エピローグ.この世界は
「ねえアレク。聞きたいことがいっぱいあるんだけど」
「いいよ。いくらでも訊いて。今日は何でも答えるから。ひとまず僕は満足したしね」
にこにこと笑みを浮かべながら、アレクは紅茶のカップを持ち上げた。足を組み、ふう、と満ち足りたように紅茶を啜る。
私は頬が真っ赤になるのを抑えることができず、誤魔化すように紅茶をずずずずっと啜った。
卒業式の翌日。
私はアレクを問い詰める姿勢に入っていた。
出鼻をくじかれたけれど、居住まいを正し、きっ、と顔を向ける。
「アレクって、転生者なの?」
私の唐突な問いにも、アレクは「あはははは」と楽しそうに笑った。
今日はもう何を言っても笑ってるんじゃないかと思った。
「僕はアレクだよ。他の誰でもない、正真正銘の、アレク。だけど、そうだね。確かに僕の中にはもう一人の記憶がある。そう。イリーナのように」
その言葉に、やっぱり、と思う。
イリーナは最初、私を転生者なんじゃないかと疑った。でも疑った理由を作ったのはアレクだった。だからアレクがそうなのではないかと疑った。
でも私は思っていた。イリーナに記憶が追加されたのなら、他の誰かにそれが起きていてもおかしくないと。
驚いた様子のない私の顔を確かめて、アレクは口を開いた。
「僕の中にあるのは暖人の記憶だよ」
「暖人って……。苗佳のお兄さんで、この世界のゲームを創った人よね」
「そう。イリーナと同じように、僕も夢に見たんだ。暖人の記憶を」
◇
アレクが話したことは、わかっていたような、わかっていなかったような。
驚いたこともあったし、やっぱりと思ったこともあった。
ただ、やっとこの世界の核心に触れた気がした。
アレクが暖人の記憶を夢に見たのは、四年も前のこと。
それはイリーナよりも前だったが、暖人の記憶には苗佳の記憶のその後があった。
◇
暖人のチームが創ったゲームは、完成したものの世に出ることはなかった。
売れ筋とは異なる。赤字になるのが目に見えていると判断され、中止されたのだそうだ。
それでも諦められない暖人は、ベースはそのままに改良することにした。
だがどこを直せばいいのかわからなかった。
自分では最高のものを作り上げたつもりだったから。
そこで暖人は、深層学習という手法をゲームにも応用したらどうかと考えた。
自分では魅力的なキャラ、ストーリーを作るのに限界がある。
だから生きた人間の記憶を投入し、キャラが、ストーリーがどう変化するか実験することにした。
そうして投入された記憶が、苗佳と暖人のものだったのだ。
「イリーナが、データとして記憶が追加された感じ、って言ってた。それはこういうことだったのね。でも自分の記憶が誰かに見られちゃうなんて、私だったら絶対やだなー」
自分で記憶をコピーして投入した暖人はいいけど、苗佳はそのことを了承していたのだろうか。
「苗佳はね。事故で脳死状態になってしまったんだよ」
「え?」
アレクは窓の外に目を向けた。
その中には苗佳の兄としての暖人の記憶がある。他人の記憶とはいえ、思い返すのは辛いのだろう。
「脳死、っていうのはね、心臓は動いてるけど目を覚まさない、自らの意思で動けなくなる状態なんだ。苗加は機械に繋がれ生き延びていたけれど、いよいよそれも危うくなった。それで暖人は、苗佳の記憶もコピーしてゲームに投入することにしたんだ。生きた証を残したい。そう思ってね」
苗佳の記憶は事故に遭うまで、つまりゲームを完成させた頃までだった。
だから先に追加された暖人の記憶の方が先のことまで知っているというパラドックスがここで起こる。
頭の中で話を整理し、私はなるほど、と頷いた。
「だから、ゲームの世界にはないストーリーになったし、イリーナという悪役令嬢がヒロインになったりすることが許容されたのね。でも、だとしたらアレクも暖人の記憶があったから、本来のストーリーからは外れたってこと?」
てっきり私が世界を脅したから「じゃあやってみろ」という自由裁量が与えられたのだと思っていた。だからストーリーを変えられたのだと思っていたが、その前から実験は始まっていたのだ。
アレクが私を好きになってくれたのも、暖人の実験の結果なのか。
そう考えると複雑だ。
嬉しいのに、手放しで喜べないものがある。
「それはどうかな? ゲームの中で『アレク』が『ユニカ』をどう思っていたかはわからないよ。全てが描かれてるわけじゃないから。だって、暖人の記憶を夢に見る前から僕はユニカのことが好きだったからね」
私は目を見開き、継ぐ言葉を失った。
嘘だ。
そんなこと……。
そう思いながらも、幼い頃のアレクの天使のような微笑みを思い出す。
あの頃は翳るものもなく満面の笑みで私を迎えてくれていた。
それが、突然距離を取り始めたのは――。
思い当たって顔を上げると、アレクが頷いた。
「僕がユニカを避けていたのは、暖人の記憶からバッドエンドの存在を知ったからだよ。自分がモブキャラで、ユニカとは結ばれないことを知った。それだけだったら、力づくでも奪うつもりだった。だけど、僕と結ばれたらユニカが死ぬことになるかもしれない。それを何より恐れた。だから、大筋はストーリー通りに進めて、ゲームのエンディングを待って迎えに行こうと思ったんだよ。ゲームの中の『アレク』もそう思ってたのかもしれない。それは誰にもわからないんだよ。ゲームには描かれてないことだから」
急にアレクが剣技の試験を受けるように言ったり、もっと周りを見ろと言ったりした理由がわかった。困った顔をしながら私を遠ざけたのも。
私たちは真逆に全力疾走していたのだ。
アレクはストーリー通りに動かそうとした。私は世界の拘束から全力で逃れようとした。
私が死ぬか、アレクが死ぬかの択一をそれぞれに回避するために。
「だけど、僕も死ぬつもりだったわけじゃない。二人で生き残るつもりだった。あらかじめわかってるんだから回避できるだろうと思ってた。結局は刺されちゃったけど、ゲームとは状況を変えることと、新たなヒロインを立てて主軸をそちらに置くことでなんとか回避できたのかもしれない。ユニカのおかげだよ。こうして、生き延びてユニカとダンスパーティのその後を迎えられた」
アレクのアメジストの瞳が、私を優しく見ている。
皆の力を借りて、私は私の手でアレクを取り戻すことができたのだ。
それがどんなに幸せなことか。
アレクと微笑みを交わす今がどれだけ幸せなことか、噛みしめる。
だけど、結局はフリードリヒとイリーナによるありがちなエンディングに終わった。
ここが暖人の実験場であるのならば、これでよかったのだろうか。
「結局私とイリーナが入れ替わっただけで、ほとんどメインストーリーと同じような帰結を辿ったけど、これでよかったのかな」
「いいんじゃない? 暖人が欲しかった答えは用意できたんだから」
「答え?」
アレクは口元に、にっと笑みを浮かべた。
「そう。どうしたら元のゲームがもっと面白くなるか、暖人が求めていた実験の答え。攻略対象者だけじゃなくて、ヒロインを選べるようにすればいいんだよ」
「私と、イリーナのこと?」
「そう。どちらも聖剣の乙女としての役は担うことはできて、ヒロインになりうる器だった。だけど性格も容姿も全然違う。だから選べたら楽しいでしょ? 悪役令嬢が主人公になる小説はあるけど、乙女ゲームは大抵がヒロインは固定だからね」
なるほど。
それはヒロイン候補の数×攻略対象者の数のストーリーが必要になるということで、そんなことがゲームとして実現可能なのかはわからない。けれど、もしこの世界が暖人の実験を目的としていたのなら、私たちは役割を果たし終えたと言えるのだろう。
だけど、そこに考えが至るとどうしても聞かなければならない疑問が浮かんでくる。
「結局ここは、ゲームの世界なの?」
その問いには、アレクは「うーん」と考えるようにした。
「それは僕にもわからなかった。キャラがどう動くか。ストーリーがどうなるか。そういう実験場を暖人が創ったことは、暖人の記憶上確かなことだし、それがこの世界なんだと思えば既存のゲームの通りには動かなかったことも納得できる。だけど、果たして、そもそもゲームの世界に人は生きて意思を持てるかな」
私も思う。
私はたしかに生きてここにいる。
誰に動かされたのではなく自らの意思で選択して、ここにいる。
「結局ね。僕たちは神じゃないから、本当のことなんてわからないんだよ。できるのは推測することだけ。ただわかるのは、ここに僕たちが生きていて、ユニカにこうして触れることができること。望む未来をこの手で手に入れることができたっていうこと」
アレクが私の頬に触れる。私はアレクの手に重ね、頷いた。
私たちにはゲームのエンディングのその先があった。
ゲームとか。どんな世界かとか。そんなことには関わらず、私たちに明日はあることも疑いなく信じられる。
だってこれまで私は、誰かに動かされたなんて感じたことは一度もない。
いつだって、自分の意思で生きてきた。
他の皆もそうだ。
それぞれに意思を持って生きている。
「そうよね。この世界がなんだっていいわ。私たちが私たちの在りたいように生きられるなら」
「ということで。疑問は出し尽くしたかな?」
アレクがカチャリ、とティーカップを置く音が、妙に響いた。
「うん……? えっと、細かい疑問は残ってるのは残ってるけど、大きな疑問がどうでもよくなったから、あとはもうほとんど意味をなさないかな、とは」
「そう? じゃあ、おいで、ユニカ」
言って、アレクは膝をぽんぽんと叩いて両腕を広げた。
ん? と首を傾げる。
アレクはにこっと笑った。
「ユニカはぜんっぜん知らないと思うけど、僕は今までいっぱい我慢してきたんだよね。まあ、寝こみを襲ったり、夢という言い訳を借りて暴走したこともあったけど。それでも頑張った方だと思うんだよね? 目の前に好きな子がいるのに、他の男の元へ送り出したり、よくここまで……、と思うわけ」
「えっと、だから?」
立ち上がり、おずおずとアレクの前まで歩いて行った私に、アレクは訊き返した。
「ユニカ。僕のこと、好き?」
「うん。大好き」
悩む間もなく、万感の思いを込めてそう答えると、アレクは私の腕をぐいと引いた。
「わっ」
私はアレクの膝にまたがるような恰好になる。
アレクは、慌てた私の顔を見てふっと笑うと、私の頭をぐっと抱えこみ、その唇に深く口づけた。
アレクが貪るように口づけるので、私は次第に苦しくなって慌ててアレクの肩を叩いた。
するとアレクの小さな声が漏れる。
「痛っ」
私はびくりとして手を止め、慌てて身を離す。
「ごめん、アレクまだ傷、痛むの?」
「すぐ騙されちゃダメだって。本当にユニカはかわいいなあ。僕の怪我が完全にふさがってるのは、昨夜ちゃんと教えたでしょ?」
そう言ってアレクは私を抱え上げた。
「わ、ちょ、アレク?! どこに……」
アレクは妖艶な笑みを浮かべた。
「まだわかってないみたいだから、もう一度ちゃんと教えてあげようかなと思って。いつまでもユニカを不安にさせるのは忍びないから、ね」
騙したのはアレクなのに。
私は赤らめた顔を見られたくなくて、アレクの肩に顔を埋めた。
私ばかりが好きなはずだった。
アレクが好きで、好きで、実らないのならこの世界をぶっ壊してもいいとすら思っていた。
だから、こんな世界が存在するとは思っていなかった。
私の目には、この広い世界のすべてなど映ってはいないのだ。
たった一人見つめ続けた人の心のうちすら、知らなかったのだから。
だから私は、この世界をぶっ壊してやるなんて、二度と思うことはないだろう。
ぶっ壊すなんて、勿体ない。
この世界は、未知と選択肢にあふれているのだから。




