魔獣の機転
「いるんだろう!? 出てこいコソ泥めが! 吊るし首にしてくれるわ!」
耳障りなほどのキンキン声が容赦なく鼓膜を揺さぶる。
俺だけでなく懐のリルまでもが前脚で耳を塞ぐほどの悪声であった。
それよりやばいやばい!
どうするよこの状況!
そもそもなんで気付かれたんだ!
自室でギシギシアンアンしてたんじゃないのか!?
おっと、娘たちにはとても聞かせられない猥雑な言いかただったな。
自重、自重。
ともかくどうにかして脱出しないと!
顔を見るまでもなく、その小汚い声だけで持ち主がいかなるカス野郎か丸わかりである。
青びょうたんのアホ宰相ヨアヒムがズカズカと己の執務室を歩き回っていたのだ。
普段は開いているのか閉じているのかもわからぬ糸目をカッと見開き、血走った眼をギョロリギョロリとせわしなく動かしている。
どうやら下手人探しで、まさしく血眼であった。
だが俺の姿を捉えているはずの目は、あらぬ方向に逸らされていく。
一応【擬態】のスキルは効果を発揮しているらしい。
ヤツの濁り切った瞳には俺と言う存在が景色の一部としか映らないのだ。
よしよし。
そっと移動してこっそり逃げよう。
証拠品を回収した後でよかったよ。
「くそっ! どこだ!? ……むぅ、おかしいな……入口の魔導センサーに反応があったのは確かなのだが……」
えぇ!?
そんなモンが仕掛けられていたのか!
どうりで鍵がかかっていなかったわけだよ……
宰相ともなると便利なアイテムを持ってるんだねぇ。
しかしまずいことになったな。
引き出しも金庫の蓋も元に戻してはあるが、中身を改められたらすぐに侵入者がいるとバレちゃうよね。
だけど、ああも不規則に動き回られると逃げようにもぶつかってしまう可能性が高い。
俺は今、机の下に潜んでいるわけだし、ここで飛ぶにはスペースが足りなさすぎる。
しかも、飛べば飛んだで空気も動くからなぁ。
敏感な奴なら一発でバレるし……
ここは大人しくヤツが去るのを待つべきかもしれない。
捜索者と言うのは、諦めはせずとも移動はするものだから。
俺がそう決断しかけた時。
「……む? この書類はこの位置だったか……? 数センチほどズレているような……」
嘘だろ!?
あんなに散らばった書類の位置を全部覚えてんの!?
確かに俺も少し触ったけどさぁ……ある意味すげぇ野郎だな!
「くそぉ! やはり侵入者がいるのだな!? 絶対に見つけてやる!」
ゲシゲシと床を蹴りつけるヨアヒム。
まるで子供の地団駄だ。
ヨアヒムの錯乱具合から見て、俺の予感は正しかったと判断できる。
この鞄に収められた証拠品は、ヤツにとって絶対に露見させてはならぬものなのだ。
これらを持ち帰ることさえできたならば、ヨアヒムを失脚させることも不可能ではあるまい。
「いや、落ち着くんだ天才宰相ヒムちゃんよ……ママも言っていただろう? 焦るなんとやらは貰いが少ないって……そうだよねママ……ボクは一流の貴族なんだ……!」
プププッ。
こいつ、自分のことを『ヒムちゃん』って呼んでるのか?
その顔で……?
ププププ……いかんいかん、落ち着け。
噴き出したりしたら1秒でバレるぞ……
しかし、こいつの年齢で母親を『ママ』と呼ぶのもすごいよな……
出はエリート貴族っぽいし、よっぽど過保護に育てられたのかもね。
ヒムちゃんのママ。
貴女の教育方針は間違っていたようですよ、と言ってやりたいもんだ。
「どこだ! どこなんだ!? くそぉ! ハッ!? そうだ、盗られたものがないか確認しておかねば!」
くっ!
アホのくせにそんなことには目端が利くのかよ!
やばい!
いよいよもってやばい!
証拠品がなくなっているのに気付いたら、こいつは魔導での探索も厭わないだろう。
いま魔導結界を張られるわけにはいかない。
こうなったら強行突破!
そう考えた時だった。
「キャン!!」
懐からリルが突然飛び出し、部屋の隅まで走りながら大きく鳴いたのである。
咄嗟に捕まえようとした俺の右手が虚しく宙を掴む。
突如として現れたリルに、ギョッとした顔になるヨアヒム。
俺も激しく動転した。
「なっ、なんだこの犬は!? どこから入ってきた!? もしや貴様が侵入者か! シッシッ! 汚らしい犬め! あっちへ行け!」
手を振って追い払おうとするヨアヒム。
全く意に介することなく、寝転がって毛づくろいを始めたリル。
その姿は、まるでヨアヒムをわざと挑発しているようであった。
「き、貴様ぁ……! ボクは犬が昔から大嫌いなんだ! どの犬も全然ボクに懐こうとしない! まさか王女め……それを知って犬を飼ったとでも言うのか……!?」
青白い顔に朱が差し、勝手な勘違いで激昂するヨアヒム。
こんな男が一国の宰相だと言うのだから恐れ入る。
きっと想像もつかないほどの汚い手を使って宰相の地位を手に入れたのだろう。
どこまでもいけ好かない男であった。
今すぐ出て行ってブン殴ってやりたいくらいだが、グッと堪える。
こいつを暴くのは公の場でなければならないのだ。
「そこを動くなよバカ犬が……ひっ捕らえてミンチにしてくれるわ!」
逃げろリルと叫び出しそうになったが、なんとか自分の口を塞いで押しとどめた。
あの賢い魔獣がなんの考えも無しに飛び出したとは思えない。
俺を慮っての行動だったのだろう。
そう思うと、リルが献身的すぎて涙が滲んでくる。
「キュン!」
「チッ! こら! 待てェ!」
すんでのところで逃げるリル。
忌々しげに下唇を噛みしめるヨアヒム。
ようやく俺にもリルの意図と行動の意味が理解できた。
リルは『パパ、今のうちに!』と言って廊下へ駆け出したのだ。
ヨアヒムを引きつけて誘導し、俺が逃げる隙を作るために。
犬が迷い込んだだけなら、ヤツもそれほど問題視することはあるまい。
証拠品が失われたことにもしばらくは気付かないだろう。
色々な意味で時間が稼げるわけだ。
これは完全にリルのファインプレーと言ってもいい。
あとで思い切り撫でまくって感謝を伝えようではないか。
そして俺とリルには重要な共通点がある。
どちらも空を飛べるのだ。
俺は机の下から脱け出し、そっと廊下へ出た。
右手の奥からドタドタバタバタとみっともない足音が聞こえる。
どうやらヨアヒムはあまり運動神経がよろしくないようだ。
リルはそんなヨアヒムを右へ左へ翻弄しつつ駆けていく。
そして俺が思った通り、リルは突き当りの窓に飛びつき、器用に前脚で閂を外したのである。
「ちょっと待てェ! どんだけ賢い犬なんだ貴様は!? 本当に犬か!?」
驚き慌てるヨアヒムの甲高い声。
俺はその間に彼らとは反対側へ廊下を進み、リルと同じように窓の閂を開ける。
「おい! 犬! 貴様なにをする気…………あぁぁぁ! 落っこちたぁぁぁ! ……フフ……フヒャハハ……ヒャーハハハハ! バカな犬だ! 死を選ぶとは! ……いや、天才犬だ! 死に場所がここだと自ら悟り、命を絶ったのだからな! ヒャッハハハハ!」
不愉快極まるけたたましい笑い声。
かなりの距離があるはずなのに、うるさいことこの上ない。
俺は高笑いバカを放置し、窓枠に足をかけて一気に宙へ舞った。
冷たい夜風が頬を打ち、今更ながら全身が不快な汗にまみれていたことを知る。
だが、それすらも解放感と共に霧散していくのであった。
こうして俺の潜入作戦は成功を収めたのである。
その後、俺の匂いを嗅ぎつけたリルと空中で華麗に合流したことは言うまでもない。




