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君がいない明日  作者: 宮城まこと
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七日目②

 目を覚ましたのは、日も完全に昇ってしまっている午前十時だった。

 久し振りにうなされることなく、目覚めは良かった。しかし、眠らないつもりだったのだが横になった途端に寝息を立てて眠ってしまっていた。情けない話だ。

 カーテンを開ける。

 彼女の部屋のカーテンは無くなっていて、部屋が丸見えになっている。美緒の姿はここからは見えない。居間にでもいるのだろうか。

 部屋から物が無くなっていることはここからでも分かる。

 こうやって、ここに美緒が居た証もだんだんと消えてしまっていくのか。そう思った途端、ずきりと心に棘でも刺さったかのような痛みが走る。

 何度も味わった痛みだが、今回はいつもより深く刺さった気がした。

 毎日彼女がいない明日を想像したけれど、それほど痛みは感じなかった。現実となるとまた違った話なのだ。

 心に深く、鋭く、それでいて痛みは鈍く広がっていく。

 胸に手を当てて、深呼吸をする。

 大丈夫、美緒はまだ俺の前からいなくなっていない。なんとか自分自身を落ち着かせて、顔を洗いに一階に降りていく。

 台所で俺のために朝食を作っていてくれている母親に言われた。今日は一段と酷い顔をしていると。

 鏡を見て確認した。


 ぼやけた視界でも分かるほどたしかに、酷い顔だ。

 寝不足と連日のように彼女に連れ出されていたせいで、疲れ果てていた。

 顔を洗い、脳を覚醒させる。

 はっきりとし始めた視界に、辛気臭い顔が一番に映る。誰の顔だと思ったら、自分の顔だった。これでは彼女になんて言われるか。

 頬を両手で軽く叩き、気合を入れる。

 固くなってしまった表情筋をほぐすため、笑う。

 毎度のことながら上手く笑えない。ぎこちなさがどうしても相手に伝わってしまう。美緒の前ではちゃんと笑えていただろうか。

 ここ一週間の記憶を探る。

 ああ、良かった。ちゃんと笑えている。

 ホッとして胸を撫で下ろすと、母親に呼ばれた。

 何かと思って台所に向かってみれば、味噌汁の味をたしかめてほしいとのことだった。

 そこで、俺は母と会話を交わした。

「なぁ母さん、美緒の家の引っ越しの手伝いってしなくていいの?」

 小皿にお玉ですくった味噌汁を入れ、口をつける。

「ああそれね、私も早田さんに聞いたんだけど、全部プロの人がやってくれたんだってさ。あとはもう自分たちで運べる物しか無いから、手伝わなくても大丈夫だって」


 お隣同士で結構仲良くやってきたつもりだったのだが、大人の別れともなるとこうもあっさりしているものなのか。

 最後に挨拶をして、それで終わりだろう。

 別れを嫌がっているのは俺たち子どもだけ。

「味はどうだった?」

 しまった。味の確認をすっかり忘れていた。

 急いでもう一杯、小皿に入れ口に運ぶ。

「味噌がちょっと足りないかな。多分だけど」

「やっぱりか、そんな気がしてたんだよね」

 母は笑いながら、味噌を解く。

 これでお役御免だろう。俺は台所を離れようとするが母に呼び止められた。次は何の用だろうか?

「あんたも、やっぱりこうしておけば良かったって後悔しないようにね」

 きっと、俺と美緒について言っているのだ。

 後悔しない道を選べ。人生の先輩として、俺の母親としてそう言ってくれている。母の忠告を大人しく聞いていた俺は、うん。とだけ頷いた。

 彼女と会う前に足を止め、母に尋ねた。

「母さんは、学生のときに何か後悔してたの?」

 母は口を開け、豪快にはっはっはと笑う。


「そりゃあるよ。学生のときなんて後悔しかしてなかったよ。もっと勉強しておけば良かったとか、あのとき好きだった先輩に告白しておけば良かったとか。さすがに、息子に同じ道を踏ませるのはちょっと忍びなくてね。だから賢太郎は、後悔しない道を選びなさい」

 これは母なりの背中の押し方なのだ。

 俺はまた頷き、自分の部屋へと戻る。

 彼女の引っ越しの作業で忙しいのだろう。落ち着いた頃を見計らって美緒を誘って最後にこの町を散歩でもしよう。

 窓の外を眺めていると、美緒の姿が視界の端に映り込む。

 彼女は窓を開けた。

「ねぇ賢ちゃん!」

 大きな声で俺を呼ぶ。

 そんなに大声で呼んだら、近所の人にも聞こえてしまうだろうに。

 こちらも窓を開け、顔を出す。

「今日の六時に迎えに行くわ。デートだからちゃんとおしゃれして待っててね」

 彼女はそれだけを言い残して、窓をぴしゃりと閉めてしまった。

 俺から誘おうとしたのに。

 男としての大事な何かが傷ついたが、元気な彼女の様子を確認できただけでも良しとしよう。

 本を読む手が止まる。


 彼女はデートと言った。遊びに行くとかではなく、デートと。彼女お得意の冗談で俺を困らせてしまおうという算段なのか。

『本当に五つ目が決まらなかったら、賢ちゃんが付き合ってくれる?』

 あの言葉が頭を過る。

 深く考えるのはよそう。かえって頭の中がパンクしそうだ。

 大体、思春期の男にそんなことを言って意識するなという方が無茶な話だ。どうしたって意識してしまう。それが好きな子の言葉なら尚更。

 タンスからこの前親に買ってもらった服を取り出す。

 都会に行くときとかに着ろと言われたが、そんな機会は訪れず。ここで着るしかないだろう。

 この姿を見て、彼女はなんて言うだろう。驚いてくれるといい。

 驚く姿の彼女は想像しがたかったが、彼女のお洒落な服装を見て固まってしまうのは俺の方だ。見惚れてしまって、上手く言葉も出ないだろう。

 またちゃんと褒めてくれと怒られそうだ。

 そして時間は進んでいき、午後六時。

 夕食時だったが、彼女は約束した通り俺を迎えに来てくれた。

 時間になるのが待ち遠しく、一時間前から玄関の前でうろうろしていたのは彼女には内緒だ。

 玄関の扉を開け、彼女が「お邪魔します」と言いながら入ってくる。

 すでに目の前にいた俺を見て驚いているのか、一瞬だけ動作が止まった。


「びっくりした。結構な間待たせちゃったみたいね」

 彼女を見る。服装はすっかり夏の装いになっていた。

 良く似合っている藍色のワンピース。花の装飾されているサンダル。ピンク色の腕時計をしていて、口紅でも塗ったのだろうか、鮮やかに紅く見える。

 案の定、見惚れていると彼女が俺の目の前で手を振る。

「あっ、いや。全然待ってないよ。ちょうどさっき準備終わったところで」

 見え透いた嘘だ。

「そう。なら丁度良かったわね。それじゃあ早速行きましょう」

 彼女はその嘘を見逃して、にっこりと笑う。

「おばさん! 賢ちゃんを借りていきますね!」

 居間で座っている母に向かってそう言うと母がどうぞーと気の抜けた返事をする。

 俺は物か何かか。

 家を出て、どこに行くのかを訊く前に服を褒めたほうが良いのだろうか。

 同じ轍は二度は踏まんぞ。彼女は褒めてくれと言わんばかりに立っているのだから。

「その服、似合っているよ」

 俺がいの一番に服装を褒めて、よほど嬉しかったのか喜びを噛み締めるように彼女は微笑む。

「ありがとう。賢ちゃんもその服、とっても似合っているわよ」

 まさか彼女から褒め返されるとは思っていなかったので、リンゴのよう真っ赤な顔をして顔を逸らす。


 不意打ちは卑怯だろう。

 そんな顔をして、そんなことを言われたら誰だってこうなるに決まっている。

 こんなにも嬉しいのは、彼女に褒められたからだ。

 気恥ずかしさでまともに顔を見れない俺を、彼女は冗談の一つでも言ってからかうことなく、話を進める。

「今日は、最後にこの町を適当に歩いてみようと思うの。その散歩に付き合ってくれる?」

 彼女がいきなり普段通りに話すものだから、俺もその調子に合わせなければ。

 咳払いをして。

「もちろん、付き合うよ」

 と言った。

 彼女は安堵した顔でくるりと前を向き、歩き始める。俺はその後を追って歩く。

 今日は手を握ってくれないのだろうか。期待しているわけではないが、彼女がここ最近そうしていただけあって、手が寂しい。

 自分の手を握っては開きを繰り返して、その寂しさを消そうとした。

 その間も彼女は静かだった。

 おしゃべりが好きな彼女がここまで黙っているなんて。何かあったのだろうか。

 さっきだって俺のことを褒めてみたり、冗談を言わなかったり。色々と彼女らしくない。本来ならもっと褒めてくれと言われる覚悟をしていたのに。


 歩くペースも俺より早いのか、まったく歩幅が合わない。

 彼女が先行している。

 そこはかとなく急いでいるようにも見える。彼女が言うには、この町を適当に歩くはずだ。何もそこまで急がなくても。

 彼女と並ぶために駆け寄る。

 何かから逃げているようにも、離れているようにも思える。その何かを訊くわけにもいかず、俺はただ彼女の横を並んで歩いていた。

 ただどうしても、彼女のその悲しい顔の理由を知りたかった。

 俺がその理由を意を決して訊こうとすると、彼女が先に言葉を発した。

「ここの道も、ずっと二人で歩いていたわよね」

 質問をしたかったのだが、出鼻を挫かれてはそう簡単にいかない。

 またの機会にしよう。

「そうだね。小さい頃からずっとここを歩いて、学校に向かってたね」

 幼稚園の頃から、ずっとこの道を歩き続けていた。

 雨が降った日だって、晴れていた日だって、曇りの日だって、ずっと。

「ほら、あそこ覚えている? あの木によじ登って賢ちゃん怒られたでしょ?」

 空地の木を指差す。

 覚えている。彼女のかぶっていた帽子が風に飛ばされて、木の枝に引っかかってしまっていたのだ。


 それを取ろうとして、木によじ登ったのだ。当時、木から落ちて怪我をした子どもがいたせいで木登りが禁止されていた。

 もちろん、怒られるのを覚悟していた。

 そこを運悪く担任の先生に見つかり、こっぴどく叱られた。

 怒られている俺を美緒は庇ってくれた。帽子が飛んで行って枝に引っかかってしまったから、それを取りに行っただけだと。

 必死に俺の無実を証明してくれた。

 状況を理解した先生は、俺たちを許してくれた。

「ああ、そう言えば美緒の帽子が木に引っかかったんだよな。あのときは俺を庇ってくれたこと、嬉しかったよ」

「だって賢ちゃんは悪いことをしていないんだから、怒られるのは違うでしょ?」

 思い出話をしているときも彼女が一切立ち止まらなかった。

 俺からすればもう少し、ゆっくりと思い出を振り返っていたかったのだが。彼女には彼女なりの事情があるはずだ。

 その事情が何なのか気になるところだが。

 次に彼女が指差したのは、近くを流れている川だった。

「あそこでちょうどこの時期に水遊びをしたわよね。賢ちゃんったら、足を滑らせてびしょ濡れで帰ってたわよね」

 彼女はそのときの俺の姿を思い出したのか、クスクスと笑い始めた。


 そんなに笑わなくなっていいだろう。

 でも、良かった。彼女が笑ってくれて。

「そのあとに、私の家でスイカを食べたり、ソーメンを食べたりしたわね。そうだ、一緒にお風呂にも入ったりしてたわよね。あーあ、失敗しちゃったな。やりたい事に賢ちゃんと一緒にお風呂に入るってのも入れておけば良かったわ」

 俺は彼女が突拍子もないことをいうものだから、思わず噴き出した。

 柄にもなく笑い出してしまうのは申し訳ない。

 だが、そのあまりにも現実味がない内容に笑わずにはいられない。この歳になってさすがに男女で一緒にお風呂とは、親でも止めるだろう。

「ハハッ、さすがにお風呂に入るのは無理だろ、この歳にもなって。親だっているし、止められるよ」

 彼女は足を止めて、こちらを向く。

「別に家じゃなくなって良いんだよ。このままどっか適当にホテルとかに泊まれば……ね」

 冗談を言っているようには、どうしても思えなかった。

 でもその言葉を真に受けるほど、俺も子どもではない。それくらいのことは受け流せるようにはなっているはずだ。

「それだと、美緒のお母さんとお父さんを困らせちゃうよ。だからダメだ」

 彼女は柔らかく、それでいて残念そうに俯きながら力なく笑う。

 元の調子に戻ってみたり、急に落ち込んでしまったり。どうしたと言うのだ。


 これだといつも以上にこちらの調子が崩れる。

「そうだよね。二人が困っちゃうわよね。賢ちゃんはいつも優しいから、きっと私のことも気遣ってくれているんだよね」

 その通りだ。

 もし、ホテルになんぞ連れ出したら彼女の両親だって俺に対して激怒するだろうし、彼女もそれ相応に怒られるだろう。

 彼女の母親は厳しい人だ。そんなことをしたら一生かかっても許してくれないだろう。

 そうなると美緒に会えなくなる。それだけは嫌だ。

「賢ちゃん」

 彼女が消え入りそうなか細い声で呼ぶ。

「どうした、美緒?」

「お詫びの印のアレってまだ有効?」

 アレ? と一瞬考えた。

 そうだ、掃除当番で遅れると伝えなかったあの日だ。

 私の言うことを一つだけ聞いて頂戴。と言ったアレか。

 俺も彼女に言われるまで、そのことに関しては失念してしまっていた。たしかに有効かどうかと言われたら、まだ使っていないので有効だろう。

 幸い、期限は決めていない。


「ああ、有効だよ。それで何を聞けばいいの?」

 暗がりの空。夜の足音が近づいてきている。

「やりたい事の五つ目が決まったの。それを一緒にして欲しいのよ」

 彼女の目は空の彼方を見つめていた。ここではない、どこか遠くへと連れて行ってほしいとその瞳は物語っていた。

「私と一緒に、家出してくれない?」

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