親のエゴ
徒労。
骨折り損のくたびれ儲け。
無駄足。
ネガティブな単語が脳内を満たす。
それに伴い、自然と足取りも重くなるのがなんとも不甲斐なかった。
己と娘の記憶を探るため、勢い込んでこのアトスの街まで来ただけに、何ひとつ手掛かりがないとなればやはり精神的に来るものがある。
これで微かに抱いていた淡い期待も見事に打ち砕かれてしまったのだから、その失望も倍増しになったとて仕方がなかろう。
困ったのは、どうやらそれが俺の無精髭まみれな湿気た面にも出ているらしいことだ。
「パパ……げんきだして……わたしにできることならなんでもするから……げんきのでるおまじないする? ゆうきがでるおうたもうたえるよ」
マリーが俺の右手をギュッと握る。
俺と同じ色の大きな青い瞳が気遣うように見上げていた。
眉が少し下がり、悲しげにも儚げにも見える。
俺とは違い、過去の記憶全てを失ったと思われる我が愛娘マリー。
彼女には俺と出会ってからの一年間分しか思い出が残されていないのだ。
だが、言葉まで失っていないのは不幸中の幸いと言わざるを得まい。
王立学術院においても割と古くから記憶喪失についての研究はなされているが、未だ解明されていない部分が多いようだ。
俺が王立図書館で調べた文献によれば重篤な症状の場合、大の大人が記憶どころか知識も経験も全て失い、生まれたての赤子同然になった最悪のケースもあると言う。
これを比較対象とするのは少々憚られるが、マリーは言語も一般的な常識も失わずに済んだ。
そして、ほんのわずかな母親の面影も。
しかしそれは、俺と比べれば遥かに辛いことなのではなかろうか。
俺には一応、過去の記憶と呼べるものがある。
幼少時代の事柄が齟齬をきたしているだけで、アトスの街に住み着いてからこれまでの日々は確固たる事実として友人、知人の中にも残されているのだ。
そんなマリーが自分よりも俺の心配をしている。
いや、させてしまっている。
この小さな頭でなんとか俺を元気付けようと、懸命に悩ませた末に出たのが先程の言葉なのであろう。
それに気付いた時、俺の中で落胆や不甲斐なき気持ちよりも、娘への愛情と父性が一気に燃え上がった。
……俺の娘は自分よりも人を思いやることができる素晴らしい子じゃないか……!
これしきのことでヘコんでる場合じゃないぞ!
バカだけど親父なんだろテメェは!
子供に変な気ィ使わせんなよ情けねぇ!
……いかん、口調がベンみたいに汚くなってる。
でも俺がどうしようもないバカなのは確かだよね。
心で己を罵りつつ俺はマリーの前にしゃがみ込むと、そのあたたかな身体を優しくもしっかりと抱きしめた。
彼女も俺の首に手を回し、まるで慈しむように頬をすり寄せてくる。
全ての民草に慈愛を与えたと言う、彼の伝説に謳われし聖女の如く────
「なに言ってんだいマリー。きみがそばにいるだけで俺は元気になれるんだよ」
「ほんと? わたし、パパのちからになれてるの?」
「ああ勿論さ! だからそんなに心配そうな顔をしないでおくれ。俺に力をくれるのはいつだってマリー……ぐほぉっ!」
「私もリヒトさんに元気をあげたいです!」
ズドーンと容赦の欠片もなく、しかも全力で俺の背中にしがみついたのはリーシャであった。
『紅の剣姫』の二つ名を持つリーシャだけに、なかなかの威力と衝撃を持つナイスタックル(?)だ。
この程度ではビクともせぬおかしな身体ではあるが、背後からの不意打ちは流石に息が詰まる。
つっても、一瞬だよ? 一瞬。
「げっほげっほ……あぁ、きみもだよリーシャ……げほっ……いつもきみからエネルギーをわけてもらってる。ありがとう」
「えへへへ。それが本当なら嬉しいです」
そう言いながらグリグリと俺の背中に顔を押し付けるリーシャ。
あまりの勢いに、鼻が潰れてしまうのではないかと謎の不安に駆られた。
ハッ!?
ちょっと待って。
ここがどこなのかを忘れてないかい俺?
気付けば何事かと通行人たちが立ち止まり、遠巻きに我々を眺めているではないか。
『なぁにあれ?』
『まさか痴話喧嘩?』
『おっさんのくせに羨ましいぞ……』
『あら? あの人どこかで見たことない?』
『おい、あいつって確か前に子豚亭の……』
などと言ったヒソヒソ声も聞こえてくる始末。
いやああああ!
これは痴話喧嘩じゃない!
それに身バレはまずいよ!
アトスの街はただでさえ俺を見知ったヤツも多いのに!
そんで公爵だと知られた日には……!
いやああああ!
マリーを胸に抱いたまま、そしてリーシャを背中に張り付けたまま、俺はガバッと立ち上がると小走りでその場を後にした。
俺の小走りはそんじょそこらの速度ではなく、まるで羞恥心に後押しされるように足が高速で前後し、衆人の眼前からあっと言う間に消え失せたのである。
この時、俺は過去最高のスピードをマークしていたと後に知る。
嘘です。
昔馴染みの店や通りを避け、普段はあまり足を向けなかった中央区西部にて少し早めの昼食を摂ることにした。
とは言ってもまだ午前中ゆえ、ろくに開いている飲食店がない。
なので自然と露店や軽食の店に目が行く。
朝が早い上、なにかと忙しい市場の従業員向けなだけあって、立ったままや仕事をしながらでも片手で食べられるものが多い。
とりどりの食べ物が並ぶ中から俺とマリーはホットドッグ、リーシャはサンドイッチをチョイスしていた。
ちなみに俺はチリソース味、マリーはマスタード抜きのシンプルなケチャップ味だ。
ベンチに腰掛け、足をブラブラさせながら夢中でホットドッグを頬張るマリーのほっぺたについたケチャップを拭ってやる。
マリーは聡いようで、まだまだ子供なのだと実感できるのがこういった時だ。
俺にはそれが堪らなく好きな時間でもあった。
そんなものは親の身勝手なエゴであるとわかっていながら、いつまでも小さなマリーのままでいて欲しいと願ってしまうほどに。
そんな光景を微笑ましく見守るリーシャ。
その眼差しは既にマリーの母親と言ってもいいくらい優しいものだった。
俺たちはしばらくそこで談笑し、頃合いを見計らってから東居住区へと向かう。
それもなるべくゆっくりと歩いてだ。
アキヒメとフランシアは『お昼前くらいに迎えに来て』と言っていたのだが、もしかすればお婆さんの家でご馳走になっているのではないか、と言う可能性も考慮したのである。
なにせお婆さんは二人の育ての親と言うべき存在だ。
そして久しぶりに孫娘と会うなら、せめて一緒に食事でも、と思うのが親心であろう。
二人とも優しい子だ。
それ故、お婆さんに引き留められたのなら決して断れまい。
ややもすると未だ話に花を咲かせている最中かもしれぬ。
その時はどこかで時間を潰そう。
などと、気を使った俺の意に反し、アキヒメとフランシアはお婆さんの家の前で佇んでいた。
むしろ俺たちが二人に気を使われたのか、といたたまれない気持ちになったが、それは早とちりだったようで、小さな椅子に座ったこれまた小さなお婆さんと楽しそうにおしゃべりしていたのだ。
あまりにも楽しげなので声をかけるべきか逡巡した時、二人のほうが俺たちに気付いて手を振った。
「お父さーん!」
「パパー! こっちこっちー!」
ペコリと白髪のお団子頭を下げるお婆さんに対し、俺も深々と会釈を返すのであった。




