三日目②
俺たちは相合い傘をしながら帰路をまだ歩いていた。
視線を上げ空を覆っている雲の様子を見てみたが、果てまで鉛色の雲が続いていた。どうやら雨は当分止みそうにない。
足元に広がる水たまりを二人で息を合わせて避け、俺だけが避けた先でもう一つの水たまりに足を突っ込んでしまう。
しまった。とこちらに避けたことを後悔しながら水たまりから足を抜くがときすでに遅し。靴だけではない。ズボンの裾も靴の中もずぶ濡れになってしまった。
歩くたびに濡れた感触が足の裏を通じて、気色悪さを俺に訴えていた。
さて、これからどうしたものかと頭を悩ませていた。
こうも濡れてしまっては遠出も出来ない。もっとも、この天気だ。こんな日に限って遠出はしないだろう。
しかし、雨が降ってもまったく涼しくならない。いたずらに湿度を上げてしまうだけだ。蒸されているようでうんざりする。
ただでさえ暑いというのに。
雨なのか汗なのか分からない額についた雫を拭うと、彼女の首筋に滴る雫に目が止まる。
雫は鎖骨に降りて行き、服の中に消えていく。自然と目で追っていて彼女が周りより色っぽく見える理由が分かった気がした。
だが俺には都合のよくないことも同時に発生した。
「さっきから私の方をじっと見ているけど……顔に何かついている?」
彼女は真っ直ぐ前を向いていたが、自分に向けられている釘のように刺さる視線について言及してきた。
我ながら見過ぎてしまった。
ここでいつもなら、必死に誤魔化していたことだろう。だがどうしてだろう。少し、らしくないと思いつつも意地悪をしたくなった。
君の色に目を奪われて、目が離せなかったのだ。と何食わぬ顔で正直にそう言ったとしても、彼女の心をどれだけ揺さぶることができるだろう。
いつも困らせてくれるから、たまには美緒にも困ってもらおう。
恥ずかしさは残っているのだが、彼女には聞こえない程度に咳払いをして口を開く。
「美緒の――」
言いかけたときに、雷雲が立ち込め雷が鳴り響いて俺の細い声を掻き消してしまった。
「いやね……雷かしら。どこかに落ちなきゃいいけど。それで、私のなんだって?」
「いっいや! なっ、なんでもない」
出鼻を挫かれて、あんな気障なセリフが言えるわけないだろう。
そうだ、そもそも向いていないのだ。人をからかうだとか冗談を言うとか。どんなに頑張っても彼女に何倍にも返されて、最終的に困るのは俺なのに。
分かっているはずなのに。言っても無駄だって分かっているのに。
俺の中で何かがおかしくなり始めているのは確かだ。
このままだと口を滑らせて余計な事を言いかねない。それだけは絶対に避けなければならない。
さっきも美緒のことを不用意に見過ぎてしまったり、柄にもないセリフを言いそうになったり。一週間前の俺からすれば有り得ないことだ。
美緒と仲良くなってから、気が緩んでしまっているのか。それもあるのだろう。それとは他にもう一つ、理由があるのだろうが、それが何なのか自分では見つけられない。
奥底にしまってある誰にも打ち明けることのない想いが、ここにきて溢れてきているのかもしれない。
自分の力で押さえつけるのはもう無理なのか。
我慢してくれ。頼むから出て来るな。
そうじゃないと、俺はいつまでたっても彼女と別れられないじゃないか。
どうして今になってこんなに苦しんだ。
日を追うごとに、日が重なっていって別れが現実的になっていくのが、怖いのか。
今まで散々わがままを言ってきた俺だけど、言っていいことと、悪いことの分別のつくぐらい大人になったつもりだ。
美緒のことが好きだ。美緒と離れたくない。
言ってしまえば、きっと彼女の決心を鈍らせてしまう。
結果として美緒を悲しませてしまうのなら、胸の中に沈んでいけ。どこまでも深く。二度と這い上がってこれないぐらいに。
俺はまた自分の気持ちを見て見ぬふりをした。
横断歩道の信号機が赤に変わり、俺たちは止まる。
多感な中学生や無邪気な小学生が相合い傘をしている俺たちのことを見て、ひそひそと話しているところが止まっているせいかよく目につく。
同級生に見られなきゃいいが。いや、この中に兄弟や姉妹がいればそこから伝わってしまうのか。
自意識過剰だな。誰も俺のことなんか見ちゃいない。
クラスのみんなも誰も俺のことを気に留めてなんかいない。そこらの草と同じだ。
草は草らしくそよ風に吹かれて、右に左に揺れていたらいい。
信号が変わり、青になると彼女はそうだ。と何かを思いついたのか大きな声を上げた。
「今日は賢ちゃんの家に行きたいわ! ねぇ良いでしょう?」
「俺の家に? 来るのは別に構わないけど。この前だって来ただろ? 珍しいものは何も置いてないよ」
俺の家は二階建てのごくごく普通の一般家庭だ。彼女の家とはさほど変わらない。強いて言うなら彼女の家には庭があるくらいだ。
「家に行くのはそうだけど。賢ちゃんの部屋には小学生以来入っていないのよね」
「まさか、俺の部屋に入るつもり?」
「ダメ?」
ダメじゃない。じゃないんだけど。でも女性をこの歳になってから招くというのは抵抗がある。母親もいるし、部屋も汚い。
いや、先日部屋は掃除したばかりだから綺麗だった。
そんなことはどうでもいい。招いたとしても、どこに座らせるものか。床に座らせるのもどうかと思うし、ベッドに座らせるなんてもってのほかだ。
勉強机の椅子に座ってもらうしかない。
一番の弊害は親がいることだ。
この時間帯に帰ると母は近所のスーパーに夕食を作る材料を買いに行っているか、もうすでに夕食を作り始めているのかのどっちかだ。
母は未だに美緒を見かけると食事に誘う。
美緒も部活があったりしたから、ここ数年はまったくなかった。
だけど今回は状況も違う。
どこが厄介なのかというと、俺が美緒と連れて家に帰ってきたということだ。
父が帰ってきたら酒の肴にされる。
「どうしても俺の家じゃなきゃダメなのか?」
「私の家に来たいの?」
「そうじゃない。たとえば、いつもみたいにどこかに寄り道して帰るとかさ。わざわざ俺の部屋来る必要はないって」
「靴が濡れているのに?」
そうだった。すっかり忘れていた。
俺の靴はこの上なく濡れている。このまま家に帰りたいと思っている。寄り道するなんてもってのほかだ。
もしかして、俺が濡れていることに気を遣って?
美緒はこういうことは一切口に出さない。
何度その優しさに助けられたか。今日も彼女の優しさに甘えるとしよう。
「分かったよ。美緒も濡れているから、ちゃんと着替えてから来てくれよ」
「ええもちろん」
俺たちは一旦それぞれの家に帰った。
隣同士なので彼女も着替えてこちらに来るのにも時間はかからないだろう。湿ってしまった髪を触りながら、母親の所在を確認した。
濡れている靴下を脱ぎ、洗濯機に入れながら家の中を見渡すがどこにも母の姿はない。
汗で背中と制服がくっついていて気持ち悪い。シャワーでも浴びたいが、そんなことをすれば彼女を玄関で待たせかねない。
制服を脱ぎ、夏服なので洗濯機に入れる。
干されていた白いシャツを手に取り乾いているようなのでそのまま着ることにした。
部屋着は幸い乾いているようだ。一通り着替え、居間に行くとテーブルの上に置手紙があった。
手に取ると、母の字で「スーパーに行ってきます」とだけ書かれていた。
夕食が気になるところだが、美緒が来るので豪勢に作ってくれるはずだ。
呼び鈴が鳴った。美緒がもう来たのだ。
俺は手紙をテーブルの上に置き、玄関に向かう。部屋に戻って整理をしたかったのだが、こんなに彼女が早く来るなんて思わなかった。
放課後、俺を待たせてしまった罪滅ぼしのつもりなのだろうか。
玄関に行き、扉を開ける。
「賢ちゃん、十分ぶりね。元気にしてた?」
「……」
目を疑った。俺の前にいるのは美緒で間違いない。でもその姿は学校で見た彼女とも昔の彼女でもなかった。
間違いなく外出用の服装だったのだ。
もっと楽な格好でも良かったのだが。おかげでこっちの服装が雑で恥ずかしくなってくる。
「黙っていてもしょうがないわよ。元気なの? そうじゃないの?」
「あっ、ああ。元気だったよ」
「ならよろしい。男の子なんだからもうちょっとハキハキ話したほうがかっこいいわよ」
彼女は笑った。着た服に負けないぐらい可愛く、綺麗に。
彼女が服を引き立てているのか、それとも服が彼女を引き立てているのか。あるいはその両方か。
まだ降っている雨粒の一つ一つが彼女の姿を克明に写し、万華鏡のようにきらきらと美しく煌めいてみせる。時間が止まったようだった。
無論ここで止まってくれても良かった。
しかし、時間は早くしろと俺の背中を押してくる。そう急かさないでくれ。必ず来るものなら早いより、遅い方が良い。
なぁ、そうだろう? 美緒。
「入ってくれ。何もないところだけど」
俺は彼女を家に招き入れ、先に部屋に行っていてくれと言った。
「あっ、それと椅子に座って待っててくれよ。どこも漁るんじゃないぞ」
「ふーん、そう言うってことはベッドの下に点数が悪かったテストとか、それともエッチな本でも隠しているの?」
「いや、残念だけどそこを探しても何も出てこないから」
「あることは否定しないんだ」
「そんなもの無いから」
「男の子だもん、しょうがないよ」
「だから無いって」
彼女に先に二階に上がらせて、俺は冷蔵庫を開け飲み物を探していた。牛乳と麦茶しかない。
ここは無難に麦茶でいいだろう。コップを二つ持って行って二階に上がる。
言った通りやましいものは置いてない。
俺が美緒に釘を刺して言ったのは、ただ部屋を漁られたくないからだ。ここに男女の差なんてない。誰だって無断に部屋を漁られるのは嫌だろう。
注意されつつも俺の部屋の何かを探している美緒の姿が容易に想像できた。そうしているだろうと予想しながら、部屋のドアを開ける。
彼女は予想外のことをしていた。
部屋を一切漁りもせず、また椅子にも座っていない。
美緒は俺のベッドの上で横になっていた。
こちらから下着が見えないのは彼女のなりの配慮だろうか。そんな配慮をしてくれるのなら、ベッドに横にならないでくれよ。
「ここの天井、こんなシミあったっけ?」
美緒の視線の先のシミを見つめる。
ああ、あのシミか。眠れないとき、あれが顔に見えて不気味さに震えた夜もあった。あれを見ながら一日の後悔をした。楽しい記憶を思い返したりもした。
そうか、あのシミが出来たのは小学六年生になった頃だったな。
美緒が知らないのは当然か。
「出来たんだよ。小学六年生のときにね」
「そっか。それよりこのシミ、笑っているように見えない?」
俺は久し振りにシミを見つめる。
本当だ。確かに笑っているように見える。俺が見ていたときには気色悪い薄ら笑いを浮かべていると思っていたのに。今は、良い笑顔しているじゃないか。
「私の知らない間に、私の知らない賢ちゃんがいたんだね」
美緒は身体を起こして、部屋を見渡す。
子どもの頃と比べるとほとんどのものが変わってしまっている。机の隣には本棚なんてなかったし、ベッドの正面にはテレビなんてなかった。
部屋の隅に置かれていたおもちゃ箱も無くなり、そこにはいつも鞄を置いている。
壁にはみんなで撮った写真も飾ってあった。今でこそ母がアルバムに閉じていてくれている。
「そうだ、賢ちゃんに返さないといけない物があったんだ」
彼女は持って来ていたハンドバックから本を取り出す。
「あっ」
そう、ずっと無くしたとばかり思っていた漫画が彼女の手にはあった。忘れていた。美緒が気に入ってしまいどうしても貸してほしいというので、その八巻を貸したのだ。
「これも返すね」
続いて彼女は小説も返した。
彼女が読まなそうな気難しい純文学の小説。俺も好んで読まないが、たまたま読んでいるときに彼女と会って貸してほしいと言われたのだ。
つい、先月のことだった。
「どっちも面白かった?」
俺は美緒に感想を聞いた。
「漫画は面白かったよ。小説の方は、部活が忙しくて読む時間があんまりなくてまだ半分も読めてない」
彼女は申し訳なさそうに笑う。
「実は、賢ちゃんと話したくて小説を貸してなんて言ったの。本当は興味なんてなかったけど」
「え?」
彼女は膝の上で手を組んで、少々俯きながら話し始めた。
「賢ちゃんはいっつも本に夢中で、私が通りかかっても顔も見てくれないし、手も振ってくれない。だからそんなに夢中になるのはどうしてかなって気になってね。それと――っ」
彼女の言葉がまばたきの間だけ途切れた。
「嫉妬……してたのかも。いっつも賢ちゃんを捕まえたままで離してくれないんだもん。おかしいでしょ? 本に嫉妬だなんて。ふふ、思い返すだけで笑っちゃうわ。でもね、そのときは本当にあなたを虜にする本がちょっとだけ羨ましかったし、妬ましかった」
知っていた。美緒がこっちを向いていたことや、手を振ってくれていたことも。それでも周りの目が恥ずかしくて出来なかった。
本の世界に没頭してるフリをしていた。
余計な意地がここまで俺を変な方向に曲がらせたんだ。
もっと早く素直になっていたら。もっと早く彼女の気持ちを察して、手の一つでも振り返してやれればどれだけ良かっただろう。
遅すぎた。何もかも。
「その本、あげるよ」
「え?」
自分でも思いがけない言葉に驚きながらも、俺は続けた。
「だってまだその本の面白さに気づけてないんだろ? せっかく読んだのに勿体ないよ。俺は内容は覚えているからさ。読み終わったら、いつでもいいから感想を聞かせて」
「……うん分かった。大切にする。感想、用意しておかなくちゃね」
いつでもいいから……か。
あれだけ嫌がっていた別れを、俺は静かに受け入れていた。自分でもき間に知らない自分がきっとそうさせたのだ。
しばらくしてから母親が帰ってきて、美緒と一緒に夕食を食べた。食卓にはいつもより一品多く、俺たちが好きなハンバーグが置かれていたのだった。
示し合わせていたかのようだったので、俺たちは顔を見合わせて子どもように驚いた。母の手作りのハンバーグは、心に染みる優しい味がした。
案の定、父には美緒がいることを酒の肴にされて迷惑被ったが今日の食卓は和気藹々と賑やかだった。
美緒が家に帰り、俺は風呂に入ったあとで髪と体を十分に乾かしてからベッドに潜り込む。
彼女の香りが残っているかもしれない枕にいつもの癖で顔を押し当てて、それからシミを見上げた。
おかしい。あのときは笑っていたはずだ。なのに、どうして泣いているように見えるのだろう。
「俺は、明日になるのが怖いんだ。明日になれば美緒がいなくなってるかもしれないって思うと、胸が苦しんだ」
ぽつりと、シミに話しかける。
「でも、どうしてだろう? 初めに比べるとそれほど辛くない。受け入れられたのかな。このまま、慣れていくのかな。それはちょっと……嫌だな」
このシミは人前では泣けない誰かの代わりに泣いているのだろうかと思い、日付が今日から明日に変わるところを目にして溜め息をつく。
布団を顔までかぶり、やがて俺は深い夢の世界へと落ちて行った。