深淵
……トプン……
俺の耳の中で残響したのは、水中へ没したような音だけであった。
もはや視界は果て無き漆黒が茫漠と広がるだけ。いや、実際は目を開けているのかも不確かだ。
そして次第に、左腕に残されていた小さく軽くとも存在感のある宵闇ちゃんの重みすら消え失せ────
隣であたたかな微笑みを浮かべていたリーシャの面影が消え失せ────
俺は何もかもを失った。
全身を支配するのは、ただ、ゆっくりと先の見えぬ深みに落ちてゆく感覚のみ。
しかし、俺に虚無感や絶望感など無かった。
────あるのは、無敵である自負と、超越者としての自尊心。
得体の知れぬ何かに導かれるまま、俺は奈落へと沈んで行く…………
『……何者だ……?』
「貴様こそ、この領域で何をしている」
『……とても人の放つ力とは思えん……』
「ふむ。こちらの問いには答えぬ、か。不遜であるな」
『……これは……神気……?』
「ほう。そう捉えるか」
『……神にも等しき存在が我に何用なのだ……』
「はっ、笑わせるな。俺を呼んだのは貴様のほうであろうが」
『……我は闘争の果てに衰え、そこへこの地の強き者が命を賭した封を…………待て、ぬしからは彼の聖女と似た気を感じる……まさか……ぬしの同胞……?』
「……やめろ。俺に忌まわしいあれを思い出させるな」
『……深き悔恨……無念……懺悔…………神の如き力を以てしても過ちを犯すのだな……』
「……過度な力など持て余すだけだ。貴様とてそうだろうに。貴様が何者よりもそれを知っていように」
『……』
「今度はだんまりか。人の真似事をするな」
『……我を現世に呼び戻そうとする輩がおる……』
「うむ」
『……我は……』
「言わずともよい。わかっている。貴様が望んでいることも、望んでいないこともな」
『……』
「まただんまりか。フッ、好きにするがいい」
『……ゆくのか……?』
「ああ」
『……結末が同じであろうとも……』
「やめろと言ったはずだ。完全な無に帰したいのか貴様…………ふん、まぁよい。ではな」
『……』
…………不思議な感覚だった。
俺が話しているようで俺は話していない。
会話が成立していたようで全くしていない。
何もかもが解ったようで、まるでわからない。
そんな奇妙で奇怪な感覚。
しかし、そのような出来事が本当にあったのかすらも曖昧となり────
「あれ?」
気付けば俺は、一人ポツネンと荒れ地に突っ立っていた。
空は暗く、周囲には無数の石塊のみが転がる不毛の地である。
景色は全体的に灰色で何やら薄気味悪い。
「どこなんだここは……」
口に出してから気付いた。
今、喋ったのは間違いなく俺であると。
いつもの無精髭、中途半端に肩くらいまで伸びた金髪。
それらに触れた感触。
全くもって間違いなく、いつもの俺であった。
そんな当たり前のことが何故か信じられない気分だった……のだが、理由は思い出せない。
手足も自由に動かせるようなので、少し歩いてみる。
宛などないものの、このまま棒立ちでいるわけにもいくまい。
「……うーん、見渡す限り何もないな……一応、遠~くのほうには山も見えるけど……ってか、あれ、山か?」
独りごちながら進む。
しかし妙であった。
なんだか足元が覚束ない。
腹が減っているせいであろうか、身体がやたらとフワフワする気がした。
「なんなんだよここは……まさか俺は南大陸にでも来ちゃったのかね? あそこは未だに謎の多い土地だって言うし」
サク サク
肌理の細かな砂を踏み歩く。
地面が柔らかい分、腰への衝撃は軽いが、その代わり負担は膝に来た。
こんな時でも年寄りじみた足腰に、思わず大声で笑ってしまいそうになる。
無性に絶叫したい気分なのだ。
あまりにも不可思議な状況に、俺の頭はおかしくなったのだろうか。
いや。
既に俺は、半ば気が狂っていたのかもしれない。
無、無、無。
ここには何も無い。
否。
ある。砂がある。石もある。
地面がある。天地がある。
どれくらい経った? 数分? 数日? 数億年?
今は何時だ? 何時ってなんだ?
俺は歩けているのか? 座っているよ。
足は動いているか? 飛んでいるよ。
俺は正気か? 何が正気? 何が? 何だ?
「のう、そこな強者よ」
「……?」
突如聞こえた俺以外の声。
それはやけにはっきりと耳朶に入り込み、鼓膜を震わせた。
外部から受けた久方ぶりの身体反応に、俺は足を止める。
つまり、俺は今の今まで歩いていたのだ。
彼方へ連れ去られた魂が、あるべき肉体に回帰したような感覚。
まるで生まれ変わった気分である。
しかし、肝心の声を放った主がいない。
もしやさっきの声は俺が無意識に望んだ幻聴だろうか。
「ははは……疲れてるのかな」
「これこれ、己の耳を疑うもんじゃないぞい」
「!?」
間違いない。
完全に聞こえる。
きょろきょろと周囲を見回すが誰も────
「ほっ、強者よ。まだ心の眼が開いておらぬようだぞい」
「ど、どこですか!」
「ふむ。強者ではあるが、その使い方がわかっておらぬようだぞい。どうれ、開眼させてやろうかのう」
「イ゛ッ!?」
こめかみに電流が走る。
だが、特に何かが変化した様子はない。
視界も普通、見える物も普通であった。
何のいたずらだコンニャロウ!
と思った時。
「儂はここだぞい」
「!!」
いた!
本当にいた!
足元にあるちょっと大きめの石の上に、ちょこんと座った着物姿の老人が!!
俺はしゃがみ込んでマジマジと見つめ。
「ちっちゃ!」
「これ! 見た目だけで判断するでないぞい!」
「あ、すみません……(でも手の平サイズのお爺ちゃんだよ……?)」
「ほっ、素直に謝するのは見上げたものぞい」
「あの、御老人」
「むん?」
「このようなところでいかがなされました?」
「ふむん。その前に強者の名を明かしてくれぬかのう」
「申し遅れました。俺はリヒトハルトです」
「ほっ、良き名だぞい」
「……そうですか?」
「ほっほっ、リヒト坊は己の名を気に入らぬようだのう」
「リ、リヒト坊……」
俺をそんな風に呼ぶ者は今までいなかっ……いや、いた。それは俺の祖父だ。
だが待て。俺の記憶はあてにならん。
両親でさえ実在していたのかも不確かなのだ。
「それで、御老人はこのような場所で何を?」
「ほっ、別段なにもしておらんぞい」
「は?」
「むん。強いて言うなら別の強者を見張っている、と言ったところだぞい。こんな姿なのは力のほとんどをそれに向けているからだぞい」
「は、はぁ、なるほどー……」
うむ。さっぱりわからん。わからんので適当に合わせておこう。
だが俺としては助かった。
あのまま彷徨っていれば、間違いなく頭がいかれていただろう。
「……御老人のお陰で助かりました。なんだか気が狂いそうでしたので……ところでここは一体なんなんです……?」
「ほっ、儂にもわからんぞい」
「そうですか……困ったなぁ。みんな待ってるだろうし……」
「みんなとは、女子のことだのう? リヒト坊からはほのかな女子の香りが……くんかくんか……むっ!? むむむむむん!!?」
いきなりスックと立ち上がって、クワッと目を見開く小さな小さな御老人。
「リヒト坊よ!」
「は、はいっ!?」
「リヒト坊からは宵闇の匂いがするぞい! それも濃厚な恋慕の香りがのう!」
「えぇっ!? あ、あぁ、宵闇ちゃんとはお友達と言うか……(恋慕の香りってなに!?)」
「ほっ! それは良い!」
「な、何がです?」
「儂ゃ、宵闇の父親だぞい」
「はぁ、そうでしたか……って、えぇぇぇ!?」




