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白蓮教 首都連続爆破事件  作者: 松本忠之
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白蓮教

午前八時を少し回ったところだった。

上司の急な呼び出しにより、せっかくの休日が潰れてしまった不満を、微信で大学時代の恩師である金橋強にメッセージでぶつけると、王恵妹は渋々、指定された集合場所に到着した。よほどの緊急らしく、上司からは「十分以内に集合場所へ到着するように」との指示があった。到着するや否や、すごい勢いで公安局のパトカーに乗せられて、わけのわからぬまま移動が始まった。パトカーはけたたましくサイレンを鳴らしながら、猛スピードで環状線を西に進んでいく。自分が最後に到着したらしく、直属の上長をはじめ、先輩や同僚はすでに乗車していた。全部で八名。「とりあえず車を走らせてくれ」と助手席から運転手に指示した上長は、「私が現場の群衆管理の主任を命じられた」と後部座席を振り返って全員に告げると、行先は海淀区の湖北ビルだと告げた。だが、何が起こっているのかについては、あいまいな説明に終始し、はっきりと説明しなかった。王恵妹がわかったことは、海淀区の湖北ビルで爆破があったこと。まだ事故か事件かの判断はついていないが、公安にも出動命令が出たこと。至急現場に急行して、群衆管理を行うようにとのことだった。群衆管理とは、要するに怪しい人物を見つけ出せということで、野次馬の統制などは地元の海淀区警察の仕事だ。公安は野次馬統制などしない。なぜなら、警察よりも階級が上なのだから。上長の言葉にはそんな響きが感じられた。もっとも、これは上長に限らず、公安全体に共通する意識だ。

説明を終えると、上長は黙り込んだ。しばしの間、車内を沈黙が支配したが、やがてそれぞれがぽつりぽつりと会話を始めた。そこで王恵妹は、隣に座った先輩職員に小声で聞いてみた。上長に聞こえないように。

「今回の爆発は、事件性があるんですか?」

先輩職員は困ったような顔をしながら、「おれにもわからない」といいつつ、決定的な事実を王恵妹に告げた。「でも、劉鋭主任が呼び出されたらしいよ」

「えっ!」と驚きの声をあげて、王恵妹がさらに聞いた。

「誰にですか?」

「郭部長に」

劉鋭とは今年三十八歳になる、近年まれにみる公安部における若き秀才で、中国の最高学府である清華大学を卒業。その後、アメリカの大学院に学び、帰国後は数ある大手企業からの魅力的なオファーをすべて断り、国家公安部へ入部した。しかも、ただエリートというだけでなく、容姿端麗。さらにその優秀さを鼻にかけるわけでもなく、とても穏やかで気遣いのできる性格のため、とにかく女性職員からの人気が絶えない。その優れた能力と人柄で国家公安部の上層部にも気に入られ、将来の幹部を有望視されている。ただ、一般の出世株と違うところは、劉鋭には華やかな出自がないことだ。人脈のコネがものをいう中国の政府機関において、これは異例のことだ。劉鋭は田舎の農村出身で、勉学と実力だけで道を切り開いてきた。だからこそ、驕り高ぶることがないのかもしれない。 だが、そんな劉鋭の立身出世を、さらには周囲から集める羨望の眼差しを嫉妬する輩が公安内部で暗躍していることも有名な話だ。

郭部長とは、国家公安部部長の郭白生のことだ。公安部部長という名の通り、全国の公安のトップに立つ人物で、その絶大な権力は公安部の範疇を軽く飛び越え、政治の中枢である中南海にまで及ぶと言われていた。王恵妹のような若い職員にとっては雲の上の存在であり、もちろん一度も面識がない。

国家公安部は全部で二十七の部局で構成されており、国内安全保障局、経済犯罪捜査局、治安管理局、国境管理局、出入国管理局など、国家の安全保障にかかわるすべてが網羅されている。この中の第二十七局は「反テロリスト局」であり、その名の通りテロリストやテロ事件に関する安全を保障する部局となっている。劉鋭はそこの主任である。つまり、劉鋭が呼ばれたということは、これがテロであるということを意味する。反テロリスト局の局部長であり、国家公安局の副部長でもある柳躍進は、劉鋭をいたく気に入り、周囲が実は二人は親族なのではないのかと噂するほどの速さで出世させた。劉鋭にとっては、自分を出世させてくれた上司だ。しかし、劉鋭は決して柳躍進に対して忠誠も感謝もなかった。なぜなら、柳躍進の魂胆が彼自身の出世にしかないことを知っていたからだ。柳躍進は、反テロリスト局で功績をあげて、郭白生の次の部長の座に就くことしか頭にないような男だ。そのために現場と実務に秀でた劉鋭を引き上げ、彼に功績を挙げさせ、それを反テロリスト局の手柄、つまりは自分の手柄にしようという、そんな魂胆が丸見えだった。だから劉鋭は単なる組織上の役割として柳躍進に仕えてはいたものの、心の底から心服したこともなければ、出世のバックアップにも感謝したことはなかった。さらに劉鋭には反テロリスト局の主任という肩書の他に、もう一つの肩書があった。それは、公安秘密部隊の指揮官だ。反テロリスト局の主任は、秘密部隊の指揮官として、極秘裏に特殊訓練を受けるのが公安部の伝統である。もっとも極秘とはいっても公安の外部に対してだけで、内部では誰もが秘密部隊やそこに関わっている人物が誰なのかを知っている。劉鋭が秘密部隊の指揮官として長らく訓練を受けてきたことも、公然の秘密として公安内部では知られていた。ただし、その実態を誰も目にしたことがなかったため、あくまで噂の範囲を出なかった。

郭部長直々に、反テロリスト局の主任であり、秘密部隊の指揮官である劉鋭を呼び出した。その事実が、この事件の重大性を物語っていた。そして、次の瞬間、王恵妹はあることに気付いた。なんと今日は北京市内で元国家主席の逝去を悼んでのパレードが行われる日ではないか。追悼パレードの開始時間は正午十二時。天安門から出発する。パレードを狙うテロなのだろうか。いや、それなら正午以降の時間を狙うはずだ。追悼パレードの開始時間は一般に公開されている。だが、爆発が起こったのは午前八時。湖北ビルは追悼パレードの道順には含まれていないし、時間もパレード開始よりずいぶん早い。王恵妹らは外れていたが、このパレードのために、特別に組織されたグループが今日は出動している。それら別部隊は、何か情報をつかんでいるのだろうか。

パトカーはわずか十数分で湖北ビルに到着した。普通に移動すれば三十分はかかるだろう。それを半分以下で移動したことになる。ここから上長は群衆管理を行う公安局員の現場主任となる。一人の局員が質問した。

「主任、我々は何をすれば?」

「今、現状把握を行っている。しばらく車内で待機だ。この間に、服装、装備、無線、携帯などのチェックを行い、万全の体勢を整えておくこと」

 各々が言われたとおりにしていると、王恵妹の携帯が鳴った。微信のメッセージで、金橋からだ。その内容を見て、王恵妹の顔が青ざめた。なんと金橋は、この湖北ビルに向かっているという。単なる火事と認識している金橋は、現場が住まいからすぐ近くということもあり、興味本位で向かっているらしい。しかし、これは爆破事件の可能性が高い。もしも、第二、第三の爆発物が仕掛けられていたら…。とっさにその危険を感じた王恵妹は、主任に一言断ると、車を降りて金橋に電話を掛けた。

「よぉ。久しぶり…」とのんきな声が聞こえてきた。

「先生、今どこ!」

王恵妹は無意識に叫んでいた。

「ど、どうしたんだ、急に」

「今、どこにいるの!」

「さっきメッセージで送ったけど、大学の近くで火事があってな。それで…」

「それはわかってる!先生はもう現場に着いたの?」

「いや、まだだけど。もうすぐだ」

「近づかないで!」

とにかく必死に止めなくては。

「な、なんだ?いったい、どうした?」

「王恵妹、指示を出す。車に戻れ!」

車内から主任が叫んだ。

「すぐ終わります!」と王恵妹が叫び返した。

「ごめんなさい、先生。今ちょっとドタバタしてるの。でもとにかくこれだけは伝えたくて。先生、とにかく近づいちゃだめ。湖北ビル周辺は立ち入り禁止だからね」

「湖北ビル?」

金橋は、現場が湖北ビルであったことは知らなかったようだ。だが、王恵妹は構わず一方的に電話を切って、車に戻った。

「たった今、ZG本部の李凱副指揮官から指示が出た。野次馬は警察が統制している。我々公安は、その野次馬の中に、怪しい人物がいないかどうかを調査しろとのことだ。ZG本部が設置されたということは、これが単なる事故ではなく人為的な爆破事件だと認定されたことを意味する。さらに上層部は、今回のこの事件は我が国の安全を揺るがしかねない深刻な事態であると認識している。現在、ZG本部でテロ組織の照合や犯行声明の有無を調べている。今後、次々と応援がここに駆けつけるだろう。我々は第一陣だ。セオリー通り、爆破事件の犯人は、自分の成果をその目で確認するために、野次馬に混じっている可能性が高い。単独犯か複数犯かはまだわからない。とにかく、挙動の怪しい者がいたら、無線で私に報告せよ。まだ、手を出すな。声もかけるな。見失わないように注意しながら、無線で私に報告せよ。もし、その怪しき者が現場を離れたら、尾行すること。車や二輪で移動した場合は、ナンバープレートと向かった方向を報告すること。すぐにでも海淀区に検問が張られ、そこで確保することができるだろう」

車内に一気に緊張感が高まった。

「それでは、全員、出動!」

(先生、絶対にここに来ちゃだめだからね)

王恵妹はそう心で願って任務を開始した。


国家公安部の総本部は北京市の中心部、天安門広場のすぐ東側にある。大通りを挟んだ向かい側には有名な故宮博物館。そして、その西側には国家権力の中枢・中南海が広がっている。この総本部から南へ約二キロ行ったところに、北京市公安局がある。国家公安部は国全体の公安を管轄し、北京市公安局は文字通り北京市内のみを管轄する。王恵妹は北京市公安局の所属であり、いわば地方公務員だ。一方、劉鋭の所属は国家公安部、つまり国家公務員である。しかし、劉鋭は入部間もない頃、現場の仕事を知ること、また国家公安部のお膝元である北京市公安局にて人脈を作らせる目的により、北京市公安局に出向していた時期がある。

その劉鋭は、午前八時過ぎに爆発事件発生の報告を受けた後、この総本部の自分の執務室に来た。ZGが出動するとなれば、司令官として出動命令が出るであろう。ZG出動かどうかの判断が間もなく下される。上司である柳躍進がそう言っていた。劉鋭は、あくまで平常心を保っていた。こんな時、通常の人間はいろいろな想定を頭でシュミレートする。出動となればどうなる。出動しないとなればどうなる。出動した場合は、どうやって動くか。どんな指示を出すべきか…など、頭で考えだすときりがない。しかし、入局一年目から特殊部隊で訓練を受け、さらにその後は特殊部隊の指揮官たるべく鍛え上げられた劉鋭は、どんな状況に置かれても平常心と冷静さを保つよう訓練されていた。平常心と冷静さこそが、正しい決断を下す基本的要素だと教えられてきた。慌ててはならない。余計なシュミレーションや空想は不要だ。ただただ、目の前に現れる事実に即して思考し、決断し、行動せよ。劉鋭のモットーは「実事求是」だ。

デスク上の電話が鳴った。公安部部長、郭白生の秘書からだ。

「劉鋭主任、郭部長がお呼びです。至急、お上がり下さい」

この呼び出しにより、ZG指揮官としての出動が判明した。出動しないなら、自分が郭部長から直接呼ばれることはないからだ。劉鋭は「わかりました」と言って電話を切ると、すぐに内線を柳躍進に回した。

「今、郭部長から呼び出しがありました」

「そうか。しっかりと任務を果たしてくれよ」

 劉鋭には、それが国家の危機を救うためではなく、柳躍進の出世のためにという風に聞こえた。

「それから、醜い鴨が二匹、郭部長の元に控えていることだろう。そいつらの言うことは無視しておけ。お前は、郭部長と私の指示に従うだけでいい」

「わかりました。では、行ってまいります」

こんな時にまで、出世競争か。さすがの劉鋭もため息が出そうになったが、平静を保った。柳躍進の役職は副部長。次期公安トップの座を虎視眈々と狙っている。そして、そんな副部長はあと数名いた。

エレベーターで総本部ビルの最上階に上がる。二十階。ここが部長フロアだ。エレベーターを出て右へ。突き当りのドアには「公安部長室」のプレート、その横には「郭白生」のネームプレートがかかっている。国家公安部だけでなく、地方の公安局含めて、全国の至る所に、虎視眈々と、この部屋のネームプレートに自分の名前を載せようと企てている者がいる。郭白生と書かれたネームプレートを眺めながら、劉鋭は軽く深呼吸した。この一枚のネームプレートに群がる者たち。実力、実績、世渡り、運、コネ、根回し、気遣い、貢物、賄賂、裏金、ハニートラップ、はては殺人まで起こる。金と権力欲にまみれた汚い世界。劉鋭は自分に言い聞かせた。周囲に粉動されてはいけない。郭白生におべんちゃらを使う必要もない。ただ礼儀と常識を以って接し、与えられた任務をやりきるのみだ。

ドアをノックした。

「入れ」

中の声に促されて入室すると、まず目に入るのは正面の大きなテーブルと、その奥に飾られた無数の豪華絢爛な品の数々だ。全国各地から、郭白生に送られたものだろう。絵画、彫刻はもとより、書画、茶器、ソファ、万年筆、タバコ、酒など、すべてが高級品だ。こんな部屋にいて、湖北ビルの爆破という危機にどう向き合うのかと疑問を感じつつ、劉鋭は深く一礼した。

「座ってくれ」

「失礼します」

部屋にはすでに、二人の幹部が座っていた。柳躍進が言うところの醜い鴨。副部長だ。中国で鴨は侮蔑用語として用いられる。それだけ、柳躍進とこの二人は仲が悪いのだろう。いや、権力闘争のライバルなのだから、仲が悪いなどいう次元ではないだろう。劉鋭はこの二人と面識はあるが、深く話したことはない。一人は敵意をむき出しにしており、もう一人は見下した目線を劉鋭に向けていた。彼らからすれば、劉鋭は柳躍進の手先だからだ。

劉鋭がソファに腰かけると、郭白生は吸っていたタバコを灰皿に押し付けた。銘柄は中華。中国で最高級のタバコだ。しかし、この部屋でに見えるものは郭白生の所有物のほんのわずかにすぎない。凡人には想像もつかないほどの資産が海外に隠されているからだ。 それはもはや、公安局では公然の秘密であった。

「湖北ビルの爆破は聞いているな?」

でっぷりと突き出た腹に二重あご。この国で最高クラスの権力の座に上りつめ、贅沢の限りを尽くしてきた醜い身体がそこにはあった。

「はい」

はっきりとした口調で答える。どんな時でも動揺を言外ににじませてはならない。そう訓練されてきた。「は、はい」「はい…」などと曖昧な返事は一切許されない。特にこんな状況下においては。

「つい先ほど報告を受けた」と郭白生は言ってから、少しの間を置くと、「結論から言おう」と身を乗り出した。

「テロだ」

一瞬の静寂。だが、非常事態にも関わらず、二人の副部長からは共にこの危機を乗り越えようという連帯感は一切感じられなかった。

「周均平主席から直接指示が来た。ZGを稼働させる」

ZGとは世の中には公表されていない、公安部の秘密部隊の通称である。正式名称は「祖国之龙」(祖国の龍)。「祖国」の発音のローマ字表記はZuGuo。その頭文字から来ていた。武装した特殊部隊と、ビッグデータを元に情報解析を担当するIT部門から成り立つ。国家主席が自ら、そのZGの稼働を指示したという。中国には、人民武装警察部隊、通称「武警」と呼ばれる部隊があり、これは国家中央軍事委員会の指揮下にある準軍事組織だが、その指揮権は公安部長も兼務しており、公安部の指揮で動かすことができる。しかし、今回は世の中に対して公になっているこの「武警」ではなく、ZGが稼働するという。武警だけではなく、ZGを稼働させる理由は、今日が特別な日だからだ。追悼パレードにもしものこ とがあれば、それこそ国の威厳は地に落ちる。なんとしてもそれは阻止しなければならない。また、中国の正式な軍隊である人民解放軍は、外国からの侵略や国内の自然災害時に出動することを基本としている。自然災害以外で軍を出動させることは「戦争」を意味する。テロだと国が断定した相手に対して、軍を派遣することは、この国がテロを「戦争相手」として認めることとなるが、それは許されない。なぜなら、テロはあくまでテロであり、戦争のように国と国が互いの武力で、宣戦布告をして行う行為ではないからだ。テロリストとはそれだけ野蛮で卑劣な人種なのである。そんな相手に、軍を出して戦争を仕掛けるなどどいうことは許されない。国家の面子に関わる。つまり、今回のZG派遣の決定には、 テロリストを戦争相手と認めず、尚且つ追悼パレードに影響を与えることなく、この国の面子と威厳をわずかでも失墜させることなく治めなくてはならないという、複雑で、難しい任務だ。だからこそ、ZG派遣が決定されたのであろう。劉鋭はそう考えた。

「指揮を採れ」

「わかりました」

「問題は…」

郭白生はひとつため息をついた。

「何一つ情報がないことだ」

「といいますと?」

「リストに未掲載のテロ組織と思われる」

国家公安部のデータベースには全世界の、そして国内の過激派テロ組織のリストがある。要するにブラックリストだ。

「そんな団体が存在するのですか?」

国家公安部のセキュリティー網に引っ掛からない過激派組織など存在するのか。

「どうやら、していたようだ」

「どうして、未掲載のテロ組織だと?」

「これを見ろ」

郭白生が携帯を取り出すと、一枚の画像をモニターに映し出した。 見たこともない紋章のようなものがそこには映し出されていた。

「これはいったい?」

「湖北ビルの爆発現場付近に落ちていたそうだ。テロリストからの何らかのメッセージだと思われる。だが、声明もなければ、その紋章が意味するところのものも、よくわかっていない。そこから調べるんだ」

まったくの手がかりなしということだ。

「今すぐZG本部へ行け」

ZG本部とは、ZGの指令室のことである。この建物の地下に存在する。もちろん、緊急事態でない限り、そこを使うことはない。

「私はここに残る。本部には入らない。お前に全権を委任する。すでに委任状にサインをして、本部に届けさせた」

「ありがとうございます」

「周国家主席にも、お前が指揮を執ることを伝えた」

劉鋭はじっと郭白生を見つめた。この言葉の真意がわからなかったからだ。だが、もはや長居は無用と本部へ向かおうとした。

「それでは失礼します」と退室しようとしたその背中に、郭白生の声がした。

「わかっているな?今日が何の日か」

「はい」

「連中が狙っているのがパレードだとすると…」

「もちろんです」

劉鋭は郭白生の言葉を途中で遮り、西側を指差した。

「あそこには指一本、触れさせません」

政治の中枢、中南海のある方向だ。パレードで犠牲者が出れば、中南海に影響する。この国の面子を守る戦いだ。

「よろしい」

郭白生の声を背に劉鋭は退室した。劉鋭は、この国の面子を守るために自分の身を捧げようと決意した。彼らの出世のためではなく。

「郭部長。なぜあんな若造に?私の配下には、もっと適切な人材がいます。今からでも遅くありません。呼び出しますよ」

副部長の一人が郭白生に聞いた。

「誰だ?」

副部長が一人の名前を告げた。しかし、郭白生はすぐさま却下した。

「今回は相当難しいハンドリングを求められる。はっきり言って、彼には無理だ。対して、劉鋭は確かに若いが、能力はある」

 二人はまだ納得していない様子だった。劉鋭に手柄をたてられては、自分たちの出世に影響するからだ。

「では、李凱を副指揮官として送り込むのはいかがでしょうか?」

郭白生は新しいタバコをくわえた。慌てて二人の副部長が火をつけようとしたが、それを制して自分で火をつけると、一服してから言った。

「君たちが推薦するというのか?」

「そうです」

「柳躍進の意見も聞いてみよう」

李凱。公安局内部でも群を抜いた嫌われ者だ。なぜか。金のためなら何でもする男だからだ。派閥には所属せず、どの派閥の誰であろうと、金さえ渡せば、あの手この手でターゲットの粗探しをしては上層部に報告する。そんな人物だ。なぜそんな人物が公安にいられるのかと疑問を持つのは素人の考えだ。需要があるから居続けられる。ただそれだけ。李凱は高学歴で要領が良く、昇級試験では常にトップ。しかし、人格が卑しく、裏金で私腹を肥やすことにどっぷりと浸かっていた。粗探しをする際には、証拠は一切残さない。証拠がない以上、李凱にまつわる黒い話は、あくまで噂でしかない。そんなポジションを公安局内部で確立していた。

郭白生は内線で柳躍進に李凱の副指揮官就任を打診した。電話が終わると、二人に返答した。

「反対していた。しかし、私が必ずそうすると言えば、賛成せざるを得ないという回答だった。納得もしないし、歓迎もしない、といったところだな。それでも君たちは李凱を勧めるのだな?」

「はい。ぜひ、李凱を副指揮官に」

二人の副部長には派閥争いしか頭になかった。

「そこまでいうなら、そうしよう」

こうして、指揮官に劉鋭、副指揮官に李凱という体制ができあがった。


「劉鋭」

ZG本部で、ひとりの男が声をかけてきた。

「ZGの副指揮官を拝命した。よろしくな」

李凱だった。劉鋭はもちろん、この人物について、いろいろと聞いている。だが、今はとにかく任務が最優先だ。

「よろしく。入ってくれ」と劉鋭は李凱を指揮官室に招くと、「状況は?」と聞いた。

「これまでにわかっていることは…」

李凱は湖北ビルの爆破についてその経緯を語った。死亡者は十二名、重軽傷者は五十五名に達していた。

「テロ集団の正体は?」

「リストに載っていないグループのようで、何も情報がない」

李凱はモニターを指差した。そこには公安局が指定している国内過激派テログループのリストが映しだされていた。

「先ほど部長からも同じことを聞かされた。だが、どうしてこの中にいないと言い切れる?」

「それぞれを監視しているチームからは、北京で爆破事件を起こすような兆候も行為もなかったと報告が入ってきている」

「部長からは爆破現場に置かれていたというエンブレムのようなものの写真を見せていただいたが…」

劉鋭の頭に、郭白生が携帯で見せてくれたあの画像が浮かんでいだ。

「あぁ。あれか」

李凱がパソコンのキーボードをたたくと、画像が映し出された。

「テロ対策課に照合に出したが、過去の記録でもヒットしないし、そもそもこんな紋章、誰も見たことがないそうだ」

「謎のテロ組織…ということか」

一瞬の沈黙が流れた。

「部隊のメンバーはもう全員揃っているのか?」

部隊とは武装部隊のことだ。

「あぁ。待機している」

部隊の待機室には、総勢五十名が待機して劉鋭の指示を待っている。

「行こう」

劉鋭は李凱と共に待機室へ入った。ZG部隊の全員が一斉に起立して迎える。正面に演台。演台上にはマイクとタブレット。その背後には巨大なプラズマ製のスクリーン。劉鋭は堂々とした足取りで演台に向かった。得体のしれないテロ組織が、まさに今、我が国の首都を攻撃している。すでに死傷者は七十名近くに達している。この危機を救う、頼みの綱はこの部隊だ。劉鋭は演台にたどり着く直前にチラリと腕時計を見た。妻がプレゼントしてくれたアルマーニの腕時計は午前八時三十二分を指していた。劉鋭はマイクに向かった。

「大家,辛苦了」(諸君、ご苦労)

「为人民服务!」(人民に奉仕を!)

全員の揃った声。日頃の極秘訓練からの変わらぬ冒頭のやり取りだ。

「いよいよわが部隊がその真価を発揮する時が来た」

隊員の緊張した顔が並んでいる。

「時間がない。指示に入る。全員、着席」

事態は急を要する。余分な説明は省く。全員が着席して指示を待つ。

「指示を出す。全員待機」

李凱が目を見開いて劉鋭を見た。誰も声は発していないが、驚いた空気が部屋を満たした。みな、湖北ビルへの出動命令を待っていたのだろう。

「なぜだ?」

李凱が問いただした。

「なんだ?」

劉鋭が聞き返す。

「なぜ出動しない?なぜ湖北ビルへ行かない?」

「李凱。ここの指揮官は私だ」

「だが、すでに爆発は起こっているんだぞ。犯人がまだ周辺にいるとすれば、今から出動させても遅いくらいだ。爆発犯は、自分の成果をその目で見たいがために、現場に残るか戻ってくるのがセオリーだ。だから早くZG部隊を現場に送り込み、そこで待機させて、犯人グループの存在が確認されれば、すぐさま逮捕…」

「口を慎め!」

劉鋭が李凱を一括した。待機室の空気が凍りつく。ZG部隊をゆっくりと振り返って、劉鋭は威厳に満ちた声で言った。

「ここの指揮官は私だ。その私が、今は待機を命ずる。以上!」

 そういうと劉鋭は退室し、続けてITセンターへと向かった。ここには、普段は国家公安部のIT人員として働いている人員が、湖北ビルの爆発を受けて召集され、ZGのITセンターと名付けられて機能していた。李凱が慌てて追いかけてきた気配があった。劉鋭はITセンターからの情報に懸けていた。国家公安部の包囲網を潜り抜け、リストにも載らず、それでいて首都の北京で爆破事件を成功させたほどの相手だ。まさに前代未聞。生半可な相手ではないことを感じ取っていた。ZG部隊はこの国において誰よりも訓練された精鋭の集まりだ。むやみに出動させたくはない。ここぞというときに投入させてこそ、真価を発揮する。だが、今はまだその時ではない。そう判断した。また、劉鋭は次の爆破が必ずあると 踏んでいた。証拠はない。勘だ。ここまで一切、その姿を隠してきた謎の組織だ。そんな連中が、ついに姿を現したのに、一回の爆破だけで終わるはずがない。彼らには彼らの目的があり、それが達成されるまで無差別テロを続けるだろう。最終目的を元国家主席のパレード現場での爆破テロと定め、この国の面子と威厳を失墜させる。それを目的とした連続爆破無差別テロだと劉鋭の勘が告げていた。だとしたら、実行犯に自白をさせようと試みている間に、次々と爆破事件が起こる可能性がある。それなら、実行犯を捕まえるよりも、次の爆破がどこかを特定することが先だと劉鋭は考えた。だが、相手の正体すらわからない状況のなかで、どうやって次の爆破場所を特定すればいいのか。それはもはや情報戦で ある。現場に残された物証やIT部門がリサーチしている情報から読み取るしかない。今は、ZG部隊よりIT部門だ。それが、劉鋭がZGを待機させた理由だった。

ITセンターに入ると、そこはZG部隊の待機室とは打って変わって、騒がしかった。 ひっきりなしにスタッフの携帯がなり、パソコンを打つ音がそこにまぎれている。携帯を手に激しくやり取りしていた女性スタッフの一人が劉鋭の姿を見て驚いたように立ち上がった。劉鋭はすぐにそれを手で制して座ったまま電話を続けるようジェスチャーで示した。

「ZGの指揮官に任命された」

電話を終えた女性スタッフに劉鋭が声をかけた。小柄で細身、いかにもITが得意そうな容貌。それがIT部門の責任者である顔露であった。まだ四十前と若いが、北京大学の情報科学科を卒業し、MITで博士号を取得した英才だ。

「劉鋭指揮官。お疲れ様です」

「ご苦労。体調は大丈夫か?」

劉鋭が気遣いを見せた。顔露の疲れた顔が急にほころんだ。

「大丈夫でなくとも、やらなければなりませんから」

「確かにそうだ。だが、今ここで君に倒れられたら困る。賢明に休息を取りながら仕事を進めてくれ」

「ありがとうございます」

 顔露の顔がまたほころんだ。そんな光景を李凱が疎ましそうに見ていた。

「現在は湖北ビルで見つかった現物を元に、犯行グループについて情報を集めていますが、まだ特定できていません」

「私が思うに、爆破はまだある」

「えっ?」

顔露が劉鋭を見つめた。李凱もつられて劉鋭に視線を向けた。

「しかも、次だけじゃない。我々が犯人を確保するまで、連続して起こる可能性がある」

「連続爆破テロ、ですか」

 顔露の顔に緊張が高まる。

「犯行グループの特定を急ぐとともに、次の爆破場所も突き止めてほしい」

「そう言われても、爆破予告もないし、どうやって突き止めれば…」

「確かに爆破予告はない。だが、犯行グループは湖北ビルにメッセージを残していった」

「メッセージ、ですか?」

 顔露は該当するものが見つからないという表情をした。

「エンブレムだ」

はっと何かに気が付いた表情の顔露が、そのエンブレムをパソコンの画面に映し出した。

「これですね?」

「そうだ。何か情報は?」

「現在、画像認識も含めて、すべての線で当たっていますが、まだ確たる情報は見つけられていません」

「ビッグデータの照合は済んでいるんだな?」

「はい。それでも情報はありません」

「実物はあるか?」と劉鋭が聞くと、「はい。まだ鑑識には戻していないかと…」

顔露は部下にエンブレムを持ってこさせた。重要証拠品として、透明のビニール袋に入れられている。劉鋭は手袋をしてから、直に手に取りじっと見つめた。それは鉄製で円形だった。黒地に白抜きで、花のようなデザインがあしらわれている。六つの花びらが並び、その真ん中に何やら記号のようなものがある。劉鋭自身も初めて見るものだった。

「このエンブレムから手がかりを探すのに、どれくらいの時間をかけた?」

「実物が届く前に、画像を受け取ってから開始しましたから、もう十分はかけたかと」

「画像の分析と特定が十分では足りないということはよくあるのか?」

「まさか!」 やめてください、と言わんばかりに顔露は否定した。

「三分から五分あれば特定できます。このエンブレムの奇妙なところは、解析データがはじき出す近似データすら、ほとんど出てこないことです」

通常の数倍の時間をかけても特定できないうえ、手がかりらしきものもほとんど見つからない。しかし、今のところ、これしかはっきりとした手がかりがない以上、ここを追究すべきだ。こんなものが湖北ビルに落ちているわけもなく、これは明らかに犯行グループのメッセージなのだ。

「爆弾の原材料の線も追っているな?」

「はい。科技課から調査依頼が来ましたから。でも、こっちも時間がかかりそうです。なぜなら、特殊な原材料ではないため、入手経路が無数にあるからです」

その瞬間、劉鋭は決断した。

「よし。このエンブレムの画像を、現場で群衆管理に当たっている公安局員、全員に送ってくれ」

「え?」と顔露はすぐに理解できなかった。

「今すぐだ」

「なんで、そんなことを?」と問いただす口調で聞いてきたのは李凱だった。

「なぜ?理由は簡単だ。ここで調べても見つからないからだ」

「ここで見つからないものを、現場に送ったところで、何の意味がある?見つかるわけないだろう!」

李凱はまったく信じられないと抵抗した。

「ビッグデータで見つからないものが、どうして一般人への聞き込みなんかで見つかるんだ?そんなもの、長江に投げ込んだ一匹のめだかを見つけるようなものだ」

「だったら、そのめだかを探せばいい」と劉鋭は即答した。

「群衆管理に当たっている局員に指示を出すんだ。現場の野次馬にこの画像を見せて聞き込みしろと。爆発犯は、自分の成果をその目で見たいがために、現場に残るか戻ってくるのがセオリー。お前もそう言っただろう?」

「馬鹿げている!そんなんで見つかるんだったら、このITセンターでこんなに苦労はしないさ!それに、これは爆破事件の大事な証拠だ。その画像を見せて回って、野次馬たちが騒ぎ出したらどうする?微信や微博で出回ったらどうする?メディアの連中が騒ぎまくって、収集がつかなくなるぞ!」

「中央電視台にお願いしてニュース番組で流してもらうか?微信や新浪に頼んでこの画像の手掛かりを探してもらうのか?大袈裟なことを言うな。画像を見せるだけだ。画像の写真を取らせなければいいだけだ。それに、記者が騒いだところで、全メディアに情報規制の通知を出せばいいだけだ。むしろ、情報の広がりを敢えて規制しないことで、手がかりがつかめるかもしれない」

そして顔露を振り返った。

「すぐに送ってくれ。ただし、湖北ビルの現場で群衆管理に当たっている者だけだ。それから、私のメッセージを添えてほしい。メッセージはこうだ」

 劉鋭が口頭でメッセージを伝える。顔露がそれを素早く携帯に打ち込む。李凱がまだ何か言いかけたが、口をつぐんだ。 現場第一主義。それが劉鋭の主義だった。


湖北ビルで警備にあたっていた王恵妹の携帯が鳴った。

公安部からのメールだ。件名には「秘密厳守・漏えい即罰則」と厳しい文字。こんなメールを受け取ったのは公安局員になって以来、初めてのことだ。 メールには一枚の画像が添付されていて、本文には劉鋭からの指示として、こんなことが書かれていた。

「この画像を野次馬に見せながら湖北ビル周辺の聞き込みをするように。画像を見せたときの様子が不自然な者については任意で事情聴取をしろ。ただし、決して強引にはやるな。事情聴取は必ずパトカー内で行うように。現場にはメディア記者がたくさん来ているはずだ。下手なことをして公安の威厳に傷をつけたり、批判記事を出されるような落ち度が出ないよう十分注意するように。どんな小さな情報でもいい。何かわかったらすぐに報告をしろ。情報に価値があるかどうかの判断は現場ではするな。全て本部で行う。また、画像の写真を取られないように注意せよ」

王恵妹はその画像を開いてみた。黒地に白抜きで、花のようなデザインのエンブレム。見たことがない。野次馬に事情聴取と言われても、王恵妹はそんな仕事をしたことがなかったし、あまり気が向かなかった。確かに自分は公安の制服を着ているし、職員証だって持っている。しかし、たとえ任意だからといって、そういう職権をかさに一般市民にあれこれ聞くということに抵抗感があった。そういう仕事は、国家公安部の人間がやるべきだ。もしくは警察。自分はあくまで北京市の公安局員だし、しかもまだ新人だ。できればしたくない。しかし、そんな王恵妹の気持ちを見透かしたかのように現場主任がみんなを呼び集めた。

「みんなもうメールは見たな」

全員が頷く。

「そういうことだ。こんな指示が全員の端末に届くなど前代未聞だ。我々は今、それだけ重大な局面に立たされているということだ」

否が応でも緊張が高まる。王恵妹は鼓動が早くなってくるのを感じた。

「現場保全は警察に任せて、我々は事情聴取を行う」

「逆じゃないんですか?」とひとりの職員が訪ねた。

「事件性があるなら、警察が調べるべきこと…」

それを制するように現場主任が口を挟んだ。

「それを警察にさせられないから、わざわざメールが来たんだろうが。そんなこともわからないのか?誰か、教えておけ」

そして「取り掛かれ」と命じるとその場を去った。王恵妹は重い足取りで野次馬に向かって歩き始めた。とりあえず、声のかけやすそうな若い女性から始めてみようか…。 そんな風に思っていた時、ふとひらめくものがあった。金橋だ。大学時代のゼミの先生だって、立派な聞き込み先だ。それに、王恵妹は金橋に会いたかった。なぜなら、金橋は単なる大学時代の恩師というだけの存在ではなく、青春時代に思いを寄せた相手でもあるからだ。学生時代、奨学金をもらっていたこともあり、王恵妹はとにかく勉学と学内活動に打ち込んだ。毎年継続して奨学金を受け続けるためには、成績は落とせなかった。言い寄ってくる男子学生は山ほどいたが、恋愛対象になる男子学生を見つけたことはなかった。しかし、それは決して恋愛を否定していたわけではなく、単に余裕がなかっただけのことだ。もちろん、中にはいいなと思う男子生徒がいないでもなかったが、結局恋愛にまで発展す ることはなかった。そんな中、王恵妹があこがれの対象として思いを寄せていた人物が金橋だ。日本と中国のハーフというだけあって、端正な顔立ちをしており、キャンパス内でもイケメン教授として有名だった。三十代で独身。専門は漢伝仏教というマイナー分野で、若い大学生には縁がない学問だったが、金橋のすごいところはそれを単に知識だけの、古ぼけた学問として学生に教えるのではなく、現代における生活の知恵、生きる上でのヒントを含んだものとして教えているところだった。それに、どこかの眠くなるような教授とは違って話術も巧妙で、つまりはルックス、授業内容、話術、そのすべてにおいて人気であった。そのため、授業はいつも生徒で教室がいっぱいで、特に女子学生からの人気が高か った。さらに、金橋は授業以外でも学生に親切で、自分の研究室のドアはいつも開け放っており、いつでもなんでも相談を受け付けるというスタンスを取っていたし、相談に行けば親身になって乗ってくれた。そんなこともあり、王恵妹はゼミは絶対に金橋ゼミと決めていたし、倍率の高い競争を勝ち抜いてゼミ生になると、さらに金橋との距離が縮まり、研究や論文で一緒にいる機会が増えた。そうして接するうちに、王恵妹は自然と金橋に思いを寄せていった。ある日、研究室に金橋と二人だけになった時があった。金橋はいつものように自分でお湯を沸かしてお茶を入れ、茶菓子と共に供してくれた。そんな何気ない動作も、大人で成熟した男性の身のこなしに思えた。論文の指導を終えて、二人で一息つきな がら、いろいろな話をした。研究室の窓から入り込む日差しにまぶしそうな表情を浮かべた王恵妹に、金橋は「おっと。気が付かなくて、すまない」とすぐにブラインドを下ろしてくれた。王恵妹は、思わずブラインドを下げる金橋の背中に抱きつきたい衝動に駆られ、それを必死で抑えた。人生で初めて覚えた感情だった。それ以来、金橋を教授としてではなく、異性として見ずにはいられなかった。

王恵妹はポケットからスマホを取り出すと、金橋に電話を掛けた。

「先生、今どこ?」

「湖北ビルの近くだ」

「やっぱり来ちゃったのね。あれだけダメって言ったのに」

「すまない。どうしても気になってな」

だが、いまや王恵妹はその金橋の行動に感謝していた。

「私も湖北ビル周辺にいるから、今からそっちへ行きます。何か目印になるものは?」

 王恵妹は急いで金橋に告げられた場所へ向かった。まさか、恩師との再会がこんな状況下になるとは、思ってもいなかった。

「よぅ」

王恵妹を見つけると、金橋は手を振って迎えてくれた。

「久しぶりだな」

「何年ぶりですかね?」

「会うのは…二、三年ぶりか?」

「そんなに?」

「同窓会以来じゃないかな」

「そっか。そうですね」

「公安の制服が似合うようになったな。顔も凛々しくなって。なんだか学生当時とは人が変わっちゃったみたいだ」

「そんなことないですよ」

「飲むか?」

金橋は王恵妹のために一本余分に買っておいたというミネラルウォーターを渡してくれた。

「で、状況はどうなんだ?」

 金橋はビルを仰ぎ見ながら聞いてきた。

「実はそのことなんだけど…」と王恵妹は周囲に注意して声をひそめると、

「先生だから言いますけど、事件性が高いんです。それも単なる事件ではなく…」

金橋がびっくりして顔をのけぞらせる。

「テロ?」

「はい」

「本当か?」

金橋は湖北ビルの方角を見ながらつぶやいた。

「単なる事故ではなさそうだなとは思っていたんだけどな」

「それでね、先生に見てもらいたいものがあるの」

「なんだ?」

「爆発現場に落ちていた、あるものの画像を見てほしいの。何か知っているかどうか」

王恵妹は携帯を取り出して画像を見せた。金橋は注意深く見守っていたが、次第に顔が険しくなっていった。

「これは…」

「どうしたんですか?」

「これが爆発現場に落ちていたのか?」

「はい」

「公安は、これをどう考えているんだ?」

「私にもよくわかりませんが、テロリストの重要な手がかりではないかと思って、聞き込みをしているんです」

金橋は沈黙した。

「このエンブレムに、湖北ビル…」

すると、やっと沈黙を破って、「あくまで仮説だが」と説明し出した。それを聞きながら、王恵妹は鼓動が高まるのを感じた。もしや、金橋がこの紋章の正体を見抜いたのかもしれない。すると居ても立っても居られなくなり、金橋の手を引っ張ると、すぐに現場主任のもとへ連れて行った。

「お、おい?どうしたんだ?」

 金橋が驚く。

「先生!今のその話、主任にしてもらえる?」

「主任?」

「私の上司」

「なんでだ?」

「いいから、もう一回、今の説明をして!」

なかなか減らない野次馬に、さらに多数のメディアが加わり、現場はさらに騒然としていた。

「主任!」と王恵妹が息を切らしながら金橋を公安パトカーの車内に連れ込んだ。

「何か分かったのか?」

「主任、この方は私の大学時代の恩師です」

「はじめまして。中央民族大学で教鞭を執っています、金橋強です」

金橋が名乗る。

「金先生ですか」

「あ、いや、金橋が苗字で、強が名前なんです」

主任が怪訝な顔をする。

「私は日本と中国のハーフなんです。父親の苗字が金橋なんです」

「あぁ。そういうことか」と納得した主任が、「それで…」と王恵妹に先を促した。

「先生はあのエンブレムの正体を知っています」

「なんだって?」

こんなに早く、自分の部下があのエンブレムについて知っている人物を連れてくるとは思っていなかったのであろう。主任は驚きを隠せなかった。

「本当か?」

「はい。先生、説明してあげて」と王恵妹は金橋を促した。

「いや、あくまで仮説ということで聞いてほしいのですが…」と断ると、金橋が自分の考えを述べた。

「白蓮教ではないかと」

「なんだって?」

「白蓮教です」

金橋は携帯を取り出して文字を打って見せた。

「聞いたことがないな。どんな団体だ?」

金橋は基礎的な知識を語って聞かせた。

「しかし、それじゃ単なる仏教団体じゃないか」

「いや。仏教団体としての彼らは、その後、絶滅して歴史の表舞台から姿を消したと言われているのですが、実は秘密結社は子孫を残し、その使命を継承し、いまだに存在しているという説があるんです」

「秘密結社?説?」と主任の顔がゆがんだ。

「事実じゃないってことか?」

「事実かもしれませんし、そうでないかもしれません」

「そんな不確かな情報を持ってこられてもな」と主任はまともに取り合おうとしなかった。

王恵妹は必死に食い下がった。

「でも、このエンブレムを見て、すぐにそれが、えっと…」

「白蓮教」と金橋が補足した。

「そう、白蓮教だってわかる人なんていますか?」

言われてみれば確かにそうだと主任は頷いた。さらに金橋がたたみかけた。

「湖北ビルが狙われた理由も仮説なら立てられます」

「どういうことだ?」

金橋はかいつまんで白蓮教について語った。そして、「私の仮説が正しければ、この後も爆破が起きるかもしれません」と続けた。

「なんだって?」と主任が驚く。

「連続爆破とでもいうのか?」

「その可能性が高いかと」

 主任はしばらく考えた後、「この後に狙われる場所を、君は推測できるというのか?」と聞いた。

二、三のビル名を金橋はすぐさま答えてみせた。

「もちろん、この通りの名前のビルが北京市内にあるかどうかまでは、調べないとわかりません。しかし、可能性はあります」

 主任はまだ報告すべき内容かどうか、迷っているようだった。そこで王恵妹が更にたたみ掛けた。

「どんな小さい情報でも報告しろと言われているじゃないですか。それに、情報の判断は本部が行う、とも」

 王恵妹は必死で金橋の説を上に報告するように主任に迫った。

「わかった、わかった。しかし、いきなり劉鋭指揮官に報告するのは躊躇われる。なぜなら、まだ海のものとも山のものともつかない話だからな」

 そういうと、主任は電話を掛けた。

「もしもし。李凱副指揮官ですね。実は現場で興味深い情報を得ましたので、ご報告させていただきます…」



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