天使か悪魔か
それからしばらく時は過ぎ去り。
大きなクエストを達成させた俺たちや冒険者連中は、それぞれがいつもの日常へと戻っていった。
二人の娘とグラーフは元気に登校し、俺とリーシャは新たに加わった家族であるリルと共に畑仕事で汗を流す。
そんなゆったりとした日常がたまらなく愛おしい。
湖での一件以降、雲がようやく自らの役目を思い出したかのように雨を降らせ始めた。
それに伴って河川や湖沼は潤いを取り戻し、田畑にも存分に水が行き渡ったのである。
【王立学術院】の識者によれば、オークロードが行っていた【フェンリル】復活の儀によって今までの異常気象が引き起こされていたのではないかと言う説も提唱されたが、真偽のほどは結局わからずじまいであった。
俺や他の大勢にとっても、もはやそんなことはどうでもいい。
大事なのは、これでやっと野菜の高騰も収まるであろうと言う事実のほうである。
商店街へ出てみれば、それが顕著に感じられた。
八百屋は威勢を取り戻し、卸問屋や行商人も、皆明るさと元気に満ち溢れているからだ。
実際に高騰が収まるのはもう少し先になるだろうが、それでも農業に従事している人々の心には希望と言う名のあたたかい光が差し込んでいるはずである。
野菜の生育が進み、収穫を迎える歓喜の時を待ちわびているのは俺も同じであった。
もうすぐ実りの秋。
俺とリーシャで育てた作物も一部は病気などにやられてしまったが、素人にしてはそれなりに上手くいっていると思われる。
はすむかいの農業に詳しいガチムチ老人ハリソンさんも『初めてにしちゃよく育っとるわい。お前さんがたがマメに世話をしてるからだな』と豪快に笑っていたほどだ。
正直に言うと市場の高騰さえ収まるのならば、もう野菜を育てる必要性もなくなってしまう。
だが、元々俺の性に合っていたのか、それとも前世が農家だったのか、野菜の育成が楽しくて仕方ない。
『リヒトさんは面倒見がいいからですよきっと』とはリーシャの談である。
リーシャに抱かれたリルも肯定するように『キャン』と鳴いていた。
ちなみに、そのリルについてだが。
この子が伝説の封印されし魔獣【フェンリル】であることは、俺たち一家を除くとほんの一部しか知らない事実である。
だが、さすがに冒険者ギルドへの報告をしないわけにもいかず、諜報部長のリアムさんにだけはそれを伝えた。
しかし彼は俺たちの心情を汲み取ってくれたものか、一般への公表はしないと約束してくれたのであった。
それも、俺が【黒の導師】としてギルドへ貢献していることもあり、ネイビス副ギルド長からの信頼も篤いのがその理由だそうだ。
まぁ、この白い子犬を見せて『はい、これが伝説の魔獣【フェンリル】ですよ』などと言ったところで誰が信じるんだって話なんだけどね。
俺でさえいまだに疑ってるくらいだもの。
リルを飼い始めてから結構経つが、今のところギルドからなんのお咎めもお達しもないところから察するにリアムさんは上手く取り計らってくれたのであろう。
なんと有能な人物であることか。
ああいった稀有な人材が要職に座っているのならば、ギルドも当分は安泰と断言できる。
ともあれ、なんでもない日常に戻った俺は、それを満喫しているのであった。
「リヒトさん、こっちの草むしりは終わりましたよ。あー、お腹空いたー」
「キャンキャン」
「お疲れ様リーシャ、こっちももう終わりだよ。もうすぐお昼だし、それまで菓子とお茶で誤魔化そうか」
「キャンキャン」
「あっ、いいですねそれ。昨日マリーちゃんたちと作ったクッキーがありますよ。持ってきますねー」
「なら俺はお茶の準備をしておくよ」
「はーい」
俺は庭の一角にある井戸へ向かった。
この中へ、お茶を入れて密閉した水筒を放り込んでおいたのである。
深い井戸の水は夏でも冷たい。
俺とリーシャの中ではこの冷やしたお茶がブームとなっていたのである。
もうすぐ夏が終わると言ってもまだまだ暑いからね。
ましてや外での作業とくれば、水分補給がとても重要になるのさ。
俺は紐で縛った水筒を井戸から引き揚げてガーデンテーブルへ戻った。
そしてカップへお茶を注いだ時、リーシャが早くもつまみ食いをしながら歩いてくる。
育ち盛りだから腹も空くのだろう。
「お茶が入ったよ」
美味しそうな笑顔でクッキーを咀嚼するリーシャへお茶を差し出すと、豪快な一気飲みを披露してくれた。
上品そうな顔立ちとは裏腹に、なかなかワイルドである。
だが俺は、そんなリーシャを見るのがなによりも落ち着くのであった。
リルへもたっぷりの水を与える。
白い毛皮に包まれたリルは人間よりも遥かに暑いだろう。
シャリンシャリンと白銀の鎖を揺らしながら必死に水を飲んでいた。
サクサクとクッキーを齧りながらそれを見守る俺とリーシャ。
甘すぎず、焼き加減や歯ざわりも丁度いい。
俺の知らぬ間にかなり上達しているようである。
「リルは可愛いですねぇ」
「そうだねぇ」
「見ているだけで幸せな気持ちになりますよ」
「俺はきみを見ている時にそんな気持ちがわくけどね」
「えっ?」
「あっ、いや、『きみたち』ね、きみたち」
「いいえ! ちゃんと『きみを』って聞きました!」
「ぐっ」
何気なく言ったつもりの一言。
それを聞き逃してはくれない赤毛の少女。
こういう時、リーシャの食いつきは半端ない。
むしろグイグイ来る。
「言ってくれましたよね?」
「あ、ああ、うん……」
なんでか迫力に満ちたリーシャの赤い瞳に逆らってはいけないような気がする。
「それって、私はどう受け止めればいいんですか?」
「ど、どうって言われても……」
やばい。
今日のリーシャは一味違う。
「……そうですか。じゃあ質問を変えますね」
質問と言うよりこれでは詰問だよ。
などとはおくびにも出せない。
「リヒトさんは私のことをどう思ってるんですか? あ、リヒトさんはすぐはぐらかすんで『家族』って言葉以外でお願いします」
「ええぇっ!?」
こんな時に『思ったことをストレートに言っちゃう病』を発症させてくるとは!
俺は足元の地面が崩れ落ちて行くような感覚にとらわれる。
もはや完全に逃げ道を封じられた。
オークロードと相対した時などよりも断然焦る。
どうする?
どうするんだ?
どう答えるのがベストなんだ?
そりゃ勿論リーシャのことは大好きだ。
ぶっちゃければ、その気持ちは家族の域を超えていると思う。
だけど、こんな形でそれを伝えるわけには……!
「さぁ、どうなんです?」
「…………す…………」
「す!?」
クワッとリーシャの目が大きく見開かれた。
ゾクッと背筋に戦慄が走る俺。
彼女の気迫がまるで虎のような形状へ変わって行く。
俺の心意気は、既に捕食される運命を悟った兎と同義である。
「……あのー、お取込み中でしたでしょうか?」
第三者が発する突然の声に、俺とリーシャは飛び上がるほど驚いた。
実際、50センチは浮いただろう。
絶句したまま声のほうを見ると、いつの間にかふたつの人影が立っていたのである。
果たしてそれは、俺を救う天使となるか、はたまた地獄へいざなう悪魔となるのであろうか。




