三日目①
雨はあまり、好きじゃなかった。
中から見ている分には情緒があって良いと思う。けれど、一度外に出ると傘を持って行かなければならない。
それが面倒なのだ。
傘を忘れた日なんて最悪だ。ずぶ濡れで帰るか、止むまで待つかの究極の二択を迫られる。
決断力がない俺はどちらにしようか迷っているのが常だが、鞄を傘の代わりにするという考えだけはしなかった。
いや、もちろん思い浮かんだ。だが中に入っている教科書の類が濡れると思うと気が進まない。それに買ったばかりの小説がある。
乾かせばいいだけの話だが、それでも嫌だ。
十分ほど悩んだ結果、鞄を濡れないように抱えながら降りしきる雨の中を走るという、一番愚かな選択肢をよく選ぶ。
風邪をよく引くのは、そういう背景があるわけなのだ。
先日も風邪を引いたばかりで、治りかけが一番危ないと聞く。それに風邪は万病のもととも聞く。これは、玄関で雨が弱くなるまで待つしかないか。
そこそこに窓を雨風が叩く程度には強い。こんな日に傘も持たずに外を出歩くなど馬鹿がやることだ。もっとも、傘を持たずに出てきた馬鹿は俺なのだが。
というわけで本日の天気は、あいにくの雨。
美緒とどこかに行こうと画策していたのだが、この雨だ。どれもこれも台無しになりそうだ。
彼女がいなくなるまであと四日。時間を無駄にしている暇などないのに。
どうしてこういう日に限って雨が降るんだ。詳しい理由は知らんが俺が神様に徹底的に嫌われているか、俺が雨男のどちらかだろう。
後者も前者も選びたくはない。
訂正しよう。今南から北上している台風のせいにすれば、気が少しでも紛れる。
この台風は勢力が強く、通った所を無茶苦茶にして去っていくまさに暴君のような台風なのだ。予報によるとこれからどんどんルートを外れていき、海上で高気圧になっていくらしい。
台風が来ているのだ。天気が荒れるのは仕方がないことだ。大目に見てあげよう。
俺は例の如く美緒とここで待ち合わせているのだが、どうしてかその彼女がまだ来ていない。探しに行くのも心配しずぎだ。
ちなみに、今日天気が荒れていなかったらの予定だがまだ気が早いが海に行こうと思っていた。なにも海水浴をしに行くわけじゃない。
彼女はどうしても海を見たいと言い始めたのだ、昼休みに彼女の野菜多めのお揃いのお弁当を食べながら。
いたるところにピーマンをあしらったおかずに悪戦苦闘しながら、思った以上に苦い顔をしながら彼女の話を聞いてた。
美緒は彼女の母親に入れられたであろう、ブロッコリーとにらめっこしながらだったが。
彼女はブロッコリーを横から見つめてみたり、上から覗いて見たりしていた。案の定、会話に集中できない。
俺は聞いた。どうしてそんなにブロッコリーが嫌いなのかと。彼女の好き嫌いは知っていたが、その理由となると実は何も知らない。
俺がピーマンが嫌いなのは、初めて食べたときに苦くてまともに飲み込めなかったからだ。
あれほど苦い食べ物を平気な顔をして食べられる人の味覚を疑ってしまう。
彼女はにらめっこをやめ、質問に答えた。
嫌いってわけじゃないの。ただ、これ野菜って言うより木じゃない。と真面目な顔をして答えるものだから俺は失笑をしてしまった。
問題は味ではなく、見た目だったとは驚きだ。
彼女は好き嫌いはあまりしない方なので、きっと嫌いなのも相当な理由があるのだろうと思っていたが、どうやら俺の思い過ごしらしい。
そして俺が笑いだすものだから彼女は、笑っている賢ちゃんだって嫌いなものがあるでしょ。と笑い続ける俺をひんやりとした目線で睨む。
まぁ、彼女の言う通りブロッコリーは木に見えないことはない。ただ俺が笑っているのは、彼女が長年嫌っていた理由が大したことなかったからだ。
彼女の子どもじみた理由もそうだったし、そんなことに対して一瞬でも真剣に考えていた俺自身を笑っていたのだ。
美緒が意を決してブロッコリーをかじる。彼女の食べた物についた歯型を見て、俺も我慢してピーマンを食べた。
体は大きくなっても、味覚は変わらない。苦いものは苦い。
俺がピーマンを食べる姿を見て、むすっとしながら彼女は頬杖して顎を乗せる。
そんなに私が作った自慢のピーマン料理はお口に合わなかったのね。と聞いてきたときは正直焦った。今更ながら美味しいよとは言えない。
俺は必死になって言い訳を考えた。
正解という島にたどり着くために羅針盤が導き出した答えは、なんてことのない一言だった。
美緒が作ってくれているから、苦手な食べ物でも食べられるよ。と文字通り苦虫を……食べ物を虫に例えるのはさすがに止しておこう。
苦いものをすり潰したかのような顔をしながら、ピーマン料理を口に入れた。
彼女は気を良くしたのか、ふふふ。とほほ笑む。
そして彼女は、じゃあ明日からずっとピーマン料理でも大丈夫そうね。と恐ろしいことを口にした。
それだけは勘弁してほしいが、心なしかいつもより柔らかく感じた笑顔を前にしては、どんな男でも嫌だとは言えない。
冗談であってくれと願うばかりだが、彼女は優しいから二日連続でしかも俺が苦手なピーマン料理を作ってくれるはずはない。
しかも、手が込んでいる手料理だと思う。連日手の込んだ物を作ってきてくれるのは男冥利に尽きるものだが、彼女にあまり負担をかけたくない。
彼女は昼食中、よくあくびをするようになった。
俺の前で気が抜けているだけなのか、それともそろそろ慣れない早起きが堪え始めているのか。
前者だけなら可愛らしいと感じるだけだろうが、万が一後者の方だとすると無理をしてほしくない。
手を抜いて、こっそり母親に手伝ってもらたって構わない。冷凍食品を入れたって分からないフリを精一杯するから。
俺は、美緒にも元気でいてもらいたいんだ。
これから先も。
それに、無理をするには肌に悪いって言うぞ。だから、な。
誰に語るわけじゃない気持ちを、たった一人でお手玉のようにくるくると玩びながら、美緒が来るまでの暇を持て余していた。
彼女を探すように無意識のうちに周りをきょろきょろと見渡し、耳を澄ます。
聞こえてくるのは、程よく鼓膜に響く心地よい雨音と校舎内を走る節操のない足音。時折、女子高生同士の他愛のない会話から生まれる笑い声が鼓膜を揺らす。
右を見ても、左を見ても、もちろん後ろを見ても彼女の姿は視界に捉えることはできなかった。
ここ最近、一人でいる時間の方が短い。美緒との時間や、家族と話す時間が増えていった。だからこそ、こんな些細な孤独さえも永久に続くと勘違いする。
孤独の雨が俺を濡らす。いっそ、空っぽになった方が一人になることを恐れずに済むのかもしれない。
でも殻に閉じこもって空になることはできない。
たとえ肉体から内臓を取り出しても、最後には心が残る。心があるからこそ完全な空になるのは無理なのだと考えている。
では心は何処にあるか。と道徳の時間に問われたことがある。
答えは出なかったが、今は何処にあるのかはっきりと言える。
人の体は心で出来ている。きっと内臓のどこにでも存在して、頭の中にも手にもある。
触れて、見て、嗅いで、味わって、聞いて心の存在を実感する。血液と共に体の中を止まることを知らずに巡っているのだ。
五感こそが心そのものの証明だと個人的には思っている。
見えないけど、そのほうがロマンチックで良いでしょ。と美緒も言ってくれるはずだ。
「ごめん、賢ちゃん。待った?」
後ろから来た美緒が、手に傘を持ちながら俺に声をかけてきた。
「全然待ってないんだけど。珍しいな、美緒が遅れて来るなんて」
彼女はくすりと笑う。
今のどこに笑う要素があったのだろうか。彼女の笑うツボは、長年付き添ってきても未だによく理解できていない。
次はその理由も聞いてみるとしよう。
「賢ちゃんはそんなに私が遅れてきた理由が気になるの?」
「そりゃ、普段遅れない人が遅れると理由ぐらい聞きたくなる」
「実は、隣のクラスの子に告白されちゃってね」
「え!?」
すっとんきょうな声を出して驚く。ほとんど人のいない校舎は余計に音を反響させ、おかげで声が壁や地面に吸い込まれるまで少し時間かかり、自分自身の耳にもその残響は届いていた。
美緒が告白された。
二度目の衝撃的な事実に俺の体はものの見事に統率が取れなくなっていた。
思考が止まり、それ以外の事実を受け付けなくなる。指先から消えていく熱。体は緊張の糸に縛り上がられ、動いてくれない。
そればかりか、心臓の音は一瞬一瞬に大きくなっていく。
「……ずっと前から好きでしたって。びっくりしちゃった。いきなり呼び止められて告白されるなんて、普通考えないでしょ?」
「それで、美緒は……なんて言ったの?」
掠れた声で俺は訊いた。一番聞きたくない答えを。
「断ったわよ。だって、私もあの子のこと去年同じクラスだったことぐらいしか知らないし、それでも一回か二回ぐらいしか話したことないのよ。相手のことも良く知らないのに、付き合うことなんてできないわ。相手にも失礼でしょ? そんな恋愛はお互いに傷つくだけだわ」
無意識のうちに胸を撫で下ろした。
ある、疑問を浮かび上がった。
自分に対するほんのちょっとした違和感とか、わだかまりを覚えた。
それが次第に姿を大きくしていく。止める術を持たない俺はただただ呆然と唖然としながら見つめていた。
……どうして俺は、ホッとしたんだ。何に対して安心したんだ。
それに、どうして俺は美緒がなんて答えたのか訊いた? キハラ先輩に告白されたと聞かされたときだって、聞きたかったけど言いまいと我慢していたはずだろ。
どうして、今回はそうじゃない。何故、我慢できない。
美緒が真剣に悩み、誰かを好きなって付き合うのは構わない。俺は彼女が幸せならばそれでいい。喜んで身を引こう。
でも、この安心感はなんだ。一体、どこから湧き上がる?
俺は彼女にどうなって欲しいんだ?
迷っていた。明確に見えていたはずの道が途端に暗転し、一寸先は闇。あまつさえ彼女が手招きしているようにも受け取れる誘惑の幻。
これからどこに向かえばいいのだろう。
漠然とした不安が遅れながら押し寄せる。
俺は、歩くのが怖くなって立ち止る。
不安がすぐそこに来ているというのに、目の前の闇が怖くて堪らず愚かにも足を止めてしまったのだ。その道が崖だったらという不確定な想像が、俺の後ろ髪を引く。
美緒のことは好きだ。だからこそ、美緒にはちゃんと俺の分まで幸せになってもらいたい。
「どうしたの賢ちゃん、深刻そうな顔をしているけど? もしかして財布でも無くした?」
彼女の声さえも酷く遠く感じたが、それでも俺は彼女の心配そうな顔に見て黙っていられるほど薄情な人間ではなかった。
「ううん、大丈夫だよ」
「ふーん、なら良かった。それじゃあ、帰りましょうか」
この俺自身の中で生じた矛盾で出来た傷が再び疼きだすのは、それほど長くはない。もう少し後になる。
美緒に話しかけられたこともあって俺は考えるのを止めた。外は翠雨がまだ音と立てて降っていた。
「今日、傘を持って来てないんだよね」
俺は苦笑いしながら、軽やかな足取りで一足先に外に出ていた彼女にそう言った。
仕方がない。服が濡れるのはこの際気にしない。鞄だけでも制服の中に入れて行こう。帰ったら風邪を引かないように、風邪薬を飲むことにしよう。
身を引き締めて、雨の中に躍り出ようとしていた俺を美緒は呼び止める。
「ねぇ、賢ちゃん。傘に入れてあげよっか?」
予想外の提案に俺の動きは、魔法がかかったように止まった。
「いや、折角だけど遠慮しておくよ。その傘はどう見ても二人は入れる大きさじゃないし、美緒まで濡れるよ」
「このまま私だけ濡れないで、賢ちゃんが風邪でも引いたらさすがに夢見が悪いわ。だから賢ちゃんが濡れる分をちょっとだけ肩代わりしてあげる。ずぶ濡れで帰るより、肩や足元が濡れて帰る方が良いじゃない」
結局、彼女の真っ直ぐな瞳に押し切られてしまい一緒の傘に入ることにした。
肩先がぶつかりそうな距離。下手をすれば手までもが触れ合ってしまいそうになる。相合い傘でも恥ずかしいのに手でも握られたりしたら、俺は顔面から火を噴くだろう。
相合い傘はそれだけで特殊な条件下なのだ。
ぽたぽたと傘に落ちてくる雨。透明な雨が世界に眩しさを反射させ、いつにもなく煌びやかに飾り立てる。
俺には眩しすぎる。眩暈を起こしそうだ。
じめじめとした、まとまりつく空気。アスファルトを跳ねる雨は楽しそうに見える。曇天は昨日までの青空を覆い隠してしまった。
この日ばかりは太陽をまんまと隠された。
太陽が恋しいわけではないが、無いは無いでそれで寂しいものだ。夏の昼にはよく太陽が映える。夜には月が姿を変えながら、見守ってくれている。
「賢ちゃんは知ってた?」
彼女は紅く唇を動かす。まばたきするたびに上下する彼女の黒く長いまつげ。不思議といつまでも見ていられる。
傍に寄り、改めて強調される彼女の色。周りがセピア色に褪せてしまうほどに鮮明だ。
「傘の中で聞く声が一番綺麗らしいわよ」
「どうして?」
「傘の中で反響してどうのって話よ。こうして相合い傘して、互いの声がいつもより綺麗に聞こえる。なんだかロマンチックじゃない? 私の声、綺麗に聞こえている?」
彼女の声は近くにいるおかげではっきりと聞こえている。だけど、綺麗に聞こえているかどうかは俺には判断できなかった。
「ごめん、普段との違いが……」
申し訳なく思いながら素直に謝ると、彼女は俺を制服の裾を掴み歩を止める。
「じゃあ、これでどう。良く聞こえるでしょ?」
彼女は少し背伸びをして、耳元でそう囁いた。吐息がくすぐったい。
俺はいち早くこの誤解されかねない状況を打破しようと、まだ違いが分からないままだが、綺麗に聞こえている。と言った。
美緒はやや何かに物足りなさを感じているのか、なかなか離れてくれない。
だが、雨脚が強くのなるのを雨音からで察し、再び歩き出した俺たちは今日これからどうするか考えていた。
彼女にも俺の声が普段より綺麗に聞こえているのだろうか。俺には分からなかったけどそうだと嬉しい。
互いに濡れる肩。もう少し近づければ濡れずに済んだかもしれない。だけど、この僅かな間が俺たちの心の距離を表しているようで嬉しかった。