野巫の祭 8
野巫の祭 8
次の旅行先だった出雲は妻の出身地でもあった。
「実家」と言わないのは彼女の生い立ちや、育った環境が複雑だったようで「実家」とは彼女自身も最後まで言わなかった。
色々と不思議なことがあるのだが、結婚してから一度も帰ることのなかった出雲に伊勢の次に行こうとしていたのも今考えるとなぜだったんだろうと思ってしまう。
こちらとしても出雲のことは腫物にさわるようで、その話題は極力避けていたのもあり妻の生立ちや幼少期のことを詳しくは知らない。
興味がなかったというよりも聞いてしまって面倒が起こるのが怖かったのかもしれない。
実家と言わなかったのは妻の一族が数家族(正確には知らない)集まって一緒に生活をしていて、私も2回しか行っていないので上手く言えないが、共同生活というよりも言葉は悪いがまるで「コロニー」の様であった。
何と言えばよいのだろうか、感情というか明るさというか、なにか人らしさが欠けている様に感じる集団だった。
統率が取れていて大人も子供も黙々と仕事を片付けていて、いわゆる「おしゃべり」がほとんど無かった。
私が居た時は人の出入りが結構あったがヒソヒソ話のようなやりとりで終わっていた気がする。
2回の訪問は、1回目がまだ付き合っているときに呼びつけられるようにして駆けつけた。
こちらも緊張していたのか、またあまりにも多くの人が一緒に住んでいるのでビックリしたのもあり、交わした会話はほとんど憶えていない。この時は夜行列車で行って、昼に話をしてから出雲大社にお参りをして、また夜行列車で帰るという慌ただしいものだった。
2回目は結婚が決まって、その報告に行ったとき。このときは一泊させてもらったが一度に大勢の人達とご挨拶したのと、寝るときに30畳もある部屋に二人で寝たので落ち着かなかった。
結局たった2度の訪問では慣れるということもなく、女の子の家に挨拶に行って驚いて帰って来ただけだったな。
そういえばどちらの時もやたらと私の生まれや育ちに関して詳しく聞かれた。
私は福島県の浪江町で生まれた。小学校に入ってすぐに熱を出して生死をさまよったらしく、らしくというのはその事をあまり憶えていないのと、熱のせいなのかそれ以前の記憶もあまり無いのである。
その後、小学校3年になるときに埼玉県の浦和に引っ越した。
この頃から記憶がハッキリしているのだが、妻の里では引っ越す前の浪江町に住んでいたときのことばかり聞かれていたな。
一同が驚いたのは私と妻の生年月日が同じだと言ったときだった。
「へぇ~」っと感心するのではなく、一瞬ざわめくような感じでその後に質問責めになったと思う。
その時に自分でも忘れていたわずかに残った記憶を必死に思い出して説明したのだが、聞かれることは忘れてしまっている事に集中していて何でそんな事を聞くのかな、と、そして私の話に納得がいかない者も多かったようだったが、そのたびに妻が途中で説明を入れてくれた。
とりわけ「橋」の話になると一同も一歩前に出るような感じで聞いてくるが、妻も必死になって話を止めようとしていた。
あの時聞かれていた「橋」はどこの橋のことだったのだろうか。
渡ったのかとか、越えたのかとか聞かれた気がする。