表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
君がいない明日  作者: 宮城まこと
1/18

一日目①

楽しんで読んでください

 (けん)ちゃん。

 幼なじみの早田美緒(はやたみお)は、俺のことをそう呼ぶ。

 この呼び方はあまり好きではなかった。理由は単純だ。俺が大人になったから。彼女が俺をそう呼ぶと、決まって体がむずがゆくなってしまう。

 もちろん、恥ずかしさもあったが一番の理由は彼女との距離が気になり始めたからだ。

 目には見えない、いわゆる心の距離というものが気になり始めたのはいつのことだっただろうか。

 忘れるはずもない、あの中学校の最後の夏。特に夏の日差しが強く、まったく風が無かったあの日のことだ。

 夏服が似合う彼女の首筋を流れる一筋の汗。柔らかい白い肌に触れられ、そっと笑いかけてくれた。

 そこからだ。彼女を一人の女性と認識したのは。

 いつも近くにいてくれて、ときに俺をおちょくり、ときに俺を助けてくれた彼女はもはや家族のようなものだった。

 戸惑いはあった。そういう目で見てしまう自分がおかしいのかと思ったこともあった。

 彼女を見るたびに元気が出て、今日も頑張ろうと思える。彼女に声をかけられるたびに笑顔になる。彼女が振り向くたびに胸が高鳴った。

 彼女が他の男性と話しているところを見ると、なぜだが胸が苦しくなって物事がうまく行かなくなる。


 すぐに気がついた。彼女に恋をしているのだと。

 恋は人を勇気づけると言う。だが、俺はその逆だ。俺はこの恋によって臆病になってしまった。

 元から勇気を出して何かをするのは得意じゃない。臆病なのは最初からだ。

 告白をしようと考えたこともあった。だけど、この性格もあって出来なかった。

 急激に大人びていく彼女に、心の距離が離れていくのを感じながら、この身勝手極まりない想いを胸の奥底に封じ込めた。

 高校に入り、彼女はサッカー部のマネジャーをやり始めた。

 二人でいる時間がめっきり減ってしまった。

 彼女と男子が仲良く話しているところを見るのは、あまり気持ちの良いものではなかった。

 二年生になってからは、彼女が男子と話しているところを極力見ないように努めた。

 人間とは慣れる生き物だ。繰り返せばその行為も当たり前になってしまうのだから。

 中学のときよりも引っ込み思案になってしまった俺は、小さい頃から好きだった読書に精を出した。

 小説の世界は良い。何も言わずに夢の旅に連れ出してくれるのだ。

 今日の昼休みも窓際に座っていることをいいことに、小説のページを軽快にめくる。

 夏の日差しは毎年暑かった。ろくに風が吹かない日は最悪だった。汗を拭くが服は濡れ、体を動かすのもひいては息をするのも怠かった。


 背の高い雲は次第に積乱雲となって、夕暮れには見事に真っ赤に染まる。

 蝉はいつも元気に鳴いており、ときには読書すらままらないが、静かな夜には読書がはかどる。

 燦々と照らす太陽の日差しは、木々の間をすり抜けて俺を照らす。

 木の葉は風に揺らぎ、鳥は悠々と空高く飛ぶ。

「賢ちゃん、賢ちゃん」

 聞き慣れた声が俺を呼ぶ。

 少し伸びた前髪の間から、机の前に立っている美緒を見上げる。

 肩までしかない黒い髪。するりと伸びた手足、背の高さはそこそこでおそらく一六〇センチはあるだろう。

 色っぽい唇と、男を魅了する小悪魔的な瞳。

「美緒、どうかした?」

 俺はそう尋ねると、いつもより紅い唇をとがらせて彼女は怒ったような顔をして腰に手を当てる。

「もう、今日のお昼は一緒に食べようって約束したでしょ?」

 そうだった。憂鬱な月曜日の朝に彼女は一方的に一緒にお昼を食べようと告げたのだ。

 暑さのせいもあってか、どうも頭が働かない。

「そうだった。ごめん」

 俺は母が作ってくれた弁当を鞄の中から取り出して、小説を机の中にしまう。

 そして机の上を気持ち程度に綺麗にする。


「女の子の約束を忘れるなんて。あまり感心しないわよ」

 約束したつもりはない。なんて口が裂けても言えない。口喧嘩なら彼女のほうがずっと強い。だから俺は、笑いながらごめんと謝った。

 まぁいいわ。と俺の暑さにやられた間抜けな顔を見て彼女は前の席に座る。

 彩り豊かな弁当を広げて、「すごいでしょ?」と自慢げに語る。

 彼女は俺のために弁当を作ってこようかと、昨日そう言ったのだ。

 恥ずかしさから拒否したが、この弁当の完成度を見ると断ったことが惜しくなる。

 これで自分で作っているのだから驚きだ。

 彼女と俺は最近になって、よく話すようになった。

 昨日の出来事がその理由だ。


 

 俺の休日の過ごし方と言えば、家に籠り小説を読むしかなかった。

 充実していた休日に美緒は話したいことがあると、家に訪ねてきた。

 茶の間で彼女に茶を出して、俺は話を聞くために胡坐をかいて座る。

「話したい事って?」

 どうせ大したことないことだろうと決めつけてきた俺は、あまり身構えずに彼女の話を聞くことにしたのだ。

 だが、彼女の顔はいつもより真面目な顔をしてこちらを見つめていた。

 その真っ直ぐな瞳から送られる視線。視線がぶつかることを恐れた俺は、美緒から目を逸らした。直視できなかった。

 ああいう顔をされると、どう反応していいのか分からない。

 自分を落ち着かせるために冷たいお茶を飲む。

「あのね……」

 微妙な雰囲気を払うように彼女は口を開く。

「私、一週間後に引っ越すことになったの」

 衝撃的だった。言葉を失った。

 数秒後の沈黙の後、どうして。と絞り出した一言で聞き返した。

「お父さんの都合で、北海道に行くことになったの」

 いきなりすぎる。告げられた唐突な別れを受け入れられず、夢を見ているのかと錯覚していた。


 だが、夢でも彼女が俺をおちょくるための冗談でもない。すべて本当で現実なのだ。

 彼女は本当に北海道に行ってしまうのだ。

 ずっと隣にいてくれた。俺の日常にはいつも彼女がいた。一週間後にそのすべてが失われると思うと息もできなかった。

 いやだ、離れたくない。

 胸の奥底に眠っていた想いがこみ上げてくる。

 彼女を失う喪失感、焦燥感。この二つがあのときの俺を縛り上げてきたことだろう。

 そこからの彼女の言葉は鮮明に克明に覚えている。

「だから、やりたい事リストを作ることにしたの。一つだけ、もう決めてあることがあるのよ。賢ちゃんともう一回、仲良くなりたいって。だって、賢ちゃん高校に入ってからなんだかよそよそしいでしょ? 昔みたいにもっと話したいわ。……だから最後の一週間、仲良くしてね」

 その後に昼食の約束をしたことまでは、まだ記憶にあった。

 気がつけば外はすっかり夜になっており、俺はむせ返るほどの後悔に苦しめられていた。

 こんなことが分かっていたら、もっと話していた。もっと仲良くできた。もっと笑い合えた。

 好きだって言えたかもしれない。どうしてこんないきなり。北海道は簡単に会いに行ける場所じゃない。どうすればいい。

 結局答えが出ないまま、今日を迎えてしまった。

 突如として胸に出来た大きな穴。きっとこれからも広がっていくだろう。この穴の大きさが、彼女を存在の大きさを物語っていた。


「ちょっと、聞いてる?」

 目の前にいる彼女がそう言った。

 彼女に呼ばれて、ようやく記憶を遡っていた意識が元に戻る。

「ごめん、聞いてなかった」

「どうして賢ちゃんは、いっつも私の話をちゃんと聞いてないのよ。先だって上の空だったし。あっ、分かった。どうせ好きな女の子のこと考えていたんでしょ?」

 彼女はクスクスと笑って、だったらしょうがないわね。と続けた。

 強く否定できるわけもなかった。あながち間違いではない。女性の勘というのは、これだから恐ろしいのだ。

 冗談でも言ってやろうかと思ったが、やっぱり止めた。それは暑さのせいでもあったし、彼女のように上手く言える自信が無かったからだ。

「好きな女の子なんて、いないよ」

 うそだけは他人より、上手く言える自信はある。

 本人を目の前にして、君が好きだ。と言ったとしても、彼女はどれだけ真剣に受け取ってくれるだろうか?

「賢ちゃんって、ちゃんと高校生らしい事してる?」

 美緒は不意に尋ねる。

「高校生らしい事って?」


「部活とか、そうね強いて言えば恋愛とかね」

 恋愛という言葉に胸がどくんと高鳴り、ぼうっと体が熱くなるのを感じた。

 何を言い出すかと思えばそんなことか。恋なら中学校の頃からしている。ずっと一人の女性(ひと)を一途に想い続けている。

 ただ、そう言えないだけだ。言う勇気がないだけだ。

「恋愛か……」

 俺は箸を置き、汚れのついている窓から外の騒がしい景色を見つめる。

「賢ちゃんはもっと高校生活を満喫しなきゃダメよ。青春は、戻ろうと思ったときには通り過ぎてしまっているものなの」

 女子高生が言うセリフか。心の中でそう呟く。

 たしかに、彼女は周りの女子生徒と比べれば大人びている。それでも外見や性格だけだ。心は同じ十七歳なのだ。

 恋に部活に勉強。この三つの言葉を合わせたのが青春だとすれば、彼女は立派に青春をしていると言えるだろう。

 つい先日、彼女はマネージャーをしているサッカー部のキハラという先輩から告白された。

 告白されたことは別にどうでもいい。彼女が先輩と付き合うなら、俺はそっと身を引き彼女の恋を応援するだけだ。

 問題だったのは、告白されたと言うことを彼女自身から聞いたことだ。

 

 あれは酷な時間だった。夕暮れの帰り道。たまたま帰るタイミングが被ったので、何ヵ月かぶりに一緒に帰った。

 何を話そうか迷っているところで、彼女が開口一番にそう告げたのだ。

 思い出すだけで、あのときの胸が締め付けられる痛みがよみがえる。

「ねぇ聞いてる? 私、賢ちゃんのこと心配して言ってあげているんだけど?」

 彼女は、暑さのせいなのか頬を赤めた顔を鼻の先がついてしまうほどに寄せる。

「聞いてるよ」

 みずみずしく、艶やかでチューリップの花弁に似た紅い唇。黒い瞳の鏡には俺の顔が映っていた。

 たまらず俺は顔と体を彼女の魅力から離す。

「顔も性格も悪いわけじゃないんだけどね。どうして女の子が寄って来ないのかしら?」

 顎に手を当て、首を傾げながら俺の顔をまじまじと見つめる。

 街灯に集まる蛾のように来られてもこちらも困るだけだ。いや、今のは表現の仕方が悪かった。花の蜜を吸いに来ている蝶。と表現すれば良かった。

 この際、本来は女性が花だとかどうのこうのは気にしない。

「寄って来られても困るよ。それと、さっきから賢ちゃん賢ちゃんって。その呼び方止めてくれよ。賢太郎(けんたろう)って呼んでくれって頼んだろう?」

 そうだ。賢ちゃんと呼ばれるのは子どもっぽくてあまり好きじゃない。

 この間も散々言ったはずだ。


「いいじゃない。私は賢ちゃんって呼ぶの好きよ。……どうしても賢太郎って呼んでほしいならそうするけど。賢ちゃんって呼ばれるの、いや?」

「いやじゃないけど、得意じゃなんだ。そう呼ぶの美緒しかないから」

「だったら尚更いいじゃない。どうせ、こう呼ぶのもあと一週間なんだから」

 彼女は手を叩き、夏の青葉のように胸を透くような笑顔を見せる。

 その顔は卑怯だ。なにも言えなくなるじゃないか。

 こうやって、彼女に親しみを込められて賢ちゃんと呼ばれるのはあと何回だろう。

 不意に彼女が、俺のことを賢ちゃんと呼んでくれなくなる未来が浮かんだ。一週間後には、こうやって口うるさく注意することもなくなってしまうのだ。

 心がざわついた。

 別れはこうしている間にも訪れている。時間は非情だ。これだけ祈っても、願っても止まってはくれない。

 人類の科学力は日に日に、つまりは日進月歩で進化しているという。だけども、どれだけ人類が進歩しようと時計の針を止める方法は永遠に見つからないのだろう。

 時間という絶対的で不可逆な力の前では、人はあまりにも無力すぎる。

 なにも止まってくれとは頼んでいない。せめて、もう少しだけ時間がゆっくり進んでくれればそれでいいのだ。

 きっとこの願いも、神様は聞き入れてくれないのだろう。


「あっ、そうそう。やりたい事リストを作ってきたのよ。見てくれる?」

 彼女は制服の胸ポケットから、紙を取り出して俺に渡す。

 紙を受け取り、中身を見る。そこには五つほどやりたい事が書かれていた。

 一つ目、賢ちゃんともう一度仲良くなること。

 二つ目、思い出を振り返る。

 三つ目、夏祭りに行く。

 四つ目、喫茶店に賢ちゃんと一緒に行く。

 五つ目だけは何も書かれていなかった。

 さすがにこの空白は俺でも彼女に訊かずにはいられなかった。

「この五つ目はなにも書かれてないけど?」

 美緒は机に頬杖をつき、顎を乗せる。恋する乙女よろしくの悩ましい声を出して、箸で綺麗に切られたトマトをつつきながら、ぽつりと呟く。

「まだ決まってないのよ」

「え?」

 俺は思わず聞き返す。

「だから、まだ決まってないの。しょうがないじゃない、いくら考えても出てこないんだもん」

 意外だった。こういうことはすぐに決まるものだと思っていた。しかし、実際は違うらしい。彼女にとっても、慣れ親しんだ場所や人との別れは突然だったのだ。


 俺も彼女と同じ立場だったら、きっと何個もやり残したことを書き出せないだろう。

 何をするだろうと考えると、いつも通りに日常を過ごして図書館から借りてきた本を返す。この程度のことしか思いつかない。

 俺と比べて、彼女はやりたい事はいっぱい残っているだろう。

「何でもいいんじゃないか。ここでやり残したこととか。それでこそ、恋愛とかでいいだろ?」

 自分でもまったく性格の悪い事を言ったものだ。一週間で恋愛をしても意味がないだろうに。

 どうにも彼女の後ろに、キハラという男の影がいるような気がして仕方がない。

「一週間でどうしろって言うのよ。いくら私でも無理なものは無理だわ」

 美緒なら引く手数多じゃないか。この前も告白されたって聞いたぞ。と本人に直接言うこともできずに、そうだよな。と俯く。

「でも、賢ちゃんとならしてもいいかな」

 どきりと胸が飛び出そうになる。彼女の想像もしなかった一言に視線が泳ぎ、戸惑いを隠せなかった。

「なーんてね。今、ドキッとしたでしょ? 冗談よ、冗談。賢ちゃんったら見るからにびっくりしちゃって。本当に可愛い反応してくれるわね」

 またからかわれた。

 彼女はしてやったりと、意地悪な笑みを浮かべている。

 ――そうね。とその後に言葉を続けた。

「本当に五つ目が決まらなかったら、してもいいかな。そのときは付き合ってくれる?」


 もう騙されないぞ。きっとこれも彼女の悪い冗談に決まっている。二度も同じ手を喰らってたまるか。

「同じ冗談は面白くないぞ」

 俺は強がって、少し怒ったふりをした。

「分かっちゃった? やっぱり同じ冗談は通じないわね。そろそろチャイムが鳴るから行くね」

 彼女は立ち上がり、(きびす)を返して教室を出ていく。出ていく瞬間、彼女は立ち止りこちらを振り返る。

「今日の放課後、玄関で待ってるね」

 手を振り、今度こそ美緒は教室から出て行った。

 玄関で待っているか。きっと一緒に帰ろうと誘っているのだ。やりたい事リストにも書いていた「思い出を振り返る」ということをするに違いない。

 俺は半分も食べていない弁当の蓋を閉じる。

「ねぇ、筒井(つつい)くんは早田さんと仲が良いの?」とクラスメイトの女生徒に質問された。俺は素っ気なくしていたが、しっかり目は彼女の残像を追うようにして質問に答えた。

「ただの、友達だよ」

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ