思い出
「あっ、そうだ」
涼は何かを思い出したようで、リュックを漁りだした。そういえば、今まで涼が基地に物を持ち込んだことはない。一体なんだろう。
「何か持ってきたの?」
私は意識のほとんどを絵を描くことに向けつつ、尋ねてみた。
「ん、えーっとねー、宿題だよ…」
涼は少しバツが悪そうに答えた。
ちなみにもう夏休みも終わろうとしていたこの頃である。
「えっ、少しマズくない?」
「そう、でもお母さんにはもうおわったって言っちゃったから家ではやりにくいし。でもやらないわけにもいかないから」
だからおれはここでやる と言わんばかりに鉛筆を高らかにあげた。
「ボクくんの邪魔をする気はないからさ。気にしないで」
と言いながら荷台の机に向かった。
緩やかに時は流れる。こうやって何かに集中して取り組むと自分はどこか、別の次元に生きているのではないかと錯覚する。そもそも、今は“ボク”である時点で別の次元に生きているのであるけれども、それを差し置いてもだ。この錯覚はどこか懐かしく、心地よいものだ。
このような幼少期独特の気持ちを忘れないでいられるのが“良い大人”だとするならば、今までの私はそれには当てはまらなかっただろう。だが、そういう子どもの気持ちがわかる大人というのは、たしかにいるだろうが子どもの気持ちを理解できる大人というのはなかなかいないだろうと思う。わかるということと、理解するということは違う気がする。
今の私は子どもの気持ちがわかる大人(身体は子どもだけども)なのか、それとも理解できる大人なのか、少なくとも後者に近い方でありたいと思う。
その後も下書きを続ける。涼の姿も書いてやろうかと思ったが、あとで文句を言う姿が目に見えてしまったのでやめておいた。
「ねぇー、早速邪魔しちゃって悪いんだけどボクくんって算数できる方?」
涼はこちらを向いてきいてきた。
「えっ、うーんまぁまぁかな。」
「じゃーさ、12×12って…」
「あー、144でしょ。」
「えっ、なんでそんなに早くわかるの?ていうかおれ間違えてるし〜」
「いや、だってルートの計算とかでよく使うじゃ…」
「ん、何か言った」
ここで“ボク”がおかしなことを言っているのに気づいた。小学三年生の算数では二桁掛ける二桁の計算は筆算を用いてやるものだ。それなのに私はとっさに高等数学を用いて答えてしまった。
「えっ、何も言ってないよ。そういえばこの前同じ式を解いたような気がしたからさ。覚えてたのかも。」
ととっさに取り繕った。
「なーんだ、じゃ、あってるかどうかわからないじゃん。でも、ボクくん算数できそうじゃん。ちょっと教えてもらってもいい?」
下書きに集中したい気もしたが、それよりも手伝ってあげたいという気持ちが勝ったので二つ返事で荷台へあがった。
いざ涼が取り掛かっている算数の宿題を見てみると、教えてあげるもなにも筆算ばかりであったし、文章題だとしてもそれを用いるものだし、分配法則などその他小学三年生の域を超えたことはできないので、彼の解答の正誤を確認するだけのことだった。その作業が数十分続いた。
「ふっー、終わった。ボクくん確認ありがとね。そして邪魔しちゃってごめんね」
「それはいいんだけどさ、なんで確認する必要があったの?」
少し気になったのできいてみた。
「えっ、それはだって完璧がいいじゃん」
完璧 その言葉が私の中で突っかかる。確かに完璧がいいのかもしれない。けれども
「完璧がいいってわけじゃないと思うな。」
私は堪えきれずそう言ってしまった。それは完璧じゃない自分を立てるためにいったのかもしれない。でも、伝えたいことがあるのは事実だ。
「どういうこと?」
涼はすかさず、私が何を言っているのか理解できないと言わんばかりにきいてきた。
「完璧な方がいいじゃん」
畳み掛けるようにきいてきた。私は一息置いて返答する。
「確かに完璧であることは良いかもしれないけど、良くないかもしれないよ。」
「よくわかんないよ〜」
自分でも何を言っているのか少しわからなくなって、少し笑ってしまった。
「学校とかでも言われない?間違うのを怖がらないでって。」
「言うけどさ」
「例えば、一回間違えたものとかって中々忘れたりしなくない?漢字とかさ。」
「確かにあるけど…」
「だからさ、間違いから学ぶこともあるとぼくは思うんだ。」
「ふーん、ボクくんは難しいかと考えるんだね。でもなんだか少しわかるような気がするな」
涼はちょっと満足しているような顔をした。どうやら上手く伝わったらしい。これ以上掘り下げても分かりにくいし、何より“ボク”にはふさわしくない。でもそれは私自身にも当てはまることだった。こんなことを言えるほどの人間じゃないし、言おうとも考えよくともしなかった。ここに来るまでは。どうやら、この世界での経験は私の考え方を多かれ少なかれ変えているらしい。
偏屈で、卑屈で、悲観的で、そんなが自分が好きじゃないけども、直せなかった。けれども今は少しでも変わっているようなので大きな進歩である。
「ん?ちょっと待ってよ。それにボクくんが完璧じゃないかもしれないじゃん」
彼は肝心なことに気づいたようで笑った。そうである。私が完璧である理由などないのだ。
「完璧な人なんていないってことだよ。」
私もつられて笑った。
その後、15分ほどで下書きも終わった。バランスを取るのが難しかったが、なんとか仕上げることができた。
「ボクくんこんなに絵が上手いんだね」
「そう?ありがとう。」
「これは翔太も喜ぶだろうね」
「そうだといいな。」
基地の門をしめ、柚月たちの元へ向かった。
「おー、2人ともお疲れ。」
帰宅すると、柚月と珠実は居間で素麺を食べていた。
「おれも食べる〜」
涼は縁側から勝手に人の家の居間へと上がり、そのまま食べようとした。
「こらこら待ちなさい。ちゃんと手を洗ってから。まったくもう。ボクくんもお帰りなさい。2人の分もちゃんとあるから。手を洗ってきなさい。」
伯母さんにそう促され、私たちは手を洗い、机についた。
「疲れたでしょ?2人ともいっぱい食べな!」
冷涼感を感じるガラスのお皿に、一口サイズくらいにまとめられた素麺の束がきれいに並んでいる。その間には、氷も置かれていてなんともいい感じだ。
風鈴の音を耳に、夏の午後に食べる素麺は格段に美味しかった。節約のため一人、寂しく食べるのとは訳が違う。素麺を囲むみんなの姿、風鈴の音、生姜のきいた素麺の味、夏の香り、風が頬をくすぐる感覚、五感の全てを使い、思い出として刻んでおきたいという衝動に駆られる。逃したくない。ほんの一瞬でさえも。
小学三年の少年二人はあっという間に素麺を平らげ、満足感に浸った。
「ゔ〜、もうお腹いっぱいだ。ごちそうさまでした」
涼はきちんと姿勢を正してそういった。彼は遠慮とかそういうものはしないようだが、ちゃんと挨拶をしたりできる。そういうことをできる子どもって、現代ではあまりいないんじゃないのかなと思った。
「ごちそうさまでした。」
涼に続き、皿を流しへ持っていく。
「それで下書きはどんな感じなの?」
「そうそうわたしも見てみたい。」
珠美、柚月にそう言われたので、私はついさっき出来たばかりの下書きを披露した。
「うわー、細かく書いてあってすごい!」
「ほんとだ。トラックの細かいキズまでちゃんと書いてある。やっぱりやるね、ボクくんは。」
柚月はそう言いながら私の肩を叩く。なんだか誇らしかった。
「よし、下書きも完成したことだし、早速本番!」
「では、ボクくんよろしくね。」
そう頼まれ、私は10分ちょっとで本番用のポスター用紙に下書きを済ませる。やはり、スケッチブックに下書きして正解だった。
「色塗りはみんなでやろう!」
畳に広げた用紙をみんなで囲み、色塗りを開始した。
なんだか少しだけ、懐かしい感じがした。




