一日目③
そして公園に着くなり、彼女は木陰にある涼しそうなベンチに座る。
「ここの公園、覚えている?」
彼女は暑さにうんざりしながら、服の襟を掴んで顔に風を送っていた。ほのかに香る彼女の匂い。本能をくすぐられるそれから逃げるようにして、ベンチから立ち上がる。
「覚えているよ、忘れるわけない。……それにしても今日は暑いね。ちょっと自動販売機で何か買ってくるけど、何がリクエストある?」
立ち上がるだけでは逃げたことにはならない。彼女を見下ろす形となって、鎖骨から胸辺りまでの肌が見えてしまった。
驚きと恥ずかしさで目を逸らす。男の性で目が行ってしまうのは事故に近い。そもそも男と一緒にいるというのに、あの無防備な格好はなんだ。
彼女の肌の感覚を頭と手から振り払う。
「やった! 賢ちゃんの奢りね」
喜ぶ彼女を見て、後でお金を返してもらうつもりだったとは言えない。
俺は頭を掻き、飲み物はなんでも良いんだろうと美緒に確認し、彼女は「賢ちゃんのセンスで選んできて」と笑いながらそう言った。
俺は自動販売機に足早に向かう。彼女のあられもない姿から離れたかったのだ。気が散ってしまって話に集中できない。
さて、何を買おうか。
財布を鞄から取り出して、中身を確認する。所持金は千円と五百円が一枚。小銭が少々。
まだ母親からは小遣いは貰っていない。普段なら絶対にこの状況で他人に奢るなんてことはしない。
でも、今日は特別だ。だからそっと財布から五百円玉を取り出す。
だけど、お金がかかってしまうのは学生としてはそこそこの痛手だ。彼女に苦手な缶コーヒーを買っていこうかと思ったが、怒られるのが目に見えているため止めた。
結局買ったのは、同じスポーツ飲料水を二つ。
同じ物を買うのは彼女に何か言われそうなので、気が引けるが俺の好きなお茶がたまたま売り切れだった。
彼女の元に帰ると、ベンチに座っている小さな体が無くなっていた。
どこに行ったんだ?
ペットボトルを持ちながら彼女を探す。せっかく買ってきた飲み物がぬるくなってしまう。
どこだ。公園内を歩いて進むと、美緒が砂場で一人寂しく屈んでいた。
あの砂場は幼稚園児のときにいつも俺たちが遊んでいた場所だ。砂の城を作ってみたり、トンネルを作ってみたり、意味もなく掘ってみたり。美緒の持ってきた人形で遊んだりもした。
ここに来るのは、小学生以来か。
遠目で彼女を見ると、砂場で何かを作っているのが分かった。
駆け寄り、声をかける。
「いきなりいなくならないでくれよな」
「ごめんね。ここに来るとつい遊びたくなっちゃって。もしかして、私のこと心配してくれたの?」
「いなくなったら、誰だって心配するだろ」
子どもを見失った親の気持ちが分かった気がする。
いなくなった。ということで思い出したのだが、俺と彼女は二回ほど迷子になったことがある。その一度がこの町の夏祭りに行ったとき。人ごみに流されて親から俺たち二人が離れてしまった。
当時、一年生だった俺は見知らぬ人に囲まれた恐怖から泣き喚ていた。
迷子になった理由は簡単だった。俺が夜店のお面に気を取られて、母の手を離してしまったのだ。それを見ていた美緒が俺の手を引きに、戻ってきてくれた。
すると二人仲良く迷子になってしまった。
それでも彼女は泣かずに、大丈夫だと頭を撫でてくれた。
当然両親も探しに来てくれて、十分後に無事に再会した。
こっぴどく叱られたが彼女だけは俺の味方だった。私が行こうと誘ったと言って。
そのときから俺は、彼女に助けられてばかりだな。
「それで、美緒は何を作っているの?」
彼女の砂で汚れた指を見つめる。
「何だと思う?」
本来なら土台を作っている時点で分かるわけがないだろう。と呆れるのだが、俺は知っている。この土台から何を作るのか。
「城……かな」
離れ離れになった者もいる。地元の高校に行かず、進学校に行った者もいた。疎遠になってしまった者もいる。
あいつらと考えた城の作り方。あのときは、友達という一つのことだけでどこまでも繋がっていける気がした。
「正解。やっぱり、賢ちゃんには分かっちゃうか。昔はもうちょっとうまく作れたんだけどね。今は無理みたい。どれだけ土台をちゃんと作っても、すぐ壊れちゃうわ」
手を払い、立ち上がろうとする美緒を俺は止めた。
「じゃあ俺も作ってみるよ。美緒、手伝ってくれ」
どれだけうまく作れるか分からない。
鞄を置き、一息ついて作業を始める。そして彼女も「変な賢ちゃん」と笑いながら、どことなく嬉しそうに俺の作業を昔みたいに手伝ってくれた。
二人だからか時間はかかった。
それでも、子どもの手で作る時よりずっと早かった。夕暮れの少し前には、おおよそ城と呼べない城が出来た。
小さかった俺たちにはこれが本当に城に見えた。
大人になって、感性が錆びついてしまったのかどう見ても城ではなかった。せいぜい、矢倉が良いところだろう。
砂場の淵に腰を下ろして、ぬるくなってしまった飲料水を飲む。
汚れてしまった手を見つめる。夕日にかざす手は宝石のように輝いていた。
「賢ちゃん」
美緒に呼ばれ、彼女のいる方を向く。
すると頬に手を当てられ、見つめられる。
「ちょ――っ」
緊張のあまりに上手く声が出なかった。近づく顔、瞳に吸い込まれてしまう。自分の体が震えているのが美緒に伝わりそうで怖かった。
目を閉じる。
「ここ、汚れているわよ」
「……え?」
目を開けると美緒はハンカチで顔についた汚れを拭いていた。
顔を動かされないように頬に手を当てていたのか。本当に、別のことを考えていた。目を閉じて体を震わせて、緊張していたのが馬鹿みたいだ。
「ほらとれたわよ。うん、いつもの賢ちゃんの顔に戻ったわ」
彼女は綺麗にになった俺の顔を見て、母親のような慈愛に満ちた表情を浮かべていた。
恥ずかしさから下唇を噛み、あのまま想像していることをしていたらどうなっていただろうかと考える。
果たして彼女の唇は甘かったのか、それとも。いや、これ以上はやめておこう。
彼女はスカートと手についた砂を払い、今度こそ立ち上がる。
気がつけばすっかり、夕暮れ時になっていた。
周りにいた子どもたちは手を振り友達と別れ、各々の家に帰っていくのだろう。
見上げた美緒の瞳は、誰もいない公園を映していた。恐らくながら過去の自分たちの残影を見ているに違いない。
目を閉じれば、あの頃が容易によみがえる。
日が暮れるまで遊び、帰れば母親の手料理が待っている。
好物のカレーが出た日には飛び上がって喜んだ。
街灯にほんのりと明かりが灯る。彼女はすべり台に向かって、昔の跡を指先でなぞるように歩き出す。
すべり台の上で、彼女は深呼吸をする。
そして一気に滑り降りてくる。
そうだ、彼女はすべり台が好きだった。大人になった彼女にはあの高かったすべり台からの景色はどう映っていたのだろうか。
それを問うだけの暇も与えてくれず、彼女は次にブランコに向かった。
ブランコに座ると、地についてしまっている足を上げ、こぐ仕草を取る。
ブランコはちっとも前にも後ろにも動いてくれなかった。
困ったような苦笑いをし、美緒は手で俺を招く。こっちにおいでと誘ってくれているようだ。
隣に座ると、彼女は「これのこぎ方、忘れちゃった」とため息をつく。
「簡単だよ、足をこうして揺らして――」
足を揺らして、か。
成長した体ではこのブランコは低いのだ。地に足がついてしまってどうしようもない。足を上げようとも、どこかが必ず擦ってしまう。
それは、彼女も同じだ。
「ははは。俺ももう、こげなくなっちゃったかな」
「私たちも大人になったってことかしら。もっとずっと先かと思ってたら、案外すぐになったわね。あと三年もすれば二十歳よ。早いものね」
そうだな。と相槌を打つのが精一杯だった。
――だったら。と彼女はブランコを降りて鉄棒に向かう。
俺はここから彼女が何をするのだろうと、気になってじっと小さな背中を見る。
彼女は鉄棒が大の苦手だった。特に逆上がりが。俺も苦手な部類だがそれでも彼女よりできた。俺に負けた事実が余程悔しかったのか、彼女はそれ以来鉄棒をしなくなった。
彼女は鉄棒を握り、勢いをつけようとしている。
「ちょっと待った!」
俺は焦りながら彼女に駆け寄る。
「なによ?」
「もしかしてだけど、今から逆上がりしようとしていない?」
「してるけど? 大人になったから出来るかなって思ってね」
「いきなりできるもんじゃないし、今はスカートを履いているんだよ?」
彼女のスカートに目を配り、鉄棒を止めるように言った。
「ここにはもう私たちしかいないし、誰も気にしないわよ」
「俺が気にするんだよ」
彼女は意味ありげなに口角を上げる。
「ふふ。さっきも震えていたし、賢ちゃんも健全な男の子ってわけね。安心した。賢ちゃんに浮いた話がないから、そういうことに興味ないかと思ってた」
そういうことって? と聞き返すと。
「あら、女の子の私に言わせるつもり? 花も恥じらう乙女には言えないわ。……だから、賢ちゃんが私に教えてくれない?」
彼女の唇が動くたびに胸の潮騒が大きくなる。いじらしく自分の両手の指を絡ませて、夕日を味方にして潤む瞳で真っ直ぐ俺を見据える。
大人の色香を醸し出す彼女は、どうにも俺には刺激が強すぎたらしい。
湯を沸かしているやかんのように顔が熱くなり、思考が絡み合いぐちゃぐちゃになる。冷静さを失っていた。
彼女が冗談を言っている可能性など、考えもしなかった。
そうだと気がつかせてくれたのは、烏の阿呆と聞こえる鳴き声と彼女の無垢の少女のような笑顔だった。
「とか言ったら、どうするつもりだったの? 本当に賢ちゃんは純粋で素直ね」
悪かったな簡単な男で。
顔に冷静さを急いで貼り付け、彼女に少しでも困ってほしいからか俺は拗ねたふりをするために、後ろを向く。
手を組み、どうしてまた彼女の冗談に騙されてしまうのかと反省する。
火照る顔を気の早い先駆けの夜風が、慰めるように撫でていく。夏にしては涼しく、どこからか風鈴の音が聞こえた。
音の在処を探していると、美緒と目が合った。
そろそろ帰ろう。彼女の瞳がそう囁いていた。
終わっていく今日という儚い一日。やはり、別れは来てしまう。愛別離苦とはよく言ったものだ。この言葉を作った人は、どうやって愛する人との別れを乗り越えたのだろう。
言い慣れた「さようなら」は俺の体にはどうやら重すぎるらしい。
別れを意識した途端に、体の自由が奪われる。俺は他人のように強く生きてはいけない。たった一人の「さようなら」にも耐えきれないのだから。
哀しみの海は俺を容易く飲み込み、沈んでいく。
泳ぐ術は知らない。ただただ、必死にもがく。何もせず沈んでいくことはできない。みっともなく、未練がましく抗うことしか出来ない。
生きていくための空気を求めて。
誰かが別れは大人になるために必要なことだと言っていた。別れを重ねることが大人になることだと言うなら、俺はならなくていい。
次の出会いはいらない。だから、この人とずっと一緒にいさせてくれ。それだけでいいんだ。
俺は俯きながら、彼女と帰路に着いた。
「賢ちゃんったら、また暗い顔に戻って」
「え?」
彼女が立ち止り、俺の顔を指差す。
「だから、笑っている顔が一番好きだって言ってるでしょ? ほら笑って? 私に賢ちゃんの笑っている顔をよく見せて頂戴」
精一杯口角を上げる。この上なく力なく笑っていたことだろう。引きつっていたことだろう。
笑顔の仮面をつけるのは、どうも苦手だ。
「まだ何か我慢しているでしょ? 賢ちゃんももう少しわがままを言ってもいいのよ? だってそれは子どもの私たちの特権でしょ?」
都合よく子どもであることを使ってくる。彼女のように、たおやかで上手く生きていける人に成りたい。
わがままか。物わかりが良いふりをしてきて、すべて受け取って、自分を殺してきた。
こんな生き方は息が詰まりそうだ。窒息してしまいそうだ。
「わがままを言っても良いのかな?」
ぽつりとつぶやく。
「ええ。あなたの本当の気持ちを聞かせて」
まだすべてを言えるほど気持ちの整理はついていない。でも、これくらいなら言えるはずだ。これくらいなら誰だって笑って許してくれるはずだ。
「だったら、美緒の手作りのお弁当が食べたいな。明日からずっと」
「うん。分かった。だったら賢ちゃんのために手によりをかけて作らないと。楽しみに待っててね。それじゃあ、私からもわがままを言ってもいいかしら?」
聞かない理由はない。
「ああどうぞ。一つでも二つでも」
「ふふ、一つだけよ。明日からずっと、もっと笑って、もっと楽しそうに生きて」
彼女のわがままは、優しかった。誰よりも何よりも。
俺のわがままを聞いてもらったんだ。俺だってきかないといけない。溢れ出る優しさを身に感じながら――。
「分かった。もっと笑うよ。美緒が一番良いって言ってくれたから」
俺たちは再び歩き出す。
どこかの家の台所からカレーの匂いが俺たちの鼻孔を満たしていく。「今日私の家でもカレーなの」と彼女は笑う。「実は俺の家もだよ」と彼女に負けじと笑う。
晴れやかな気分だった。気持ちが良い。
それでも、俺の心の奥底に巣食う恐怖は消えなかった。
明日になるのが恐い。
明日なんて来なければいいのに。