未知の獣とお爺さん
公爵領への帰還を目指す旅2日目。
この日、俺たちの置かれた状況が途轍もないものであったことを思い知る────
明け方もそう遠くはない闇の中。
パチパチと薪が爆ぜる音と焚火の灯りだけが、この世界の全てに思えた。
夜半過ぎに一度リーシャと交代し、仮眠をとったあと再び俺が火の番をしている。
その直後くらいだろうか、獣かモンスターの気配を感じたのは。
俺は娘たちとリーシャを抱き寄せ、念のため我々を中心とする魔導障壁を展開した。
敵との距離は焚火を挟んで左前方約80メートル。
この程度なら【走査】を使わずとも察知できる。
どうやら相手は単体。
それ自体はちっともおかしなことじゃない。
大型の獣には単独行動を好むものも多いからだ。
しかし、そいつは俺の気配を感じ取って尚、こちらへとゆっくり向かってきているのだ。
俺は魔導力を励起し、それを怒気の念に変えてそいつに放出した。
威嚇である。
ピタリと動きを止めるそいつの気配。
だが逡巡も一瞬のこと、再び移動を開始した。
まずいな……
俺の念を受けて怯えないとは……
普通の獣なら一目散に逃げだすか服従するかなんだが。
王太后シャロンティーヌさまの愛犬ペロみたいにね。
せっかくスヤスヤ眠っている娘たちも、いきなりドンパチ始めたら絶対起きちゃうよなぁ。
多分今日もたくさん歩いてもらうことになるし、ゆっくり寝かせておきたいんだよ。
だから消え失せてくれないかな?
そんな俺の願いはちっとも通じず、そいつは最早何の迷いもなく近付いてきた。
俺は諦めて戦闘を開始すべく立ち上がろうとした時、焚火の灯りに照らされたそいつの姿を目の当たりにする。
「……な、なんだこいつは……?」
一言で言えば巨大な猫科の獣だ。
だがそれはあくまでもパッと見の話であって、細部は違う。
一番おかしいのはその尻尾。
鎌首をもたげて俺を睨みつける爬虫類特有の眼。
蛇だ。
そして頭以外の手足や胴体も猫とは思えない。
強いて言えば他の動物のようにも見える。
「キマイラか……?」
真っ先に思いついたのが合成獣キマイラの系統だ。
しかし脳内で【モンスター知識】スキルを使い、キマイラの項目を検索しても、こいつに該当するモンスターはヒットしなかった。
まさか未知のモンスター?
ないとは言い切れないだろうけど、こんな普通の山にいるのはおかしいよな。
大抵、未発見のモンスターってのは人が踏み入れないような場所にいるもんだしさ。
育ちすぎた猫のようなその獣は、これまた猫のような瞳で、襲い掛かるでもなく俺をジッと見つめている。
何故か俺は、その目に奥深い理知的なものを感じた。
だがモンスターはモンスター。
やられる前にこちらから攻撃を仕掛けるべきか。
火球のひとつもぶつけてやれば逃げ帰るかもしれない。
そんな俺の戸惑いを鼻で笑うように吐息を漏らすと、そいつはクルリと背を見せ────
なんと空を駆けあがって行ったのだ!
「えぇえ!? あれじゃリルみたいだよ!?」
俺は城に残してきた伝説の魔獣フェンリルのリルを連想していた。
彼女も空中を駆けまわる能力を持っているのだ。
怪物は俺を嘲笑うかの如く、何度か左右にステップを踏んで闇夜へと消えていった。
最後に『ヒョー、ヒョー』と奇妙な鳴き声を残して。
まるでイタズラ精霊に化かされたような気分だ。
「むにゃ……? どうしたのパパ……」
「……お父さんなにかあったの……?」
「……うにゅ~?」
「あぁ、ごめんごめん。なんでもないんだ。まだ早いからもう少しおやすみ」
「ふぁーい」
「うん、わかった」
「ふにゅ~……」
むくりと起き上がった娘たちが、俺の言葉でコテンと横たわる。
素直な子たちであった。
「……リヒトさん」
「おわっ? な、なんだリーシャも起きちゃったのかい?」
「ええ。妙な気配がしましたから」
横になったままボソボソとリーシャが言う。
さすがは【紅の剣姫】。
敏感に感じ取っていたようだ。
「リヒトさんの後ろから薄目で見てましたけど、なんなんですあれ?」
「さぁ……? 俺にもさっぱりだよ。【モンスター知識】の中にも記載されてなかったし……あぁ! しまった! 【解析】を使えばよかったんだ!」
今頃思い出してどうするこのポンコツ頭め、と己を罵った時、リーシャが笑い出した。
「ふふっ。リヒトさんらしいですね。だけどそんなところも大好きです」
「間抜けなところがかい?」
「違いますよ。そう言うのは『愛嬌』って言うんです」
「ははは、ものは言いようだね。さ、夜明けにはまだ時間もあるから……」
「おやすみのキスをしてくれたら大人しく寝ますよ」
「マリーと発想が一緒じゃないか。仕方のない子だね」
「えへへへ……んっ………………おやすみなさい」
「ああ、おやすみ」
そんなことがあったものの、その後は何事もなく無事に夜明けを迎えた。
ふあぁ~……
良かった良かった。
これでひとまず安心だね。
よっこらせっと。
特に痛む肩と腰を重点的に伸ばしながら立ち上がると、寝ぼけ眼をこすりながらマリーが上半身を起こした。
「むにゅ……パパ、おしっこ……」
「はいはい。立てるかい?」
「……だっこー」
「わかったよ。甘えん坊のお姫さま」
俺はヒョイと小さな身体を抱えて近くの繁みまで連れて行く。
マリーが用を足している間に周囲を見渡し、昨晩当たりを付けておいた場所を確認しておいた。
「パパおわったよー」
「ああ。なぁマリー、まだ眠いかい?」
「ううん、へいき。あ、パパおはようー」
「ははは、おはようマリー。じゃあちょっと付き合ってくれるかな? 昨日水のありそうなところを見つけたんだ」
「うん!」
多少足場が悪いため、再度マリーを抱える。
「パパーおはようのチュー」
「はいはい」
繁みの向こう、ちょっとした土手を越えると、その下にはチョロチョロと小川が流れていた。
見た感じ、山からの湧き水らしい。
俺は腰をかがめて右手に掬ってみる。
透明度。濁りなし。
臭い。無臭。
味…………舌に刺激なし。
ってか、美味い!
五臓六腑に染み渡るようだね!
……言い回しが年寄り臭いけど。
「パパわたしもー」
「ああ、ちょっと待ってくれよ」
お茶の入っていた水筒をチャパチャパ洗い、それに水を汲んでマリーに渡した。
コクンコクンとさも美味しそうに飲んでる。
うん、これなら大丈夫。
みんなも起こして連れてこよう。
きっと喜ぶぞー。
なんて浮かれたまま戻ろうとした時だった。
「あんれまぁ、おめさまがた。こったらどこでなにしてんだべ? おやまぁ、かわいらしい嬢ちゃんだごど」
「へっ?」
「こっちだ、こっちぃ」
見れば小川の向こうに斧を担いだ頬かむりのお爺さんが立っているではないか。
しかもあまり見かけないような衣服を身に纏っていた。
だが、彼の人の良さそうな笑顔に俺もつい挨拶してしまう。
「おはようございます。あなたこそこんな山奥でなにを?」
「おらはなぁ、こん山で炭焼きしとるだべ」
「ああ、そうだったんですか。えーと、俺たちはその、道に迷ってしまいまして」
「へぇ! そらぁ随分器用に道を間違えだもんだべなぁ!」
カンラカンラと大笑いするお爺さん。
それにしても訛りがひどい。
俺たちはどれほどの田舎へ飛ばされたのだろうか。
「お爺さんはこの山で暮らしてるんですか?」
「あぁ、秋口から春までだげんとなぁ。あっちに炭焼き小屋があるんだべ」
「そうですか。いやぁ、この辺は奇妙な獣が出るんですね。お爺さんは大丈夫でしたか?」
「獣けぇ?」
「ええ。頭は猫みたいで、尻尾が蛇の……」
「パパそんなのとたたかったの!? ずるい!」
「い、いや、闘ってはいないんだ。すぐ逃げて行っちゃったからね」
「あぁ、そりゃあ間違いなぐ鵺だべ」
「鵺、ですか?」
「んだ。ここら辺の山のヌシだべよ。めちゃくちゃ賢いヤヅでなぁ。ところでおめさまがだ、どっからきなすっただ? おらぁ、金色の髪で青い目の人なんてのを見だのは初めでだよぉ。外人さんだべか」
「……はい?」
金髪碧眼など中央大陸ではそれほど珍しいものでもないはずだが。
……ん?
中央大陸では?
鵺と言う見たこともない魔獣。
お爺さんの見慣れない衣服。
そこから導き出される答えは────
俺は震えそうになる声を押し隠してお爺さんに問う。
「あの……お爺さん、すみませんがここは中央大陸のどのあたりですか……?」
「はぁん? 中央大陸? ハッハッハ、なぁに言っとるんだべか。こごは東方大陸だべよ」




