湖北ビル
午前八時前。金橋強は目を覚ますとリビングのテレビをつけた。毎朝の決まった習慣である。ニュース番組にチャンネルを合わせると、思わず顔をしかめた。ここ数日、同じニュースが何度も繰り返し報じられているからだ。
「そうか。今日だったな」
リモコンをテーブルに置いてキッチンに向かう。水道水でうがいをして、顔を洗うと、冷蔵庫からヨーグルトを取り出して一気に飲み干す。これをやらないと、便通がよくない。再びリビングに戻ってニュースを見る。
「我が国の偉大なる指導者、江卓民同志の棺を載せた車は、本日、十一月一日の正午十二時に天安門広場を出発し…」
何度報道すれば気が済むのだろう。そう思った時、家の外でかすかに破裂音が聞こえた。自転車か車のパンクだろうか。
元国家主席が病死したのは一週間前だ。逝去前から、すでに公の場に姿を見せることはほとんどなく、日々のニュース番組や新聞にその名前が載ることもなかったため、一般市民は日常生活の中でその存在を意識することはほとんどなかった。しかし、逝去となると話は別だ。国中がその死を悼んだ。鄧小平によって指導された改革開放政策の成果が徐々にその姿を現し始めてから、やがて世界第二位の経済大国にのし上がるまでの、そのちょうど過渡期を主導した国家指導者であった。その国葬が今日、北京で行われる。遺体を載せた車が市内を巡回するという。恐らく、北京市の中心部はすごい人ごみだろう。そして、もはや北京市の名物となっている交通渋滞が、警察の交通規制によってさらに悪化することだろう。ここ一週間というもの、この国のトップニュースはこの話題で持ちきりだ。
「今日は出かけないほうがいいな」とテレビを見つめながら、金橋はつぶやいた。
金橋強は北京にある中央民族大学の宗教学院で助教授として教鞭を執っている。教え始めて六年。専門は漢伝仏教(中国仏教)。今年で三十八歳になるが、独身である。金橋は日本人の父と中国人の母の下に生まれた。兄弟はいない。日本で生まれ育ち、高校まで日本で過ごしてから中国の大学に入学した。小さい頃から母親に中国語を教え込まれてきたため、中国の大学で授業を受けても何の問題もなかった。湖北省にある武漢大学の哲学科を卒業後、中国仏教の研究をすべく中国佛学院の大学院へ進学した。仏教を学ぶ最高学府である中国佛学院は、基本的に同学院の本科を卒業した生徒でなければ、大学院への入学を認めていない。しかし、武漢大学哲学科の漢伝仏教分野において、ずば抜けた成績と研究成果を残した金橋を、ぜひとも仏教界における中日の架け橋的存在として育成したいと担当教授が熱意を持って佛学院に紹介してくれたことが功を奏し、特例で入学を認められた。
中国佛学院は「知恩・報恩」を校訓とする仏教専門の大学で、一九五六年北京の法源寺に設立された。中国仏教協会の管轄の下、学内の院務委員会が授業、事務など学校の運営を取り仕切っている。ここに学ぶ生徒は「学僧」と呼ばれ、通常の大学とは違い、そのほとんどは高校には通わず、義務教育終了後に出家して、全国各地の寺院で修行している若者の中から、希望者や推薦を受けた者が受験し、合格して入学してきている。カリキュラムは大きく本課コースと専攻コースに分かれており、本課は大学の学部、専攻が大学院に当たる。両コース合わせて百人ほどの学僧がおり、卒業生は各地の寺院で住職になったり、寺院の管理職についたり、また中にはそのまま仏教研究者の道を進むものもある。金橋がここに進学したのは、尊敬する人物、趙朴初がこの学院の卒業生だったからだ。趙朴初は一九〇七年安徽省に生まれた。卓越した仏教研究者であり、同時に傑出した書道家でもあった。愛国心が強く、国の興隆のために仏教家の立場から中国共産党を支持し、人民の解放と社会主義国家の建設に尽力した。金橋が趙朴初を尊敬するのは、仏教家として中国仏教協会会長、中国佛学院学長など国家級の仏教組織のトップに立って活躍した経歴だけでなく、中国書道家協会副主席、中国作家協会理事、中国赤十字会副会長など、多方面にわたる才能を発揮した点で、なかんずく、趙朴初が日本と中国、更には韓国も含めた東アジアの民間交流と友好を促進する基盤を中国で作った点にこそ、その理由があった。
一九五一年。第二次大戦終結から六年、新中国建設からわずか二年という時期に、趙朴初は中国仏教協会を代表して日本の仏教協会へ観音像を贈呈している。そこには中日両国の友好を願う彼の心情が込められていた。さらに一九六二年。鑑真和尚の生誕千二百周年にあたり、趙朴初は中国と日本の仏教協会が共同でこれを記念することを提唱。両国にまだ国交がなかった時代に、中国と日本の友好は長い伝統によって裏打ちされているものであると、その重要性を説いた。民間の次元から、中国、日本、そして韓国を含めた三ヶ国の友好と交流を促進した重要人物であるといってよい。金橋は、中国佛学院の専攻コースで学びながら、趙朴初について理解を深め、自分も同じように中日両国の友好に尽力したいと考えるようになった。それは、日本人の父と、中国人の母を持つ彼のバックボーンを考えたとき、ごく自然な成り行きであった。
金橋の携帯が鳴った。だが、普段の着信音とは異なる不自然な音だったため、最初は自分の携帯だと気付かなかった。しかし、確かにテーブルの上に置いた自分の携帯が鳴っている。金橋は不吉な予感がした。携帯が発する音が、着信音というより警告音に似たものだったからだ。訝しがりながら携帯を手に取ると、画面には「警告」の文字と共に、緊急メールの受信と表示されていた。慌てて内容を確認する。
「火災です。すぐに非難してください」
それは教職員用に大学が用意したアプリで、登録しておくと緊急時に知らせてくれるというものだ。教職員への福利厚生として用意したと説明されたが、実際には大学とアプリ業者の癒着による産物だという噂もあった。携帯の画面にはさらに「避難経路を確認する」というアイコンがあり、それを押すと地図が表示され、自分の位置からキャンパス内の避難場所である運動場への経路が記されていた。窓の外を見ても火災らしき気配はなかったが、やはり不安になった金橋は財布と携帯だけを持って外へ出た。運動場に向かって歩いていると、幾人かの顔見知りの教職員に会った。ここでは多くの教職員がキャンパス内の教員寮に住んでいる。中国の大学では、キャンパスがひとつの街を形成しているところが少なくない。例えば金橋が卒業した武漢大学は、総面積は三四四万平方メートルあり、東京ドーム約七十四個分もある。キャンパス内には校舎や学生寮、運動場や体育館は当然として、スーパーやレストランはもとより、銀行や郵便局、果ては招待所という名のホテルまである。金橋が教鞭を執り、住まいもある中央民族大学のキャンパスはそこまで大きくないが、それでも約三十八万平方メートルの面積がある。この大学は、中国少数民族教育の最高学府として少数民族の人材養成を目指し、一九四一年に設立された。中国には全部で五六の民族が存在するが、中国で九四パーセントを占める漢族と、それ以外の少数民族を含めて、すべての民族の学生が学んでいる。在校生は常に一万人以上おり、学生の七〇パーセントは漢民族以外の少数民族という、中国でも異色の大学である。中央民族大学を略して「民大」と呼ぶ。
「火災だっていうけど、どこなんだろうね」 と教員仲間の一人が声をかけてきた。
「まったくですね。煙も見えないし…」
だが、避難場所である運動場に到着すると、なるほど、上空に向かってもくもくと登る黒い煙が見えた。
「地下鉄の駅のほうかな。意外に近いな」
金橋がつぶやいた地下鉄の駅とは、北京市地下鉄の四号線、国家図書館駅で、中央民族大学の南側に位置する。その方角に煙が見えた。意外に近いところでの火災ではあったが、キャンパスまで延焼してくる心配はなさそうだ。だが、緊急アプリのせいか、続々と人が運動場にやってきたため、いつしか知り合い同士で会話が始まり、なんとなく時間を費やしていた。しばらくすると、金橋は周囲に「お先に」と断ってから自宅へと戻り始めた。その姿を見て、数人が同じように自宅へ戻り始めた。
その道すがら、ふと金橋は昔の教え子を思い出し、スマホのチャットアプリである「微信」(ウェイシン)からメッセージを送ってみた。
「よぅアーメイ。久しぶり。おれだよ。元気にしているか?」
金橋ゼミの卒業生、王恵妹。「アーメイ」とは彼女のあだ名だ。名前の一番後ろの「妹」に、日本語でいう「ちゃん」にあたる「阿」をつけて「阿妹」(アーメイ)と呼ぶ。彼女は現在、北京市公安局に勤めている。この火事と関係があるのかないのかは定かではないが、そういえば最近は全然連絡を取っていなかったことを思い出し、メッセージを送ってみた。
中国北部に位置する内モンゴル自治区出身で、国籍は中国人だが、民族はモンゴル族である王恵妹は、小さい頃から内モンゴル自治区の中でもトップクラスの成績を誇り、中央民族大学は彼女を同自治区からの特待生として招いた。特待生は授業料と寮費が免除され、さらに月に二千元の生活手当てまで出た。その代わり、成績や出席率、生活態度に関する要求は厳しく、ある一定条件をクリアしていないと、次のセメスターから奨学金が減らされたり、最悪は奨学金の支給を停止されてしまう。王恵妹はまじめな生活態度と必死の努力により、非常に優秀な成績のまま卒業を迎えた。その結果、彼女は主席として卒業したのである。金橋自身、自分がゼミを担当した生徒が主席で卒業したことは初めてであり、その結果を知らされたときは、たいそう喜んだものだった。成績優秀なうえ、美貌の持ち主で、まさに才色兼備である彼女には何人もの男子学生がアプローしていたが、彼女は学業や生活態度の悪化で奨学金が停止されることだけは絶対に避けたいと、言い寄る男子学生を歯牙にもかなかった。すると周囲は、王恵妹の性格が悪いだの、顔はきれいだが性格に問題ありなどと、勝手な噂を始めた。しかし、王恵妹の周囲に同性の友達が絶えることはなく、それが彼女の人柄を証明していた。また、王恵妹は金橋を非常に尊敬しており、ゼミの研究以外でも金橋の研究室によく出入りしていた。そのため、悪意ある男子学生は、相手にされないことの腹いせに、王恵妹は金橋と男女関係がにあるなどと言い始め、金橋を困惑させたものだ。確かに、金橋は当時、そして今もって独身である。しかし、あらぬ噂で学部長や大学首脳陣から疑いの目を向けられるのだけは勘弁だった。実際、過去に女子生徒と関係を持ち、退学処分させられた教授がいたらしい。だが、金橋と王恵妹の間に男女関係など存在しなかったし、何より、彼女が特待生として、どれだけ努力し、つつましい生活を送っているのかを金橋は知っていただけに、そんな噂を立てる幼稚な男子学生に腹を立てたこともあった。
運動場から帰宅の途についていると、キャンパスに植えられた背の高い木々の上に煙が見え始めた。黒い煙が相当な高さまで上ったのであろう。木々の葉が緑から黄色、そして黄色から紅葉へと移りゆくのがこの十一月だ。せっかくのその美しい自然の移ろいを、どす黒い煙が邪魔しているように見えた。その時、王恵妹から返信のメッセージがきた。
「お久しぶりです、先生。元気ですよ。でも…最悪。せっかくの休日なのに、ついさっき、職場から急に呼び出しがあって。仕事になっちゃいました」
金橋はすぐに返信を打った。
「それはそれは。世間からは公務員は残業も休日出勤もなくてうらやましいなんて言われるけど、そうでもないんだな。でも、なんで急に呼び出されたんだ?」
王恵妹から返信は来なかった。金橋は特に気にすることもなく帰宅すると、テレビのニュースをつけた。速報でこの火事がやっていないかどうか確認するためだ。ニュース番組では扱っていなかった。ならばインターネットと今度は携帯を見てみた。まだどこにも関連ニュースはなかった。さすがに速報といえども、こんなに早くニュースにはならないか。そう思ったとき、ふと、金橋の中で野次馬心が躍った。そうだ。煙が見えているくらい近いのだから、直接見に行ってみようか、と。元来、好奇心が強く、野次馬になることに躊躇しない性格である。金橋は再び玄関で靴を履くと、電動バイクに乗って煙の方向へ向かった。国立図書館の方角だ。そして信号待ちの時間に、返信の来なくなった教え子に対して、構わず一方的に自分の状況をメッセージで送ってみた。なにせ、ここは彼女の母校なのだ。母校の近所の火事なら、彼女も関心を持つに違いない。
「たった今、大学の近くで火事があってな。キャンパス内からも煙が見えるくらい近場だよ。今まで一度も作動したことのなかった、教職員向けの緊急アラームが作動したんだぜ。びっくりだよ。それで一時、みんなキャンパス内のグラウンドに緊急避難したんだ。でも、おれはどうしても気になって、そんなに遠くないみたいだから、現場に行ってみようと思ってな。今、その道中だ」
返信は相変わらずない。金橋は中央民族大学の北側を東西に通る魏公路から中関村南大通りに出た。すぐに、南の方角に煙が見えた。その方角へ電動バイクを向けた。もし国立図書館で火災だったら、貴重な蔵書が焼けてしまうなと思いながら向かっていくと、煙の出所はどうやら国立図書館ではなく、図書館とは中関村南大通りを挟んで向かい側であることが分かった。煙はまだまだ収まる気配がなく、消防車のサイレンの点滅灯がうっすらと見え始めた。
その時だった。金橋の携帯が鳴った。王恵妹からだ。金橋は電動バイクを道路脇に停車させてから出た。
「よぉ。久しぶり…」
「先生、今どこ!」 と、突然叫ぶように王恵妹が言った。
「ど、どうしたんだ、急に」
「今、どこにいるの!」
「さっきメッセージで送ったけど、大学の近くで火事があってな。それで…」
「それはもうわかってる!で、先生はもう現場に着いたの?」
なぜ王恵妹がそんなに慌てているのか、金橋には訳が分からなかった。
「いや、まだだけど。でももうすぐだ」
「近づかないで!」
こんな激しい口調で王恵妹が自分に話すのを、金橋は初めて聞いた。
「な、なんだ?いったい、どうしたっていうんだ?」
電話の向こうで誰かが怒鳴る声がした。王恵妹がすぐ終わります、とその声の主に叫び返した。
「ごめんなさい、先生。今ちょっとドタバタしてるの。でもとにかくこれだけは伝えたくて。先生、とにかく近づいちゃだめ。湖北ビル周辺は立ち入り禁止だからね」
「湖北ビル?」
金橋がそう返したときには、もう電話は切れていた。
どうしようかとしばらく考えたが、金橋は帰る気にはなれなかった。どうやら、火事の現場は湖北ビルのようだ。金橋は聞いたことがなかった。すぐに百度地図で湖北ビルを検索してみる。すると、驚いたことに、いつも前を通過しているビルではないか。ビルの名前などいちいち気にしないから、湖北ビルと言われても、すぐにこのビルとは結びつかなかったのだ。遠目にも、湖北ビル周辺の混乱ぶりがわかった。王恵妹のあの異常なまでの忠告が気になったが、ここまで来たのだから、やはり見に行ってみようと思った。ビルの敷地内に入らなければいいだけの話だ。周辺から様子をうかがってみよう。金橋は再び電動バイクを走らせた。
湖北ビルが近づくにつれて、火事の実態が見えてきた。地元の消防や警察のほか、すでに公安も到着していて、湖北ビル周辺を黄色と黒の縞模様のテープで覆い、立ち入り禁止にしていた。交通の大動脈である中関村南大通りは火災による交通規制で渋滞が起こり、多くの車が迂回しようと万寿寺路に殺到して、大きなクラクションがあちこちから鳴り響いていた。金橋は電動バイクを道端に止めると、歩いて立ち入り禁止区域のぎりぎりまで行ってみた。よく見ると、警察がビル周辺を立ち入り禁止にしてはいるが、まだテープが張られていない区域もあった。野次馬が殺到し、そこまで手が回らないのだろう。ここで、さらに金橋の野次馬精神が疼いた。警察の目を盗んで、もう少しビルに近づいてみたくなったのだ。まだテープの貼られていない区域から、ビルが良く見えそうな位置を選び、群衆に紛れながら近づいていった。しかし、その時、突然、耳を突き刺すような笛の音が響いた。ギクッとして振り返ると、一人の警官が金橋に近づきながら注意した。
「おいそこ!下がれ、下がれ!」
金橋は手をかざして、わかったと警官に告げる。警官は慌ただしくほかの野次馬の制御にかかった。その隙に、金橋は警官に見つからぬよう、近くの植木の陰にしゃがんで身をひそめて周囲を見回した。正門を中心にテープが張られ、立ち入り禁止になっている。見上げると、そこには黒い煙がものすごい勢いで上がっている。だが、炎は見えない。もう消化作業は終わったのだろうか。しかし、消防車が水をまいている様子はない。それに、火災のはずなのに熱が感じられない。煙は出ているが、炎は見えず、熱さも感じない。火災発生地点がかなり上の階層で、ここまで温度が伝わってこないのだろうか。それとも、消火作業はすでに終わっているのか。
しばらくそこでビルの様子を伺ったが、特に何も得られるものはなかった。だったら、ここにいても意味がないと考えた金橋は、ビル正面の反対側へ移動してみた。幸い、一定間隔で植木があり、警察の立ち入り禁止テープはここまでまだ及んでいない。植木に身をひそめながら少しずつ進んでいった。正門の裏側にも入り口はあったが、ゲートは固く閉ざされていた。湖北ビルを囲む壁はかなり高く、一人で乗り越えるのは不可能だろう。中に入って状況を見てみたい衝動に駆られたが、そんなリスクを冒してまで、侵入しても仕方がないと思い返した。もしもビル内に侵入しようとして警察に見つかってしまったら、注意だけでは済まされそうにない。もう野次馬もこれくらいにして、家に戻ろうかと思案していると、ふと周囲の喧騒にまぎれて、壁の向こう側から何者かの話し声が聞こえてきた。電話で会話しているようだ。金橋は耳を澄ませた。
「郭部長。ビルの消化作業は完了しました。火は大きくありませんでした」
火は大きくない。では単なるボヤか。金橋はさらに耳を澄ませた。
「先ほど、消防隊員の一人が、現場であるものを拾ったと、実物を持ってきました。あとで、その画像を郭部長の携帯に送信しますので、ご覧になってください」
どうやら郭部長という人物が電話の相手らしい。しかも、その口調から、郭部長なる人物が相当、地位の高い人物であろうと推測された。
その時だった。
「何をしている!」
金橋は心臓が止まるかと思った。と同時に、しまったと思った。壁の向こうの声に集中しすぎるあまり、周囲への警戒を怠ってしまったのだ。恐る恐る振り返ると、警官がこちらに向かって歩いてきているのが見えた。だが、目線はこちらではなく、別の方向を向いている。どうやら、他にもこのビルに近づこうとして、見つかってしまった野次馬がいたらしい。金橋はほっと胸をなでおろすと、自分が警官から死角になっていることを再確認して耳を澄ませた。
「とにかく、実物はそちらにお届けします。ZG本部に届ければよろしいですか?顔露さん宛てですね?わかりました」
そういうと、壁の向こうの声は途絶えた。
一体、出火地点に何があったのだろうか?そしてZG本部とは?金橋はその場に身を潜めたまま、携帯でインターネットのニュースを調べてみたが、速報はまだ出ていなかった。なぜ速報が出ないのだろうか。これはかなり大きな惨事だと思うのだが。当然、あの群衆の中には、メディア記者も混ざっているに違いない。気になるのは、壁の向こうで交わされていた電話の会話だ。
「火は大きくありませんでした」
火事なのに、火は大きくなかった。やはり単なるボヤか。だが、単なるボヤで、こんなにも警察や消防が出動するだろうか。原因は何か。火の不始末か、それとも放火か。そもそも、火は大きくないのに、あれだけの煙が出るものだろうか。あれこれと思案する金橋の脳裏に、王恵妹の叫び声が甦る。
「近づかないで!」
金橋は、自分がうかつにも見落としていたあることに気が付いた。王恵妹の反応だ。彼女は今日は休日だが、緊急で出勤になったと言っていた。それに、火災の場所が湖北ビルというのも知っていた。ビル火災で、しかも火は大きくないのに、公安局の王恵妹が緊急出動するのだろうか。もしや、これは単なる火災ではないのではないか。金橋は、注意深く周囲を見渡した。自分が警察から死角にいることを確認すると、さらに思考を巡らせた。単なるビル火災ではなかったとして、公安局が出動するような状況とはなんだろうか。放火か。それなら公安の出動もありうるか。それとも。
「爆発…?」
金橋は自分の脳裏に浮かんだ仮説を自ら否定した。まさか、そんなことはないであろう。だが、もしもこれが人為的な爆破事件だとすると、すべての辻褄が合う。公安局の緊急出動。火はそんなに大きくなかったという会話。王恵妹必死の制止。王恵妹の制止は、爆破だとしたら、二次、三次の爆発があるからではないか。だが爆破事件だとして、なぜ湖北ビルなのだろうか。
「そうだ。こんなときは、あれだな」
金橋は「微博」(ウェイボー)にアクセスした。微博は中国版ツイッターと呼ばれており、登録者が短いコメントや写真を投稿して閲覧者と共有するツールだ。情報統制の厳しい中国では、テレビやラジオ、インターネットや新聞、雑誌などのメディアでは政府の許可が出ない記事は報道されることはない。しかし、微博の場合、一般人が投稿者のため、政府の許可などなく勝手に投稿できる。もちろん、その場合でも、政府の意に反する投稿であれば削除されてしまうのだが、それでも削除されるまでの短い時間内に、その投稿が拡散されることもある。一つの投稿が、わずかな時間内に何千人に引用されることもある。投稿記事は、早ければ五分以内に削除されてしまうこともあるが、拡散のスピードもまた速い。ゆえに、政府が規制をかけて報道しないようなニュースでも、タイミングが合えば、つまり削除される前に目にすることができれば、世の中には出回らないニュースをキャッチすることができる。
北京、湖北ビル、といったキーワードで検索すると、さっそくそれらしき投稿を発見した。
「すごい爆発音とともに、火災発生!北京市内の北西部で!」
「あれは北京大学のある方角だな」
「どうやら火事があったのは湖北ビルらしいよ」
「火事?爆発じゃないのか?」
「爆発?ビルで爆発ってことは、ガス漏れでもあったのかな」
「まさか、爆弾が仕掛けられたなんてことないよな」
さすがに原因を特定するような情報は見つからなかったが、金橋は、主要メディアで速報が出ないことで、逆にこの火災が、何かしらの事件性を帯びていると確信を深めた。火事や事故なら、もう速報が出てもいいはずだ。なぜなら、隠す必要のないニュースだからだ。金橋は王恵妹の携帯を鳴らしてみようと思ったが、それどころではないだろうと考え、微信からメッセージを送ることにした。
「すまない。近づくなって言われたけど、やっぱり気になって湖北ビルまで来てみたよ。単なる火災じゃないのか?君も湖北ビルに来ているのか?」
メッセージが送信された時刻は、午前八時三十二分であった。