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君がいない明日  作者: 宮城まこと
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一日目②

 黒板には筒井賢太郎と書かれていた。今日は日直だ。それに加えて掃除当番。

 授業が一通り終わり、放課後を迎えていた。俺はモップを持ちながら残した弁当を母親にどう説明しようかと悩んでいた。

 掃除も時間が周りの教室に比べてかかってしまう。担任教師が掃除に力を入れるタイプで、とても熱心に掃除の大切さを生徒に説いている。

 最低でも十五分はかかるのだ。

 しまった、こんなことなら美緒に帰りは少し遅れると言っておくんだった。

 掃除当番であることをすっかり忘れていた俺は、溜め息を吐きながら掃除を始める。

 こんなときでも思い出すのは、昼休みに話した美緒との会話だった。最後に言ったあの冗談がどうしても頭から離れなかった。

 あんな冗談を少しでも本気にしてしまった方が悪い。

  それでも想い人にああ言われると、いやにでも体が素直に熱くなる。

 ぐるぐると頭の中をめぐるあの笑顔、一挙手一投足に心は乱される。

 勇気を出してすれば、この恋にこれほど振り回されなくても良かったのだろうかと考えてしまう。我ながらおかしな妄想をする。

 それが出来ないからこうなっているというのに。

 キハラ。彼女に告白をした男の名前。

 名前をどういう漢字を使って書くのかも知らない相手のことが、どうしてここまで気になる。


 そんなこと自分がよく知っているくせに。キハラ先輩は美緒に勇気を出して告白した。だから気になるのだ。

 他人には簡単にできて、俺にはできないことは多くある。

 自分の気持ちを素直にぶつける。ということも俺にはできないことである。

 彼の勇気を俺にも分けて欲しい。そうすれば、この鉛のように重たい心も軽くなるはずなのに。

 キハラ先輩はサッカー部でも、いや学校内で知らない人はいない。

  それぐらい有名な人なのだ。

 なんて言ったって、彼はサッカー部のエースでキャプテン。高身長で顔も整っている。

  さわやかを体現したかのような彼は女子からの羨望の眼差しを振り切り、美緒に告白した。

 彼には俺と同じように美緒は魅力的に見えている。

 あの人と俺がライバルになるのか。おこがましいにもほどがあるな。俺と彼では月と(すっぽん)、アリと象みたいに差が離れている。

 元々敵うはずがないのだ。

「今日の掃除を終わりにするぞ。おい筒井、ゴミを捨ててきてくれ」

 先生がゴミ袋を縛り、俺に手渡す。これも日直の仕事なのだ。

「分かりました」

 面倒に思いながらも、俺はゴミ袋を持って校舎裏にあるゴミ捨て場に向かった。

 ここからはよくグラウンドが見える。

 天気は快晴。これ以上に無い運動日和だ。グラウンドを駆ける一人の男を視界の端の捉える。


 女子からの黄色い声援に応えるように手を上げる。間違いない、あれがキハラ先輩だ。

 たしかに背が高く、遠くから見てもいやでも彼だと分かる。

 一つしか違わないのにどうしてここまで差が出来てしまったのか。

 あんな人が、たくさん周りいる女の子の中からわざわざ美緒を選んだのか。

  神様はとことん意地悪だな。

 ゴミ袋をゴミ捨て場に置くと、足早にそこから立ち去った。

 教室に帰り、鞄を持ち、運ぶ足取りはいつよりかは幾分早かった。

 美緒は待っていてくれているだろうか。不安が足をいつより早く動かせる。

 もしかしたら、もう帰ってしまっているのかもしれない。自分自身が安心したいがために玄関まで急いだ。

「今日の掃除は案外早く終わったのね」

 俺の姿を見るなり、彼女は下駄箱に寄りかかっていた体をこちらに向ける。

 良かった。待っていてくれた。それだけで空っぽの器は満たされる。

「どうしたの? いつもより情けない顔をしているけど?」

 彼女は近づいて顔を覗き込む。

 そんなに情けない顔をしているのだろうか。というか、美緒から見れば俺はいつもそんな顔をしているのか。

「どうもしないよ。ただ、今日掃除当番だから遅れるって言ってなかったなって。ごめん、待たせて」

「良いのよ。賢ちゃんが掃除当番で遅れるってことぐらい知っているから」


 あっ。と彼女は何かを思いついたのか、ふふふと笑いながら何かを企んでいる顔になっていた。

 子どものころからそうだ。

  彼女がこういう顔をするときは決まって、俺が恥ずかしい思いをしてしまうのだ。何を言われるのだろうかと、思わず過去の経験から身構える。

「お詫びの印に、私の言うことを一つだけ聞いて頂戴」

 そんなことと言ったらおかしく聞こえるかもしれないが、これは彼女と俺の間ではおなじみのセリフだった。

  もっと別なことを言われるかと思っていたせいか拍子抜けだ。

 そうか、やりたい事リストの「思い出を振り返る」はもう始まっているのか。だからこそ彼女は新しいことを言うのではなく、記憶に残っているこのセリフを言ったのだ。

 初めにこの事を言われたのは、いつだっただろう。

 あれは小学二年生の頃だ。俺が彼女の大切にしていたぬいぐるみを誤って壊してしまったときだ。彼女は泣き喚いて、後にも先にもあれが一番大きな喧嘩だった。

 三日間ぐらい口をきいてもらえなかったっけ。だけど、四日目で俺を許してくれた。

 仲直りの印として、あのセリフを言ったのだ。

「賢ちゃんの笑っているところ久し振りに見たかも」

 何故か恥ずかしさが口を手で隠させる。別に隠すことでもないだろうに。

「どうして隠すのよ。賢ちゃんは笑っている顔が一番良い」

 自分でも知らないうちに笑っていたのか。人前で笑顔を見せたのは、本当に久しぶりだ。

 高校生になってから、笑う回数は減ってしまった。


 それにしても、笑っている顔が一番良い……か。そんなこと初めて言われた。そう思っているなら、もっと早く言ってくれよ。

 そうすれば、美緒の前でたくさん笑えたのに。

「そうかな?」

 照れくさく、彼女の目を真っ直ぐ見つめられなかった。

「そうよ。賢ちゃんを一番近くで見てきた私が言うんだから、間違いないわ」

 そう言って彼女は、俺の手を握る。そして引っ張る。

  あれだけ大人びている美緒が、早く行こうと駄々をこねる子どもように見えたのは、彼女の昔を知っている俺だけだった。

「行くわよ。さっそく思い出を振り返りましょう!」

 彼女に引かれるままに、俺は黙って歩き出す。

 美緒はいつもそうだ。手を引っ張って、殻にばかり籠っている俺を外に連れ出してれる。どれだけ感謝してもしたりない。

 この一週間、彼女の望むことをしてやる。せめてもの恩返しだ。

「ねぇ、賢ちゃん。初めて喧嘩したこと覚えている?」

「覚えているよ。小学二年生のときだろ? 俺が美緒のくまのぬいぐるみを壊したから、大喧嘩になったよな」

 覚えているも何も、つい先ほどその出来事について思い出してきたところだ。やはり、彼女もあの事を思い出しながら、俺にああ言ったのか。


「あれが最初で最後かしらね。私たちが喧嘩したのも」

 彼女にそう言われ、記憶の星屑の中を探す。

 記憶力には多少の自信はある。言われてみれば、あれが最初で最後の喧嘩だったのかもしれない。中学生のときも、高校生になってからも今までに一度も喧嘩をしていない。

 俺も彼女も大人になったのか、あれから喧嘩するほど関わっていないかのどちらかだ。

  時間が経つにつれて、人の絆という糸は脆く、崩れ去ってしまうものだ。

 俺と美緒との見えない糸も、風化していく寸前だった。それをもう一度鮮やかな色に染めたのは彼女自身だった。

 情けなくなる。結局、距離を感じていたのは俺だけじゃないか。

 青い春を全力で駆け抜ける彼女に置いて行かれて気がして、本当はただ寂しかったんだ。

 でも落ち着いて周りを見れば、顔を上げれば分かったはずなんだ。彼女が隣にいてくれていることに。

 その事に気がつくのに、俺はあまりにも遅すぎた。

 これは神様の嫌がらせか、それとも情けか。別れが決まってから気付かされるなんて。

 時間をもし逆行できるなら、俺は昔の自分に言ってやりたい。抱え込み過ぎるなと。

 そうすれば、美緒ともずっと仲良くいられただろうか。

「あのときね、本当は賢ちゃんと絶交しようとしてたのよ」

「え!?」

 俺は柄にもなく大きな声を出して驚く。


「三日間ぐらい口を利かなかったでしょ? 私ね、賢ちゃんとはずっとこのままなんだなって思ったの。だって、素直に謝った賢ちゃんを私は怒って泣かせたのよ。まぁ、私も泣いてたけど。それでね、お母さんに言われたのよ」

 信号で立ち止まる。

 俺は彼女の隣に立ち、さすがに人の目につくようになって恥ずかしくなり手を離そうとするが、ぎゅっと固く手を握られた。

 懐かしむ彼女の顔は、そこはかとなく切なそうだった。

 言ってやれる言葉は見当たらない。だから俺も握る彼女の手にそっと力をこめた。

「なんて言われたの?」

 信号で立ち止まってから彼女は先ほどとは打って変わって、黙り込んでしまった。口を真一文字に結んでしまっている。

 だから俺から会話の間を取り持つことにしたのだ。

 横目に見た彼女は、何かを我慢しているようだった。

「……お母さんはね、壊れたぬいぐるみはお金を出せば元に戻るけど、喧嘩とかで壊れたものはお金を出しても戻らない。自分で治すしかないのよ。そしてもし本当に壊れたら、二度と元には戻せないからって。そう言ってくれたの。ちょっとニュアンスは違うけどね」

 知らなかった。彼女の母親がまだ幼い彼女にそんなことを言っていたのか。

 おおよそ、小学二年生に言うことではない。その頃の俺たちには難しくて理解できなかっただろう。


 美緒の大人びた性格は母親の教育のたまものと言ったところか。

 話しと記憶を繋ぐと彼女は母親の言ったことを理解して、次の日に俺のところに謝りに来た。当然、喧嘩の原因は俺に非があった。

 俺ももう一度頭を下げたのを覚えている。

 そしてもう二度と、彼女とは喧嘩をしないと誓った。そして美緒は仲直りの印としてあの言葉を言ってきたのだ。

「あのとき、お母さんの言っていることはなんとなくしか分からなかったけど、今はあの言葉に感謝している。だって、こうやってまた賢ちゃんと仲良くしていられているんですもの」

 信号が青になる。俺たちは並んで横断歩道を歩く。

 こうやって手を繋いで並んで歩くのは小学生以来だな。

「これからどこに行く?」

 俺は横断歩道を渡り切ってから彼女に尋ねる。やりたい事リストに書いてあるのだから、ある程度どこを回るかのプランは彼女の頭の中にあるのだろうと決めつけていた。

 彼女は顎に人差し指を当てて、笑いながらこう言った。

「それがね、まだ決まってないの。どこをどう歩くとか、どこに行くとか」

 俺は本当に転びそうになった。誘うのだから、それなりの段取りがあると思っていたのに。

「うーん、この町全部が思い出だから決めるのは難しいわ。そうだ! 適当にぶらっと歩きましょう。それがいいわ」


 彼女が決めたことなら文句は言わない。俺も呆れ半分で分かった。と言って彼女と一緒に何の目的もなくただ気の向くまま、風の吹くまま、雲が流れるまま歩き出す。

 夏の日差しは依然として暑かった。頬を撫でる風も変わらない。変わったものと言えば、俺と美緒の関係と心だ。

 朝はあれだけ重く感じた足も鞄も心も、こうして美緒を話しているうちに徐々に軽くなっていた。

 俺が何を求めて、何を欲していたのかなんとなく分かった気がする。

 唐突に突きつけられた別れ。そのおかげと言ったら美緒に怒られそうなので、口には出さないが多少の感謝はしている。

 実際この別れによって俺たちは再び近づき、美緒は素直な気持ちをぶつけてくれている。

 俺も素直な気持ちをぶつけることができたなら。とついつい考えてしまう。心の準備はまだできていないし、急な変化にまだついていけていない。

 この繋いだ手でさえ、いつかは離れてしまう。

 素直にわがままが言える日が来ればどれだけ良いことだろう。でもそれは、叶いそうにない。

 ここで俺がそれを言葉にしてしまうと、美緒をその見えない意図としない棘で傷つけてしまうだろう。悲しませてしまうだろう。

 それだけは絶対にしてはいけない。

 そっと、喉元まで出てきた言葉を飲み込む。

「今日は良い天気なのに、賢ちゃんは晴れない顔しているわね」


 そうこう考えているうちに俺は難しい顔をしていたようだ。

「え? そうかな。別に普通の顔だと思うけど? それに天気が良いのはここ最近ずっとだろ?」

 改めて言うことじゃないだろう。

 しかし彼女も言葉を探しているのだと、このときの俺は知る由もなかった。まだ良くも悪くも自分の心の整理で手いっぱいだった。

「ずっとそうよ。私と会ってから笑ったのは一度しかない。幼なじみがこうやって手を引いてあげているのよ? もっと喜びなさいよ。クラスの男子が聞いたら泣いて羨ましがるわよ」

 美緒のクラスの男子を引き合いに出されて、嫌な気持ちになってしまった俺はさらにまゆをひそめて、彼女の言う難しい顔になった。

「またそんな顔をして。だったら、こうしてやるわ」

 彼女はあれだけ強く握っていた手をするりと抜けると、俺の正面に立ち白い指を伸ばして頬を引っ張る。

「いてて! 痛いって美緒!」

 満面の笑みを浮かべながら、無理矢理俺を笑わせようとしていた。やっぱり、強引な女性(ひと)だ。だけどその強引さが俺を惹きつけた。

 だが痛いと言ったのは嘘ではない。彼女は細腕に力をこめて、頬を伸びきるのではないかと思うほどに引っ張っていた。

「ほら、良い顔になった」

 ようやく美緒の手から解放され、一息つくと彼女は手を後ろに組み痛がる俺を見ながら、道の両端に木々が並ぶ公園へと続く道へと逃げた。


 追いかけておいで。とでも言っているように思えた。

 今まで彼女と握っていた掌を名残惜しさから見つめる。

 彼女は舞い落ちる木の葉のようにひらひらと歩く。汗ばむ手を彼女に伸ばすがやはり届かない。こうして離れていくのか。

 諦めがまた足を重くする。

 それと同時に伸ばした手が誰かに引かれる。

「もう、ああいう場合は男が追いかけてくるものよ。やっぱり私が引っ張ってあげないと駄目ね。まぁ、でもそのらしくないところが賢ちゃんの良いところかもね」

 その通りだ。美緒が引っ張ってくれないと俺は何もできない。だから、これからも俺を引いて行ってくれ。と声に出して言ってみたかった。

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