五日目①
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私――早田美緒はこれまで、賢ちゃんと一緒に思い出を振り返ってきた。
なんてことのないただの日常。ずっとこの当たり前が続くと思っていた。だけど、神様はそれを許してくれないらしい。
父の仕事の都合で引っ越しが決まったときは心底驚いた。
言葉を失って、どうしていいのか分からなかった。まだまだこの先の予定はいっぱいあった。
友達と隣町まで行って、ショッピングを楽しんだあとは仲良く映画を見て帰る予定も、家に引きこもりがちな賢ちゃんを連れてデートに誘う予定も、楽しみにしてたサッカー部の合宿も、すべての予定が台無しになった。
二ヶ月という残された時間は私にとっては、あまりにも短すぎた。
ふと、私自身何をしたいのだろうと考えた。
勉強とか部活? それとも恋? このどれかが最初に出て来るのだろうと予想していたけど、全部違った。
私の頭に真っ先に浮かんだのは――そう、賢ちゃんのことだった。
中学生になってから彼との距離を感じ始めて、高校生になってからはもっと離れた。
部活が忙しいのを理由に使えば、仕方がないって言ってくれるのかもしれない。だけどそれ以上に彼に避けられているような気がした。
顔を合わせておはようと、とびっきりの笑顔を向けてあいさつしても彼は、にこりとも笑ってくれない。素っ気なく無愛想なまま小さな声であいさつだけは返してくれた。
もちろん、最初は不満だらけだった。
どうして私を避けるのとか、どうして笑ってくれないのとか。そりゃここに収まりきらないほどたくさんね。
筆舌に尽くししがたい悲しみを見せまいとして、余計に元気に振る舞った。
だけど、私が無理にでも元気に振る舞って賢ちゃんと会うと彼の顔は引き攣っていたわ。
嫌われていると思った。その日の帰りは暗い帰り道を久し振りに一人で俯きながら帰った。道中、泣いてはいけないと言い聞かせていたけれど、家に帰って布団に入ると堪えきれなかった。
じわじわと体の底から悲しみが昇ってきて、涙となって外に出る。
うずくまって、ベッドの上で夜が明けるまで泣いていた。
声を押し殺して泣いていたはずなんだけど、どうしてか母にはばれてしまった。
理由を聞かれて、私は素直に賢ちゃんに嫌われたかもしれないと相談した。
私と母の仲はとても良く、よその家庭の反抗期と呼べるものが来たことがない。相談したことも一度や二度じゃない。
そして、賢ちゃんのことについて相談したのは一年の春先。まだ夜霧が冷たくつんと肌を刺すような冬の名残があったあの夜が初めてだった。
母はまず初めに私を子どものように抱きしめてくれた。私が泣き止むまでずっと。
母からすれば私はずっと子どもなのでしょうけど、けれども私だってそれなりに大人になってきたつもりだった。
やっぱり、親には敵わないわね。
冷静さを取り戻し、何があったのか話すと母は黙って聞いてくれた。
そして母はアドバイスをくれた。
美緒はまだ賢太郎くんのことを子どもに見過ぎなのよ。と。
最初はどういう意味か分からなかった。でも、考えてみると答えは簡単だった。私が子どもの扱いを受けるのを嫌がるように彼もまた嫌なのだと。
私の中の彼はまだ小さな子どもで、いつも私の後ろをついてきたあの頃のまま。
お互いに関わる時間が減った結果、互いが大人になっているのを知らずに、そのまま月日が流れてしまった。
彼の小さい頃はそれなりに男らしかったはずなのに。私は昔からやんちゃで、男の子も女の子も関係なく遊んでいた。
そんな昔のある日のことだった。
あれは、夏の色香も終わり本格的に秋になっていた季節の間の出来事。
私は賢ちゃんを連れて両親には内緒で山に入った。
自分でも馬鹿なことをしたと思う。その山で私たちは迷子になってしまったの。腕や足に擦り傷もつけ、日も沈んでしまって、このままずっと山の中をさまよい続けてしまうのかもしれないと恐ろしくなっていた私を、彼はそっと手を握って勇気づけてくれた。
その手の感触は今も覚えている。太陽より暖かくて、親の抱擁よりも優しかった。
ろくに舗装もされていない山道で足を挫いてしまった私を彼は背負って下山した。
地元のみんなと警察が協力していたらしく、山中で大人と出会い無事に山を降りられた。帰ったら両親に泣くほど心配していた。
初めて私は母に頬をぶたれた。
痛かったけどその痛みがかえって私を安心させた。
賢ちゃんは小さかった頃はそれなりに友好的で、格好良かったのに。
そんなこともあったせいか、私は賢ちゃんと昔のように接していた。自分が好きな姿を無意識のうちに押し付けていたのかもしれない。
私は昔と今の彼は限りなく本人に近い別人としてとらえた。
誰だって根は同じけど、それから先は変わっていくものなのね。
態度を改めるために、私は賢ちゃんとの距離を置いた。
遠くから彼を見ると、本当に昔の面影はどこえやら。
本に耽り、私を見てもちっともあいさつしてくれやしない。でも時々だけど偶然を装って彼と帰るとちゃんと話してくれた。
目は見てくれなかったけど、はにかんでくれたりもしてくれた。それが嬉しくて、そんな日には鼻歌交じりでお風呂に入った。
私が賢ちゃんと関わる数少ない時間。とても大切にしてた。
正直な気持ち、もっともっと話していたかった。
カーテンを開き窓の外を覗くと見える彼の部屋。昔みたいにこの窓を開けてお話でもしない? と提案しても彼はきっと苦い顔をするでしょう。
だから言わないでおいた。
今だとちょっとだけそれを後悔している。
こういう暑い日には、窓を開けてアイスでも片手にお話すればきっと楽しいわよ賢ちゃん。
私は朝日が零れるカーテンを開け、そう心の中で呟く。
もう、五日目なのね。
引っ越しが決まり、私は彼との最後の思い出を作ろうとした。もっとらしい理由作りが必要でそれがこの「やりたい事リスト」なの。
最後の一週間は彼と共有していられる残り少ない時間。とにかく一緒にいられる時間を増やしたかった。
今まで言わなかったわがままを、言うことを決めた。
最初はまた嫌な顔をされると思っていた。だけど彼は変わらず優しかった。
私のわがままに付き合ってくれた。悪いことしちゃっているなという自覚はあるものの、二人の時間が巻き戻っているような気がして嬉しかった。
巻き戻るだけじゃダメだと、前に進めと脳裏で囁く本当に悪い私がいる。
これ以上、彼に迷惑をかけるわけにはいかない。
やりたい事を消費していくと、終わってしまう悲しみがある。
多分、その悲しみから逃れようとしているのよ。そのためには前に進む必要がある。私ってこんなに脆い人間なのね。
朝の着替えを済ませて、母に呼ばれて一階に降りていく。
徐々に家から持ち出されている家具。この慣れ親しんだ家ともさよならをしなければならない。誤ってクレヨンで絵をかいてしまった壁も恐らく張り替えるのでしょう。
柱には私と賢ちゃんの成長記録が書いてある。どれだけ背が伸びたかの記録。十歳までは私が勝っていたのね。
今じゃもう、すっかり背は追い抜かれて。
頭の良さではまだ私が勝っているけど、追い抜かれるのも時間の問題でしょうね。でも向こうに行ったらもう競うこともできないのか。
北海道に行ったらどうしようかな。賢ちゃんに手紙でも書いて、近況報告をしようかしら。それとも夏休みとかは連絡なしに行って、驚かせてやろうかしら。
どれも良いけど、一番はずっと一緒にいること。
でもそれは叶わない。別れは決まっているのだから。
離れたくなんかない。でも、それは無理。お父さんは私のことを想って単身赴任も考えてくれたけど、もしかすると長くなるかもしれないから、結局は家族で引っ越してしまうことになった。
最後の一瞬まで時間の使い方を間違ってはいけない。私には間違っても修正する時間すら勿体ないのよ。
五つ目のやりたい事も次第に形を帯びてきた。
今日は裏山に埋めたタイムカプセルを掘り起こしに行く。賢ちゃんは覚えてくれているかしら。
いえ、覚えてくれていなくても良いわ。本当に大事なのは貴方が私と一緒にそこに行ってくれるということなのだから。
私自身、そのタイムカプセルを使って何を埋めたのか覚えていない。
だけど嘘偽りのない真っ直ぐな言葉が私たちを待っていることは分かる。
さぁ、五日目が始まる。今日も目一杯楽しむわよ。