つ。アレクの婚約者のために、あけすけに好意を伝えてくる女の子は遠ざけなければならなかった。たとえ小さい頃から仲の良い幼馴染だとしても。
それがわかったから、私は避け続けるアレクを追いかけ、約束をしてみせた。
もうアレクを困らせることはしない、と。
アレクが私を妹としか見ていないことはわかっていたから。私を傷つけないために、どうしたらよいかと悩んでいるのを知っていたから。
私はアレクが好きだった。ただそれだけで、アレクを困らせたいわけじゃなかったから。
また前みたいに笑ってほしい。
一人の女の子としてじゃなくてもいいから、また前みたいに何も考えずに楽しくお喋りがしたい。
傍にいられなくなるくらいなら、いくらだって我慢する。
そう思っていたけれど、アレクが帰った後、お父様と話した私はその考えを一変させた。
「アレクは、国境の戦線に行くことになったそうだよ。無事に帰れたら、結婚式を挙げるそうだ」
アレクが死ぬかもしれない。
生きて帰っても、他の人のものになってしまう。
それは、私がどんなに我慢をしても努力をしても、一生アレクが手に入らないことを示していた。
私は目の前が真っ暗になって行くのを感じた。
その時、イリーナの姿が瞼の裏に浮かんだ。
婚約相手であるフリードリヒに意図的に嫌われるように仕向け、彼女はどこかへと向かおうとしていた。
彼女は運命に抗おうとしているように見えた。
彼女なら。
彼女なら、私のこの現状を変えるヒントをくれるかもしれない。
藁にもすがる思いだった。
だから私は翌日、イリーナを拉致することを決めた。