二日目①
朝の目覚めは、最悪だった。
朝日が嫌いだとか、朝が苦手だとかそういうことじゃない。むしろ早起きは得意だ。だが、ここ最近は目覚めが悪い。
眠ったはずなのに疲れが抜けていない。
理由は分かっている。彼女は引っ越すと決まった日から、日が変わることが怖いせいだ。明日になると後悔がせり上がって来る。
どうして時間を大切にしなかったと昨日の俺を今日の俺が責めるのだ。
だが、どうしてだろう。今日はそれがない。それだけ昨日は充実した日だったようだ。昨日は色々とあり過ぎた。
空白だった時間を過去を振り返ることで埋めていく。この作業は愛しいとさえ感じる。
美緒との絆が戻っていくのが嬉しかった。しかし、複雑な気持ちには変わりない。失うと分かってからその価値に気づくなんて。
俺も含めて人は愚かすぎる。どうしてその大切さを誰も教えてくれない。一言だけも良かった。そうすればもっと一瞬一時を大事に生きていけた。
後悔が再び俺の後ろに立つ。離れてくれるつもりはないらしい。
俺は後悔に追いつかれる前に考えるのを止めた。そうだ、彼女にはもっと笑ってもっと楽しそうに生きて欲しいと言われたのだ。
彼女のわがままは、俺とした約束に思えた。
約束なら破るわけにはいかない。
新鮮な空気を肺一杯に取り入れ、口から淀んだ気持ちを吐き出す。
表情筋は朝だからか固い。試しに自分で口角を上げてみる。うん、昨日より良く笑えている気がする。
寝癖を触りながら、カーテンを開ける。
一気に朝日が、もう収まりきらない本棚と人の心地が残っているベッドと暗がりの部屋を彩る。鮮やかな世界は俺の目にもしっかりと映っていた。やっぱり朝は気持ちが良いな。
窓を見ると隣の彼女の家が見える。彼女の部屋はまだカーテンを閉じたままだった。
……まだ寝ているのかな。
小学生のときにはこの窓からよく夏休みの宿題とかを借りたり、貸したりもした。彼女の母親はそういったことに厳しく、自分の力で宿題をやらせる。
当たり前のことだが、夏休みと聞いて遊ばずにいられないのが子どもの心情だろう。
彼女も漏れなく例外ではない。遊ぶことに専念してついつい忘れてしまうのだ。麦わら帽子をかぶって、白いワンピースを身にまとい俺を山や海に連れ出した。
泥だらけで帰って来た日には二人して怒られて、俺の家や美緒の家で夕飯を食べた。
夏に食べるそうめんやスイカは、格別美味かった。
人一倍遊び、人一倍勉強していたようで成績はトップクラスで良い。それは今も健在だ。
一度でいいから彼女に勉強を教えてもらいたかった。
小学生のときの成績はあくまでも普通。彼女はよく満点を取ったテストを窓から見せてきた。
したり顔をしながら、成績表を見せびらかす。
良くも悪くもない成績を親にも彼女にも見せるのが億劫だった。高校に入ってからは独力で勉強し、成績が良い学生の仲間入りを果たした。
一年の冬の期末テストには、彼女に点数で勝っていた。お互いに得意な国語で。
美緒は相当悔しがってたな。
見るからに頬をハリセンボンのように膨らませて、面白い顔をしていた。思わず失笑しかけだが、なんとか堪えて次は勝てるよと慰めた。
彼女の機嫌を損ねると、まぁ人並みには面倒くさい。
機嫌を直すための条件はいくつかある。まずは甘い物をあげる。次は彼女の話を聞いてあげる。どうして負けたのか、どうしてここを間違えたのかとかそんなところだ。
最後にストレスを発散できる場所にでも連れて行けば、機嫌はすっかり直っている。
以前の俺と彼女が一緒に過ごす数少ない貴重な時間だった。だから嫌いだったわけじゃない。
学校では才色兼備の男女問わず人気の学生だが、俺の前では本心をさらしてくれる。
素直にそれが嬉しかった。
おっといけない。ぼーっとしすぎてしまった。
母親の作った朝食が冷めてしまう。とんとんとまな板をリズムよく叩く音、湯が沸くことを知らせるタイマーの音。
あくびをしながら、階段を降りていく。
「おはよう、母さん」
母に挨拶をする。
「おはよう、賢太郎。今起こしに行こうと思ってた。朝ごはん、ウィンナーで良かったよね? それとも昨日のカレーのほうを食べる?」
作業しながら答える。美緒もこんな風に俺の弁当を作ってくれているのかな。
「いや、朝からカレーはちょっとね。ウィンナーで良いや。勝手にご飯をよそって食べるよ。今日の味噌汁は?」
我らの家では必ず朝に味噌汁の具を聞くことになっている。
「今日は、大根の味噌汁。ちょうど温めたからすぐにでも飲めるよ」
「ありがとう、そうする」
俺が礼を言うと母の作業する手が止まる。どうしたのだろう。家事に慣れている母がまさか指でも切ったのか?
「賢太郎、今日はやけに素直じゃない。なんか良いことでもあった?」
そうか、普段の俺ならこんな些細なことでお礼は言わない。今日に限ってお礼を言ったことに母は驚いていたのか。
良いことはあった、か。やっぱり伊達に俺の母親を何年もやっているわけじゃない。息子の俺のことなら一言二言、言葉を交わしただけで心の中まで分かってしまうのだ。
俺は笑いながら、「まっ、そんなところかな」と答えた。
味噌汁をお椀に入れ、ご飯を茶碗を盛る。
テーブルには熱々のウィンナーが並んでいる。すでに数本無い。母はつまみ食いはしない。父さんも今日はウィンナーを食べて仕事に行ったのか。
親子は似るものだなと思いながら、椅子に座る。
いただきます。
学校があるので朝食を手早く済ませ、洗面所に向かう。
洗面所で寝癖を直し、歯を磨き、顔を洗い、汚れが多少目立つ鏡で顔を確認する。いつもより血色が良い。背筋を伸ばして、着替えるために自室に戻る。
制服に着替えて、学校に行く準備をする途中でインターホンが鳴る。
こんな朝早くに誰だ?
「賢太郎! 美緒ちゃんが来てるわよ!」
母が玄関から近所に聞こえてしまうほどの大声で叫ぶ。
教科書を鞄に詰め込み、忘れ物がないかのチェックする前に急いで階段を駆け下りる。
「おはよう賢ちゃん。そんなに急がなくても良いのに」
美緒は急ぐ俺を見て、口に手を当てクスクスと笑いながらそう言った。
安心したかった。彼女がいきなりいなくなっていないか、心配でどうしようもない。いると分かっているのに。一目見なければ落ち着かなった。
良かった。まだ美緒はそこにいる。
「おはよう、美緒」
できるだけ平静を装って挨拶を返す。
「それじゃ、行きましょうか」
彼女は玄関の戸を開け、先に外で待っている。
俺は靴を履き、母に行ってきますと言って外に出る。
太陽の日差しは眩しかった。まさに眩暈を起こしてしまいそうになるほどに。じりじりと焦げている地面を靴で踏みしめ、彼女と一緒に歩き出す。
鞄を持つ彼女の手に不意に目が止まる。白い指に絆創膏を貼っている。どうしたのだろう?
じっと見つめる視線に気がついたのか、指を撫でながら彼女は俺の疑問に答えた。
「これ? お弁当作っているときに切っちゃったの。寝不足でね、私の不注意よ」
俺がお弁当を作ってきてくれと言ったからか。と責任の一端を感じる。
「ごめん、俺がお弁当を作ってきてくれなんて言ったから」
懺悔の気持ちを込めて頭を下げる。
「賢ちゃんが謝ることじゃないでしょ? それに、怪我したのは私の不注意だったからよ。謝らなきゃいけないのは、どちらかというと私の方ね。今日のお弁当、お母さんにちょっとだけ手伝ってもらっちゃった。ごめんね」
謝ることじゃない。俺のことを想って作ってくれた人に対して怒るものか。どれだけ美緒の母親が手伝っていようが関係ない。作ってきてくれたことが嬉しいんだ。
だから、謝らないでくれ。
いつもなら俺はここでなんて言えばと困っていたことだろう。だけど、今日は違う。素直に彼女にありがとうと伝えよう。
――それでも。と俺は彼女の顔を見て。
「ありがとう美緒。美味しくいただくよ」
彼女は頬をほのかな赤に染め、安心したような優しい顔を向ける。
「楽しみにしててね。今日は何て言ったって、自信作なんだから」
美緒の後姿は、スキップでもし始めるんじゃないかと思うほどに嬉しそうに見えた。
どうして。なんてことは聞かないことにする。どうせ、はぐらかされるだけだ。きっと笑いながら。こうして彼女に振り回されるのも、何回目だろうか。
きっと両手だけじゃ足りない。数え切れないほどに思い出を重ねてきた。
何度も彼女は俺の家に来た。何度も俺のことを怒ってくれた。何度も食事を共にした。何度もこの道を通った。何度も名前を呼ばれた。
あと、何回……俺は彼女に賢ちゃんと呼ばれるのだろう。
体に染みついている彼女の声の残響。
時の流れに消えてしまわないように、記憶の銀河に見失わないように俺は頭の中で繰り返すだろう。彼女に呼ばれたことを。
俺の中で明確に変わったこと言えば、ようやく哀しみに慣れた。ということだろう。
受け入れ始めているのだ。彼女との別れを。
避けようにもない現実だ。現実を変えるだけの力は、この世界どこを探しても見つかりはしない。
苦しい、辛い、悲しい。この三つが現実を作る言葉なのかもしれない。と最近はずっと考えていた。幸福など限られた人にしか来ないのだと思っていた。
俺の過去を作っているのは限りなく、この三つだ。
しかし、今はどうだ。この三つは真逆の感情が現状を作っている。
どうか、これが夢でありませんように。
そして、もしこれが悪夢ならば覚めてくれ。
朝起き、カーテンを開ければ向こうから彼女がおはようと言ってくれる現実を返してくれ。
辛いだけの現実は見たくない。喜びに満ちている夢を見させてほしい。
悲しいだけの悪夢は見たくはない。幸せに満ちている現実を見させてほしい。
心が矛盾だらけだ。結局辛いことから逃げようとしている。都合の良い方にばかり物事を考えている。
俺が見ているのは夢か現か、分からなくなっていた。
まだ寝ているなら起こしてくれ。現実ならもう少しだけでもいい、夢を見させてくれ。
俺は、そっと胸に手を当てる。どくんどくんと鼓動は正常に動いている。血液が体を巡っている。肌を刺す太陽に光も、額に滴る汗も、瞳に写る彼女の姿もすべて本物だ。
ああそうか、見ているのは現実なんだ。
辛いだけじゃなくて、もちろん喜びだけでもない、厳しくて優しい現実なんだ。
心のどこかでは、彼女との別れを拒んでいる。明日が来ないようにと願っているのだ。
彼女との残された時間をどう過ごすべきか。別れを完全に受け入れて、彼女が何も思い残すことなくこの町を去っていくことに協力するか。
それとも、こうやって拒み続けて彼女に行かないでくれと縋って美緒の心を曇らせるのか。
断然、前者の方が良いに決まっている。そうだ、別れを受け入れてしまえばいいだけだ。簡単なことだろう。どうしてできない。
答えを決めあぐねていた。
「ねぇ、賢ちゃん?」
彼女に呼ばれて、はっとする。
暗い顔をしてはいけない。彼女との約束だ。せめて彼女といるときだけでも笑顔でいなければ。
「どうしたの?」
美緒は俺の顔を覗き込む。
急に近づいてきた顔に驚き、俺は身を引く。
この行動が彼女の悪戯心に火をつけたのか、ふふふ。と不敵な笑みを浮かべ、体をくねらせて俺に近づいてくる。
「賢ちゃんは私のこと、嫌い?」
そうじゃない。嫌いなわけあるもんか。
「みんな、私の顔のこと綺麗だって褒めてくれるのに。賢ちゃんったらいっつも私が顔を寄せると離れていくのね」
怒っているのかそっぽを向いて、目を合わせてくれない。
しまったな。機嫌を損ねてしまったか? あれは反射的と言っても良い。いきなり人に顔を寄せられて驚かない人間がどこにいる。
つまりは自然の摂理なのだ。と理論立てて反論しても彼女にはきっと通じない。
参った。どうやって誤解を解こう。
「いや、そうじゃないよ。いきなり顔を寄せられたは誰だってびっくりするだろ? 反射的と言うか、なんと言うか……」
結局こう言うしかない。まったく、自分の口下手具合にはうんざりする。
「じゃあ、証明して?」
「証明ってなにを、どうやって?」
目と目が合い、彼女の瞳が物語っていた。このあとなんて言うか分かっているでしょ。と。
「賢ちゃんの言葉でそうじゃないって言って。いっぱい心を込めてね」
美緒は一歩近づいて来て、目を閉じて耳を澄ましている。
急かさないでくれよ。心の準備ってものがあるんだよ、こういうことを言うのには。勇気を振り絞るとか、そうのじゃない。言わなければ彼女が本当に拗ねてしまう。選択肢は必然と一つに絞られる。
「綺麗だよ……。美緒の顔は」
彼女の心に俺の言の葉は、届いているだろうか。これでも真心を込めて言ったつもりなのだが。
「……」
まだ黙っている。餌を待っている子犬のように見えて面白い。美緒はせっかくだから、しばらくこのままでいてもらおう。
俺がそれから何も言ってこないので、彼女は不満そうな顔をして目を開ける。
一体何が不満なんだ。と訊く前に彼女から不満な理由を言ってくれた。
「それだけ?」
「え?」
俺の彼女の顔を褒める言葉が少なかったのだ。綺麗な顔を綺麗と言っただけなんだが、それだけでは足りないらしい。
これ以上どうやって褒めたらいいのか、俺にも分からない。
小説で読んだ表現を言ってみたらどうだ。いや、ややこしすぎて俺もこんがらがってしまう。
彼女を求めている言葉はなんだ? 可愛いとか、綺麗だと思っている所を例に挙げて褒めれば良かったのか? ダメだ、分からない。
完全に思考が止まってしまった俺のことを見て、美緒は呆れながら「これだから賢ちゃんは彼女が出来ないのよ」と言いたげな顔をしていた。
出来ないんじゃない。作ろうとしてないだけだ。あと余計なお世話だ。
「女心に疎い賢ちゃんに教えてあげるわ。こういうときわね、思わずキスがしたくなる顔をだとか、抱きしめたくなる。とか言っておくものなのよ」
おいおい、そんな恥ずかしいセリフを言わせる気か? 劇団とかじゃなんだぞ。ここで初めて彼女の正気を疑った。
ここは人通りが少ない。ここでなら、どんなに恥ずかしいセリフも道を走る車の音で連れ去られていくだろう。
だけど、それはそのセリフを言ったという事実は連れて行ってはくれない。こんなことを言ったら今日はまともに彼女の顔を見られない。
「言ってくれないと、私ずっと気にしちゃうかもね」
熱い風になびく髪を耳にかけ、伏し目がちで唇をぎゅっと蕾のように閉じ、影のある表情を作る。女優にでもなったらどうだ。
これもまた、言うしかない。
「……キスが、したくなる、顔だよ。」
ここからいなくなりたい。どうか彼女以外誰も聞いていませんように。
頼むからこれで勘弁してくれ。
赤くなった顔で彼女を見ると、彼女はそっと目を閉じて可愛らしく唇を差し出して何かを待っているようだ。
俺は戸惑い、石像のように固まってしまった。
「いいよ、賢ちゃん。キスしても」
甘く囁く彼女には、小悪魔の羽根が背中に生えていように見えた。
「なんちゃってね。もう賢ちゃんったら、こんなことだと悪い女の人に捕まっちゃうわよ? こうやって振り回されちゃダメなんだからね」
振り回している自覚はあるのか。
彼女は不意に、少々傷んでいるが大事そうに使っているピンク色の腕時計を確認する。
「あっ、いけない。私日直だったわ。賢ちゃん、急ぐわよ」
俺は彼女に言われるまま、急いで学校に向かう。
彼女がつけていた腕時計は、俺が中学校のときにあげた誕生日プレゼントだった。