六日目③
「どこまで行くんだよ?」
完全に祭りの会場から離れて、帰り際に買ったかき氷を彼女の分まで持ちながら、迷いなく歩く彼女の背中を追いかけていた。
彼女はどこに向かっているんだろう。
答えてくれることなく、ただついて来てほしいとしか言っていなかった。
腕時計を携帯しない俺でも、もうすぐで花火が打ち上がってしまう頃合いだと察していた。
人肌で融けたかき氷を落とさないように、地面から出ている木の根に足をとられないように歩くので精一杯だった。
静かで花火の見える良いところか。
たしかに人混みから離れてしまえば、周りの声の淀みが入ることなく花火の音だけを純粋に楽しめる。
ただ、二日連続で山の中に入ってしまいかなり足も疲れている。早く彼女の言った良い場所に着いてくれるといいのだが。
ふと、追っていたはずの彼女の姿は消えていた。
またか。
一度立ち止って、きょろきょろと辺りを見渡す。
夜の黒で化粧をしてしまった木々は、どうやら俺を迷わせるつもりでいるらしい。勘弁願いたいものだが、美緒を見失った今むやみやたらに引き返すわけにもいかない。
この歳で迷子は困りものだな。
月明かりが木々の間から漏れている。つられるように見上げた。
これで満月だったら最高だったのに。残念だが今宵の月は欠けていた。でも、悪くない。三日月だって好きだ。
月に見惚れていると、目の前に彼女が現れた。
「後ろを振り返ったらいなかったらびっくりしちゃったわよ。やっぱり手を繋いでなきゃダメね」
「俺もそうしたかったけど、どうもこれがね」
手に持ったかき氷を彼女の見せ、肩をすくめる。
「ごめんなさい、花火が始まるからって急ぎ過ぎたわ。この先にとっておきの場所があるの。賢ちゃん、あともうひと頑張りね」
「ああ、美緒を見失わないように気をつけるよ」
彼女と並んで歩き出す。
木々を抜け出した先に、どこかへと続く階段があった。
階段を上ると、社も腐りかけている寂れた神社が俺たちを向かい入れてくれた。誰もいない、透き通った静寂だけがこの場所を包み込んでいる。
この山にこんな場所があっただなんて。俺の知らない所がまだまだ沢山あるな。
狛犬の代わりに狐の像が置かれており、朱色の鳥居を一応頭を下げて通らせてもらう。
放置されて何年経つのだろうか。予想もできない。
「静かで良い場所でしょ? この場所を先生に聞いて午前中ずっと探してたの。ここでも昔、お祭りが行われていたんだって。さっ、あそこに座らせてもらおうよ」
彼女がどうして夕方に誘ったのか、これで合点がいった。
静かな場所で花火を見たいと言ったことを覚えてくれていたのか。あとでちゃんとお礼を言わないといけないな。
彼女と一緒に拝殿に昇るための石でつくられた階段に腰を下ろす。ここからだと海を綺麗に見渡せる。
神に背中とお尻を向けるのは、どうも罪悪感を覚えてしまう。神様もきっと祭りのときぐらい、多少の無礼も許してくれるはずだ。
神様ならそれくらいの心の広さがあって当然だろう。
「はい、美緒の分のかき氷。ちょっと融けてるけど」
彼女に融けたかき氷を手渡す。
「ありがとう、賢ちゃん。あっ、本当だ。賢ちゃんの手の温もりが残っている」
「嫌だった?」
ううん。と首を横に振り、打ち上がる予定の空を見上げる。
「賢ちゃん手って温かいから、妙に安心できるの。手を繋いだときだってそうよ。なんだか守られているみたいで嬉しかった」
――でも。と彼女は続ける。
「手が温かい人って心が冷たいって有名じゃない?」
褒めるのか貶すのかどっちかにしてほしいものだ。
それに俺はこれでも心が温かいという自負もある。そうでなかったら、誰が彼女のわがままを聞くものか。
これが俺の心が温かいという証拠だ。
「十分心も温かいと思うけどな」
彼女の言葉に納得がいかず、すかさず言い返した。
「そうかしら? 私との約束を色々すっぽかしてたのは誰だっけ? これでも温かいって言える?」
うっ、昔のことを引き出すのは卑怯だ。
顧みると到底心の温かいと自称する男のしている行為ではない。約束をすっぱかしたり、彼女と距離を取ったり。
これから先誰かに同じことを言われたら、そうです。と肯定するしかない。
何も言えず、黙り込んでいると彼女はふふっと吹き出したかのように笑う。
「ふふふ、嘘だよ。賢ちゃんは手も心も温かいわ。ほどよくね。決して熱過ぎず、冷たすぎず。私にとってぬるいくらいがちょうどいいのかもね」
彼女はかき氷を口に運ぶ。
夜空に色とりどりの大輪の花が咲いたのはそのすぐ後だった。
「始まったわね!」
嬉しそうに花火を見つめる美緒。
空気が震えるほど爆音が轟き、青い花を花畑のように大量に咲かす。
一瞬にして姿を消す花たちは人々を釘付けにすることだろう。
花火師はきっと花屋でもある。これほど立派な花を咲かせることができるのだ。そうに違いない。
お次は、黄色い向日葵によく似た牡丹花火が打ち上がる。
花が開くとその一瞬後に違う色の花が咲く。あちらでは赤、こちらでは紫。向こうではなんと虹色。
目が肥えた客も楽しませるように出来ている。これだと子どもたち大喜びだろう。まぁ、例外は存在するが。
そして、柳のような花火が夜空を彩る。
先ほどの派手さと打って変わって、静かで儚い。花火は大抵儚いものだが、これは一層際立っている。この花火は遠くにいると見えにくい。
近くで見れて良かった。
ここで花火師の一工夫が光る。型物と呼ばれる形を持った花火だ。お面屋にもあった人気のキャラクターの形だったり、ハートの形をしていたり。
あと、よく分からないものも上がっていた。
いびつな形で、魚なのかそれ以外の何かなのか。見当もつかない。
「今のって魚?」
彼女は首を傾げながら、俺に聞いてくる。
「違うじゃない? なにか分からないけど。多分魚じゃないと思う」
次々と花火が上がっていく。
不意に彼女も付き合わなくたって良かったのにと思ってしまった。きっと友達と店でも回りながら話しながら花火を見上げていたかったのだろう。
決めつけかも知れないが、こんな場所にまで連れてきてもらって本当に申し訳ないのだが彼女がいつも見ているように見せてあげたかった。
俺に気を遣わなくてもいいのに。
芯入りの大きな花火が打ち上がる。
色鮮やかななのはもちろん、花火の先の先までしっかりと夜空に残光を刻み込んでいる。これは人の目に焼き付くだろう。
忘れられないものになるはずだ。
俺にとっても彼女にとっても、誰にとっても。
椰子が打ち上がり、青蜂もきらきらと星に負けじと煌めく。
かれこれ一時間半ぐらい花火を見ている。飽きさせないように作っている花火師には本当に頭が上がらない。
今年もこれで見納めか。
最後に俺の一番好きな花火が待っている。
終わりを告げる錦冠が上がる。
やっぱり綺麗だ。これだけは苦手だった昔でも大丈夫だった。
花火から目を離し、彼女の横顔を見つめる。
ここから見える海と水面と空に映る花火をその瞳に映す。まるで心まで奪われてしまったかのようだった。
話しかけるのも無粋だろう。だから話しかけることはせず、楽な姿勢をしたまま頬を撫でる風に身を寄せていた。
明日が彼女がこの町にいる最後の日。
まだ思っている。明日が来なければいいと。
この楽しい時間が永遠に続きますようにと、繰り返しますようにと、わがままを叫び続けている。
ずっとずっと、二人の時間を大切にしていきたい。無理だと分かっている、頭の中では。それでも心はどうしても言うことを聞いてくれない。
どこかにいた別れを拒む幼い自分が、最後の抵抗を続けているのだ。
無駄な事だと誰かが馬鹿にするだろう。でも、自分を理解できるのは自分だけだ。
気が済むまで、あがきたいのならそうしてればいい。
無駄な事だと笑わない、むしろよくやったと褒めてあげよう。止まらない世界の中で唯一俺だけは、抵抗してやったのだ。
これ以上に誇らしいことはない。
何もかも流れるまま、留まることなど滞ることなど出来ない。
かくいう俺ですら、抵抗は出来ても逆らえはしない。
徐々に徐々に見えない力に押し流されてしまうのだ。
人は身を委ねることしか出来ない、ちっぽけな存在。俺も彼女も誰も彼もがその一人なのだ。だからこそこの一瞬一瞬を一生懸命に、大事にできる。
俺はようやく、自分の与えられた時間の大切さに気がつけた。
全部、君のおかげだ。
楽しかった花火は終わり、名残惜しいがそろそろ帰ろうと俺が立ち上がると美緒が呼び止める。
「まだ物足りないんじゃない?」
彼女はつくづく俺の心を読んでくれる。これだと隠し事の一つも出来ないな。
「まぁね。もうちょっと楽しみたかったかも」
「そう言うと思って。これを用意していたんだ」
使われなくなった社の中から小さなバケツと線香花火、そしてライターを持ってきた。
「実はね、これをやりたくてここまで来てもらったの。本当は大きいの買いたかったけど、ここまで運んでくるのが大変だし荷物にもなるから。ごめんね、線香花火なんかで」
彼女は申し訳なそうに笑うと、俺は何度も首を横に振る。
「線香花火は好きだから大歓迎だよ」
「うん、知ってた」
俺たちは線香花火を手に取り、火をつける。
二人きりの花火大会が始まった。
線香花火には物語があるらしい。
点火して、短い花火が重なるのが牡丹。一番激しく燃え上がり、明るいのが松葉。火花がしなだれるように風に身を任して弧を描くのが柳。そして一番最後が、ちり菊。
これは父親に教えてもらったのだ。
人の一生みたいですごいだろう。と父はしたり顔で言っていた記憶がある。
たしかに、人が生まれて死ぬまでを描いているように思える。
だとすれば俺の人生は線香花火に例えると、牡丹か松葉かな。それかその変わる間か。
一本、また一本と消費していく。
彼女は途中で落としてしまい、頬を膨らませて次の線香花火を手に取る。
俺のように最後までいかないのが嫌らしい。
「もうちょっと落ち着いて。ほらゆっくりやれば上手にいくって」
「こうかしら?」
彼女は慎重に火をつけ、垂らす。
線香花火は静かに煌めき始めた。
「ごめんな、美緒」
俺が唐突に謝るものだが、彼女は目を丸くして驚いた。そのせいでせっかく綺麗に咲いていた花も散ってしまった。
彼女は気にすることなく、こう言った。
「どうして謝るの? 何か悪いことでもした?」
「いや、そういうわけじゃないけど。俺のためにこんなところまで探して、花火まで用意してもらって。なんだか申し訳ないなって。美緒だって、みんなと同じところで見たかっただろ?」
彼女はくすくすと笑う。
「そんなこと? 気にしなくていいわよ。私がしたくてしているんだから。賢ちゃんは私のわがままに付き合ってくれた、それだけよ。それにこうやって静かな場所でみんなとじゃなく、誰かと見る花火も悪くないかなって思ってるわ。わがままに付き合ってくれてありがとうね」
彼女が気にしなくていいというなら俺からは、もう何も言うことは無い。
まだまだ残っている線香花火。
楽しそうにしている彼女を見れるだけで満足だ。
俺も線香花火を手に取り、先ほど落としてしまったお詫びとして花火を長持ちさせるコツを手本を見せながら教えた。
俺は大切な美緒の時間をもう少しだけ、独占していたかった。