海と言えば
「マリー! アリス! こっちへおいで! 俺に掴まりなさい!」
「パパー!」
「はいなのじゃ!」
俺は娘たちを両脇に抱え、立ち泳ぎでその場へ留まろうと試みた。
が、想定よりも遥かに水流は早いようだ。
豆粒ほどに見えていたリーシャとグラーフの姿は、もはや大海原に閉ざされ影も形も見えない。
目に映るものの全てが海面のみと化しているのだ。
どうやらまだまだ押し流されているらしい。
まずいな。
これでは方角すらも……いや、方角は太陽のおかげでなんとかわかるか。
でも娘たちを抱えたまま岸まで泳ぎきれるかはわからないね。
あぁ、しまったな。
【コートオブダークロード】さえあれば一飛びなのに……
着替えと一緒に置いてきちゃったよ……
とにかく、こういう場合に慌ててはダメだ。
冷静に、なるべく無駄な体力を消費しないよう心掛けねば。
都合よく流木でもあれば楽できるんだけどねぇ。
「パパ……なんだかこわいの……」
「大丈夫なのじゃ、マリーお姉ちゃん。お父さまに任せておけば安心なのじゃ」
「うん……そうだねアリスちゃん」
きゅっと俺にしがみつくマリーとアリスメイリス。
口ではそう言ってみたものの、やはり不安なのだろう。
そりゃそうだよな。
まだ幼いんだし、こんな広い海に取り残される孤独感は大人の俺でも精神をやられそうになるくらいだもの。
うーむ。
せめて海岸が見えているなら対処のしようもあるんだがね。
広い川で流された場合も同じなんだけど、まずは慌てず水流が弱まるまでそのまま待つのが鉄則なんだ。
必ず弱まる場所ってのがあるからね。
下手に焦って岸へ向けて泳いだところで、激しい水流に負けるのは目に見えている。
そんなもんは無駄に体力を失うだけ。
で、弱まったならば、海岸と平行に左右いずれかへ移動する。
あとは離岸流の発生していない地点から岸まで戻ればいい。
って話を、料理人時代『子豚亭』に来ていた海兵のお客さんに聞いたんだけど、まさか自分で体験することになるとは思ってもみなかったよ。
それにしても副ギルド長のネイビスさんから聞いていた話とだいぶ違うね。
『夏場は穏やかな海で最高ですぞ!』とか力いっぱい語ってたくせに……
『夏場は』……?
もしや夏場以外は荒れてるのか……?
確かに真夏と言うにはまだ早い季節だけどさ……
荒れてても不思議はないし、ギルドとしては何が起こってもしりませんよってこと……?
ちくしょう!
やってくれたなあのおっさん!
「お父さま! 後ろに!」
「パパ! なにあれ!?」
アリスメイリスとマリーの絶叫が俺の鼓膜を激しく打つ。
身体ごと反転させると、波間に何かが見えた。
げ。
嫌な予感しかしないんですけど。
だってさぁ、三角形の黒い板みたいなもんが海から突き出てるんだよ?
しかもやたらと大きな、ね。
そいつが波を縫うように蛇行して来るってんだから……
「マリー、アリス、しっかり掴まっててくれよ!」
「うん!」
「はいなのじゃ!」
俺は全力でバタ足を敢行した。
太陽の位置はほぼ南中。
そして海岸は北方向。
よし、方角は決まった。
太陽を左手側にして進もう。
まずは離岸流から逃れないとね!
バッシャバッシャと足を必死で動かす。
俺のおかしな力のせいで爆発的な水柱が空高くまで上がるが、あまり推力とはなっていないようだ。
「あ、あれっ?」
「お父さま、力みすぎなのじゃ。もっと抑えて抑えて」
「あしはこきざみにうごかすほうがはやくおよげるよ」
「な、なるほど」
負うた子に教えられ、とはまさにこのことだろう。
俺よりも娘たちのほうがわかってらっしゃる。
「でも、へんだねー。さんかくなのまがっていっちゃったよ?」
「マリーお姉ちゃんの言う通りなのじゃ」
俺も追って来ていた背びれと思われるものを見やるが、確かに沖へと逸れて行ったようである。
「んん? てっきり鮫かシャチかと思ったんだけど、もしかしてイルカだったのかな?」
「いるかさん!? みてみたかったー!」
「いや、待つのじゃ。あれは変じゃ、わらわたちでない何かを追っておるような……」
額に手をかざして遠くを見つめるアリスメイリス。
俺の両手は二人を抱えて塞がったままなので目を細めるしかない。
【千里眼】のスキルでもあればよかったんだけどね。
あ、取得すればいいだけじゃないか…………って、冒険者カードも荷物と一緒に海岸へ置きっぱなしだった!
抜けてるなぁ俺。
だが、アリスメイリスの指摘は正しかった。
大きな背びれは、その少し前を泳ぐ何者かを追っている様子なのだ。
餌の魚……にしてはデカいよな。
……え!?
青い……髪!?
「パパ! あれってにんぎょさん!?」
「わらわも人魚に見えるのじゃ!」
息継ぎするためか、ザパッと海から顔を出したのは確かに人間のような顔と真っ青なマリンブルーの長い髪、そして下半身が鱗を持った尾びれになっている人魚としか見えなかったのである。
その人魚を追っていた背びれの主もドッパーンと海から身を躍らせた。
なんだあれ!?
いや、身体は鮫っぽいんだけど、顔! 顔!
輝くような鬣に獰猛な猫科の顔と牙!
見たこともない怪物としか言いようがない。
俺はすかさず睨みつけ【解析】のスキルを発動させた。
モンスター名:【マリンキャット】
個体ランク:85
特殊技能:水属性魔導無効 火炎耐性 水中特化 体当たり 丸かじり 噛み砕き
マリンキャット!?
なんだその名前!
確かに海と言えばウミネコだけど、思ってたのと全然違う!
猫どころかどう見ても狂暴なライオンだよあれ!
「パパ! にんぎょさんたべられちゃう! たすけてあげて!」
「怪物のほうが速いのじゃ!」
娘たちは必死に懇願するが、どうすればいいんだろうか。
【解析】の情報によれば炎と水の魔導では効果が薄いか全く無いようだ。
俺の手持ちの魔導……
有効そうな攻撃系はもはや【サンダーボルト】しかない。
しかし懸念は募る。
この海水に浸かった状況で雷撃を撃った場合、俺はともかく、娘たちに感電の被害が及ぶ可能性もあるからだ。
だが、そこを思案する時間も心の余裕もなかったのである。
マリンキャットとやらの巨大な牙は、今にも人魚に届きそうなほど迫っていた。
本物のライオンが放つような重低音の唸り声と共に。
ええい!
ままよ!
「二人とも、一度潜るから思い切り息を吸って止めるんだぞ! それと、しっかり俺に掴まるんだ!」
頷くマリーとアリスメイリスを確認する。
何も聞かずに同意するあたり、きちんと俺を信頼してくれているようだ。
さすが愛娘たち!
「行くぞ! せーーの!」
ドポン
俺も娘たちをしっかり抱え、海底へ向けて一気に潜る。
5~6メートル程度潜った地点に運良く岩場を見つけた。
ラッキー!
これで海底まで行かずに済む!
俺は海中で反転し足をたわめ、その岩場を全力で蹴ったのだ。
蹴りつけて伸びきった両脚を即座に小刻みなバタ足へ変え、更に推力を得る。
ズバァァァァン
海面を突き破り空高く飛び上がる俺と娘たち。
どうだ!
空中でなら感電の心配もないだろう!
猫鮫は……いた!
「【サンダーボルト】!!」
強烈な魔導力の励起。
反動で俺の左手が激しく振動する。
その腕に必死で捕まるアリスメイリスもガックンガックンと揺さぶられていた。
ごめんよ。
少し我慢しておくれ。
グルォォォォオオオ
凄まじい威力の雷撃を喰らい、断末魔をあげるマリンキャット。
焼け焦げた匂いがやたらと香ばしい。
身体の半分は魚類であるからだろうか。
「パパー! にんぎょさんもぷかぷかしてる!」
「ああ! しまった! やっぱり感電しちゃったか!」
海面まで自由落下しつつ、巻き添えを食った人魚の無事を祈るばかりであった。
ビッターン
俺は空中で娘たちを胸に抱きかかえると、背中から着水したのである。
生身だったらきっと悶絶どころか死ぬほどの痛さだったろう。
子供のころ、川に飛び込んで腹打ちした時のダメージはすごかったからな。
腹が真っ赤になるし、痛みでのたうち回ったもんだよ。
俺は沈みゆく猫鮫を放置し、仰向けで海面に浮かぶ人魚へ泳ぎ寄った。
なにも身に着けていない豊かな胸が上下していることを確認する。
「よし、なんとか生きているようだね」
「よかったぁー! パパ、にんぎょさんをたすけてくれてありがとう!」
「お父さまは流石なのじゃ! かっこよかったのじゃー」
娘たちに手放しで褒められると、なんだか面映ゆくなっちゃうね。
こらこら、キスはやめなさい。
海水だからしょっぱいよ?
「……ぅぅ……」
何度かヒールを施すと、人魚は薄く目を開けてくれた。
重篤な傷がなかったようで俺も一安心する。
人魚は俺たちと目が合った途端、ちゃぷんと顔から下を水に潜らせたのだ。
警戒心なのか羞恥心なのかはわからない。
しかし、青白かった美しい顔に朱が差したところを見るに、後者かもしれなかった。
「あぁ、不躾ですまなかったね。マリンキャットは倒したから安心してくれていいよ」
「にんぎょさんよかったねー!」
「危ないところじゃったのー」
キョロキョロと俺たちを見回す人魚。
もしかしたら言葉が通じていないのだろうか。
彼女は少しだけ笑顔になり、会釈をするように頭を下げると、なにも言うことなくスイッと沖へ向けて泳ぎ出して行ったのである。
だが、これでいい。
下手に人間と関わってもロクなことにならない。
「にんぎょさんばいばーい!」
「気をつけて帰るんじゃぞー!」
全力で手を振る娘たちに、一度だけ振り返った人魚。
その瞳が何かを雄弁に語っているように思えた。
「いっちゃったねー」
「無事に帰れるといいのう」
「きっと大丈夫さ。どれ、俺たちも戻らないとな」
これ以上水に浸かっていたら俺たちがふやけてしまう。
年齢のせいか、最近では風呂に入るとすぐシワシワになるのだ。
しかもふやけた皮膚の回復が異様に遅い。
あー、やだやだ。
つまんない部分で歳を感じるのは嫌すぎるよ。
さて、海岸の方向は、と。
「……ヒト……ん!」
「ん? 俺を呼んだかい?」
「? ううん、よんでないよ?」
「あ、あれはなんじゃ?」
空を指差すアリスメイリス。
そこには黒い何かが飛んでいた。
いや、あれは……
「リヒトさーーーん!」
今度ははっきり聞こえた。
なんでか妙に懐かしく感じる声。
間違いなくリーシャだ。
「まさかリーシャが【コートオブダークロード】を使ってるのかい!?」
「わーい! りーしゃおねえちゃーーーん!」
「ここなのじゃー!」
沸き立つ俺たち。
これでようやく帰ることが出来るのだ。
娘たちの嬉しさもひとしおだろう。
と思っていたのだが。
「キャーーーーー!!」
ドッポーーーーーーーーーーン
リーシャは慣れぬ【飛翔】スキルのせいか、見事に墜落したのであった。




