七日目③
日が沈み、完全な夜が俺たちの世界を支配している。
時刻は夜の十一時。
彼女の家出を手伝い、食料などを買って都会とこの町を繋ぐ橋の下でずっと彼女と話していた。その間も彼女の母親になんて言われるか、気が気ではなかった。
彼女がやりたかった事をしてあげたり手伝ったりするのは、俺に出来る唯一のことだ。
それでも、疑問に思う。
家出が彼女のやりたかったことなのだろうか。やり残したことだろうか。どうして家出に至ったのか、その経緯を聞かなければならない。
気持ちの良い夜の風が、月下の淡い光の色を運んでくるかのように俺たちの前を吹き抜けていく。
誰もが寝静まる深い夜と呼べる時間帯にさしかかってきた。ここは田舎だ。この時間帯に車を運転するものだとそうはいない。
実際、橋の上で何かを動いている様子はない。
彼女の両親が探しにくるのかもしれないと思っていたが、どうやらまだらしい。
この歳になって警察にお世話になることだけは避けたいが、彼女を置いて自分だけ帰ると言うわけにもいかない。
とても静かだ。
昼間のうるさい蝉の声も、人の話す声も、動物たちが鳴く声もまったく聞こえない。
ここならば、俺たちの言葉を遮るものもない。
互いの声がよく聞こえる。
だからこそ、彼女に対する質問は慎重に選ばなければならなかった。
誤魔化しなど出来ない。確固たる意志をもって望まなければ、彼女を余計に傷つけるだけの結果となるだろう。
それは絶対に嫌だ。
「静かな夜ね。祭りのあとだから余計にそう感じちゃうのかしら」
彼女は膝を抱え、風になびく草を横目にそう言った。
「俺は好きだよ。こんな静かな夜は珍しいから余計に」
「私も好きよ。……でもこんなに静かだと、なんだかこの町に取り残されちゃったみたいで寂しいかな」
「寂しいのか?」
質問に対して彼女はかぶりを振り、こう言った。
「ううん、訂正するわ。賢ちゃんがいるから寂しくない。私たち二人ぼっちね」
二人きりじゃなくて、二人ぼっちか。
「どうして、二人ぼっちなんだ?」
「一人ぼっちのが二人だから。私たちは明日になれば、お互いに一人ぼっちなるでしょ? だからよ」
そうか、彼女も一人になるのか。
友人も親しい仲もいない地に、家族を除けば一人きりで。
彼女だから、すぐに新しい環境に慣れるのかと言ったらそうじゃないだろう。
時間はかかってしまうはずだ。俺も彼女がいないことに慣れてしまうように。
ここ数時間、彼女と話して気がついたことがある。彼女もまた、まだ別れたくないと遠巻きに言っているのだと。
妙に歩くのが速かったのも、いつもの調子じゃなかったのも、すべて明日の引っ越しが起因している。
迫ってきている時間が、現実味を帯びて彼女に襲いかかったのだ。
「寂しくなるよ、美緒が居なくなると」
ぽつりと呟く。
「私も、賢ちゃんに冗談を言えなくなるのは寂しいわ」
そろそろ、どうして家出に至った経緯をここで訊かなければ。
「美緒、どうして家出なんかを?」
数秒間の沈黙。
尋ねてはいけないことだったのか。だとしても、理由ぐらい話してくれたっていいはずだ。沈黙が痛いほど怖かったが、彼女がようやく口を開く。
「悪い子になってみたかったのよ。一度でいいから、家出をしてお父さんやお母さんを困らせてみたかったの」
「え?」
俺が間の抜けた声を出したものだから、彼女が笑い出す。
「嘘よ、冗談。って言っても半分ぐらい本当なんだけどね。賢ちゃんの困った顔見たさでつい大袈裟に言っちゃった」
なんだ、冗談だったのか。
だが、悪いがそうは聞こえなかったぞ。美緒はああ言ったものの、俺には全部が本当だと思える。彼女の言葉一つ一つに、溢れんばかりの想いが詰まっていた。
偽物なんかじゃない。
「本当はね、引っ越すのが嫌なの。ここから離れたくない、友達と賢ちゃんと別れたくない。そう思って逃げてきちゃったわ」
彼女ははっきりと口にした。別れたくないと。まだここにいたいと。
口にしたことによって、想いはぽろぽろと零れていく。
俺はそれを黙って聞いくことにした。
「やっと賢ちゃんとまた仲良くなれて、ずっとこのままって思ってたのに。それなのにお別れなんて寂しい。もっと話していたかった、もっと笑っていたかった、もっと思い出を作りたかった」
ああ、彼女も同じなんだ。
人生は後悔の連続だと誰かが言った。たしかにその通りなのかもしれない。現に俺は後悔している。もっと素直になれたらと。
ここまで一度も別れたくないと、互いに口にしなかった。
してはいけない気がしていた。
だけど、奥底に沈めた想いはその反動でどこまでもせり上がってくる。
彼女がそうであるように。また俺も。
「俺も、美緒と離れたくない。ずっと一緒にいたかった。明日だって、明後日だって、その次の日だって隣にいてくれるって信じてた」
いつしか互いの想いをぶつけ合うだけになっていた。
静かな夜に俺たちの声はどこまでも飲み込まれていく。俺たちにしか聞こえない、誰にも届かない悲痛なわがまま。
別れたくない。まだ一緒にいたい。
たしかにわがままだろう。早く大人に成れと言われるだろう。だけど、別れを嫌うのはそんなに悪いことだろうか。
想いの丈を思いっ切りぶつけたっていいだろう。
ようやく彼女の本心にだって気がつけた。
なのに、これでお別れなんて嫌だ。
だけど、それは許してくれない。
時間が迫ってくれば、別れは自然と訪れる。それが早いか遅いかの違いだ。
十分に互いの想いをぶつけ切ったところで、俺は深呼吸をする。
もう一人の俺に後悔しない方を選べ。と言われている。言わなかったらきっと一生後悔するだろう、言ってしまうえば元の二人には戻れない。
それでもいいのか。友達のままだと、幼なじみのままだとずっと仲良くしていられる。
今からでもこの想いを封印してしまえばいいだけだ。
いや、何を今さら。
彼女に好きだと伝えると決心したのだろう。だったらもう、自分の気持ちに嘘をつくな。
最後は素直になろう。
「なぁ、美緒。最後にわがままを言ってもいい?」
彼女は優しく微笑む。
「ええ、一つでも二つでも」
「一つだけでいいんだ。聞いてくれるか?」
震える唇。動悸が早くなる。感覚が指先から消えていく。まるで自分の体じゃないみたいだ。でも、言うよ。
瞳を閉じて、自分自身を落ち着かせる。
瞳を開けて、彼女を見つめる。
いつにもなく、真剣な表情で俺はできるだけ、ありったけの想いをありふれた言葉に乗せた。
「俺は昔から、いや今もこれからもずっと、ずっと美緒のことが好きだ」
言ってしまった。
彼女は俺の言わんとしていることにいち早く察してくれていたのか、彼女は声も出さずに笑みを零して聞いてくれた。
「困らせるのは分かってる。でも……美緒が俺と同じ気持ちだと嬉しい」
なんてわがままなんだろうか。気持ちを伝えただけではなく、相手にも自分と同じ気持ちであってほしいと願っている。
恋愛とはわがままそのものだ。
彼女の返答を待っていると、一羽の蝶が横切る。
「ええ、私も同じ気持ちよ。私もね、賢ちゃんのことが……貴方のことが好き」
互いに互いの想いには薄々勘付いていた。
それでもつい先ほどまで確証が持てずに、告白するのかどうかすら悩んでいた。
「あーあ、賢ちゃんも私のことが好きならもうちょっと早く言ってくれれば良かったのに。そうすれば回りくどいことをしなくて済んだのよ?」
思えば全部、俺に告白を促せるためだったのか。
分かりやすく二人きりになったのも、キハラ先輩に告白されたと俺に言ったのも、ああやってやり過ぎなくらい俺をおちょくっていたのも、全部。
「美緒の俺のことが好きなら、言ってくれれば良かったのに」
と笑うながら冗談を言う。
「私だって女の子よ? 告白はするんじゃなくてされたいものなの。まぁでもしてくれたから、最後に私のわがままも叶ったわ」
やっぱり彼女は、相当なロマンチストだ。だったらこんな橋の下ではなくもっとちゃんとした場所で告白をしてみたかったものだ。
そう、互いにもう少しだけ勇気があればこんな苦しい想いはしなくて済んだ。お互いの勇気を持ち合わせて、寄り合わせられたならこんな寂しい想いはしなくて済んだ。
俺も彼女も、怖がりだったのだ。
どうしようもなく、ただ相手の本心を聞くのが怖かっただけなのだ。
後悔するのも、傷つくのも嫌だった。だからこんなにも彼女を待たせてしまった。気がつけば時間は流れて行って、この歳になるまで答えを出せずにいた。
告白をすればきっと彼女を困らせるとばかり思っていた。
でも、そんなことなかった。
彼女は笑顔で俺の告白を受け入れてくれて、嬉しいとまで言ってくれた。何よりも幸福な時間だった。
現実は想像したものより決して悪いわけではない。良いこともあるのだ。
起こりもしない可能性に足を引っ張られるあまりに、進むのが怖くなっていたのだ。
たとえ目の前が真っ暗でも、進んだ後には道が残る。このままでいいんだと言ってくれている。過去の自分が今の自分の背中を押してくれる。
選んだ道は失敗だらけなのかもしれない。だけど、選んだことに後悔はしていない。
失敗も無数の可能性のうちの一つを自分で選び取ったと思えば、幾分か心は楽になる。
運命なんて訳の分からない言葉のせいにしてきてはいけない。
俺は告白するという道を自ら選んだのだ。
その結果がこれだ。
この先、良いことだけではないだろう。落ち込み、泣き崩れる日だってある。また同じように大いに喜び、舞い上がる日だってあるのだろう。
道を選ばずにいたら、道なりに行っていたらそれこそ後悔していただろう。
俺はこの道を選んだことに後悔はしていない。
美緒、待たせて本当にごめん。
「ねぇ、私のどこが好きなの?」
突拍子もなく、彼氏彼女の恋仲の二人がするような甘ったるい質問をするものだから、俺は返答に困った。
「えっと、笑ってる顔とか……かな」
「それだけ?」
それだけって。本当にそう思っているのだから仕方がない。正直、どこか好きなのかと訊かれると全部と言いたいところだ。
だが、決して彼女は納得しないだろう。もっと細かく訊きてくるはずだ。
「笑ってる顔も、俺をおちょくってる悪い顔も、普段の冷静な顔も全部好きだよ!」
「褒めてくれるのは顔だけ?」
ああもう、一を言えば二や三を求めるの人だなまったく。
こうなったら、今まで冗談を言われた分も含めて彼女が嫌になるまで褒めちぎってやる。
「俺の手を引っ張っていってくれるその優しくて柔らかい手も、綺麗で良い匂いがする髪も、すらっと伸びて白い足も、すごく似合ってる藍色の服も全部好きだ!」
坊主が憎ければ袈裟まで憎いとはよく言ったものだが、俺の場合は彼女のことが好きなら、着ている服も好きになる。
と言った感じだ。
我ながら恥ずかしいことをこう続けざまに言うのは、どうかしていると思うがこれだけ誠意をこめて褒めたのだ、彼女だって満足してくれるだろう。
彼女は満足してくれたのか、うんうんと何度も頷く。
それじゃあ今度はこっちが困らせる番だ。
「訊くけど、美緒は俺のどこが好きなの?」
「え、私? ……そうね、賢ちゃんのその優しいところとか、時々だけど男らしいところとか、やっぱり一番は私の冗談で顔を赤くしてくれる可愛いところかしら」
何の間もなく、躊躇いなく即座にそう答えた。
自分のどこが好きなのかという質問も恥ずかしいが、聞く方は何倍も恥ずかしい。
彼女を言い負かしたつもりだったが、無理だったか。
「こんなことを言うのはおかしいかもしれないけど、別に私じゃなくてもいいのよ? シライさんとか良い子じゃない。きっと私の何倍も可愛いわよ」
いや、そうじゃない。
「俺は美緒じゃないとダメなんだ。美緒だから好きになったんだ」
俺は言い切った。
すると彼女は安心したかのようにふふっと笑う。
「こうお互いの気持ちが分かったあとだと、余計に別れが嫌になるものね」
彼女が笑顔のあとに、悲しそうに呟く。
「なら行かなきゃいい。ずっと俺の横でまた冗談を言って困らせてくれればいい。なんなら俺の家に住めばいい」
「だったら、賢ちゃんが私を明日にならない場所まで連れて行ってくれる?」
彼女の一言に俺は言い淀んでしまった。
唇を噛み、俯く。
そんな言い方はずるいよ。行けるはずなんて無いじゃないか、美緒が望む明日が来ない場所になんて。
「こうしている間にも今日と明日の境界線はあやふやになっていくものよ。ほら、見て」
彼女は腕時計を見せる。
針は十一時から十二時に変わっていた。
今日が明日に、明日が今日になっていた。
彼女がいなくなる八日目を迎えた。
「時間って非情よね。止まってくれるわけでもないし、遅くなってくれるわけでもない。ただただ進んでいく。でもね、それも悪くないかなって思えているの。だってこのまま立ち止っていたら、今日よりも楽しいかもしれない明日に行けないし、こうして賢ちゃんの気持ちを知ることすら出来なかったのよ。だからほんのちょっとだけ、感謝しているわ。この別れにもね」
彼女は笑ってみせた。
精一杯の強がりだったのかもしれない。だから俺も泣かずに彼女に負けないように笑った。実は俺も感謝していると言って。
瞳に溜めた雫は、決して零れることは無かった。
たとえ美緒の瞳から零れていたとしてもこれだけの暗がりだから、俺には分からないよ。
視線を逸らして、彼女の手を初めて自分から握る。そっと優しく。
震えている。
彼女も強く握り返してきた。ここにいたいと叫んでいる。俺は離さないようにぎゅっと力を込めた。
彼女の震えが止まる頃には、夜が更けていた。
「そろそろ戻りましょう。最後に最後まで、私のわがままに付き合ってくれてありがとうね、賢ちゃん」
「ううん、俺も楽しかったから気にしていないよ。俺の方こそありがとう、美緒。いつも連れ出してくれて」
俺たちは手を繋ぎながら家への帰路に着いた。
宵闇に映える白い月は、青い光で町を照らす。不思議とその光はまるで祝福をしてくれているようで温かった。
*****
八日目。
俺と美緒は親に心配こそされたが、怒られはしなかった。
すぐに気がついた、母が手を回してくれていたのだと。美緒の母親を説得できるのは俺の母親しかない。
何を言ったのか想像できないが、感謝しなければ。
母は俺の後悔の無い晴れた顔を見て、しわを寄せて笑ってくれた。
俺は疲れ果てて、ベッドに倒れ込むと眠ってしまった。
目が覚めると彼女がもう引っ越したあとだった。
どうして誰も起こしてくれなかったのだと、母に質問した。すると美緒が賢ちゃんは疲れているだろうからこのまま寝かせてあげて。と言ったらしいのだ。
別れの一言ぐらい欲しかったのだが、彼女のことだ何か残しているのだろう。案の定、母から手紙を手渡された。
封を切って確認すると美緒が俺に当てた手紙だった。
『賢ちゃんへ。
まずは、お礼を言わせて。この一週間、私のわがままに最後の最後まで付き合ってくれてありがとう。賢ちゃんのおかげでとっても楽しかったわ。
喫茶店とか楽しかったわね、出来ることならもう一回でいいから行きたかったわ。それと夏祭り。二人でする線香花火も、二人で見る打ち上げ花火も悪くないものね。
賢ちゃんの告白には驚いたわ。でも嬉しかった。また好きだって聞かせてね。
賢ちゃん、次に会うための約束をしましょうか。必ず私に会いに来るって約束して頂戴。
そうすれば、私は貴方がいない明日でも歩んでいけるから。
だからさよならは言わないわ。また会いましょう、賢ちゃん。
早田美緒より』
何度も消して書いた跡が残っている。
本当はもっともっと長く書きたかったのだろう。だけど手紙の内容が渡す寸前まで決まらなかったのだろう。
もう一枚、同封されている紙を確認する。
そこには北海道の住所と電話番号が書かれていた。携帯電話など高価な物を持っていない俺に対する配慮なのか。
住所の上に「冬は厳しいから、来年の夏休みに私のところに遊びに来てね」と書かれていた。
ああ、遊びに行くよ。君とした約束を胸に。
彼女の家から美緒が飛び出すことはもうない。俺を引っ張っていってくれることもない。冗談を言って俺を困らせてくれもしない。
本当にいなくなったんだ。俺の隣から。
彼女と過ごした一週間。そこに俺の青春のすべてが籠められている。
これで彼女の言う、高校生らしい事は出来ただろう。
一週間後には少なくなっていると思っていた蝉の声は、今もけたたましく猛々しく鳴いているよ。
約束する。また会いに行く。
君にまた好きだって言うために。
月曜日なので変わらず学校に行く準備をして、玄関の扉を開ける。
「行ってきます!」
君のいない明日でもこの約束を胸にして、俺は力強く一歩を踏み出した――。
ここまで読んでいただき、ありがとうございました。
この作品を書くまでに色んなことがございました。紆余曲折あれど、完結まで書けて良かったと思います。
ではまた別の作品にてお会いしましょう。