野巫の祭 2
野巫の祭 2
長い待ち時間の信号が青になり、木陰が気持ち良い公園に入って行く。
パパパパー♪ズンチャッ♪ズンチャ♪
「始まっていたか…」
流れて来たのは楽隊の演奏の音。
今日は警視庁の音楽隊による昼の演奏会の日なのだ。
この日比谷公園の野外音楽堂では毎週水曜日の昼に警視庁の音楽隊、金曜日の昼には東京消防庁の音楽隊が一時間弱の演奏をしている。
しかも無料で誰でも会場に入ることができるのだ。
野外音楽堂なので屋根は全てを覆っているわけではない。
今日の様に陽射しが強い日には屋根の日陰に入りたいものだが出遅れた。もう日陰の席はいっぱいだ。
仕方ないので空いている日向の席に座って演奏を聴くことにしよう。
席に座って落ち着いてから周りを眺めると、いつも通りお弁当や買ってきた食べ物を食べながら聴いている人が多い。もちろんだが自分と同じように有り余る時間を持て余して来ている者も少なくはない。
音楽が好きというより、自分と同じ理由で来ている者が多いと思う。この演奏会は毎週同じ曜日、同じ時間にやっている。
仕事を離れて時間が経つと情けないかな、こういう曜日の決まっている事を追いかけていないと曜日感覚が無くなっていってしまうのだ。
まぁそれは何かに追われることが無いという贅沢な悩みなのかもしれないが、生活の中に張りのようなものを維持するのが思った以上に大変なのである。
これが独りの気ままさなのか、独りの寂しさなのか今はまだ分からない。
さて、演奏は賑やかに続いている。
普段は警察官として働く彼ら楽団の演奏は見事なものだ。
と言っても音楽のことには疎いので偉そうなことなど言えるものではないのだが、素人の彼らが毎週演奏を聞かせてくれるので最近は何となく分かってきたように感じるのは、たとえ勘違いであったにせよ嬉しい気持ちにさせてくれる。
演奏を聴きながらまた周りを見ていると、弁当を食べている者も、ただ演奏を聴いている者も当たり前だがみんな舞台の方を向いている。
何故だかは自分でも分からないが昔からこういうのが苦手だ。嫌いというのではなく苦手なのだ。
学生時代からそうだった。授業などみんなが黒板と教師の方を向いて座っているという、その空気というか雰囲気がとにかく苦手で窓の外などを眺めて時間を過ごしたものだった。
この手の苦手意識は仕事をしていくうちに強制的に直されていくのだが、仕事から離れたとたんにまた苦手になってしまった。
よく分からないのだが、映画だけは昔から平気だった。
けれど今目の前の楽団の演奏や学校の授業。また昔のメーデーの集会などは時として薄ら寒い恐怖のようなものすら感じることがあった。
舞台に目を戻すと、そろそろ終わりに近づいているようだ。
席の周りでは食事の後片付けを始める者、携帯電話を取り出していじり出す者、早々と席を立って帰る者。バラバラな動きが始まった。
そうこうしていると最後の曲が終わり、おざなりではない拍手が会場を包んだ後、一斉に人が動き出す。
いつものことだが一段落して人が少なくなるまで席でじっとしている。
そろそろ空いたなと席を立つと同じように空くのを待っていた人達が動き出す。
よく見なくても自分と同じ慌てなくてよい人達だ。仕事の昼休みで来ていた人のように急いで帰る必要も無く、まだ家に帰るには早い人達。このタイミングで見かける人は高確確率
で金曜の東京消防庁の演奏会でも見かけることになる。
(またお会いできるかな…)そう思いながらこちらも日比谷公園をあとにした。
またブラブラと歩いて大手町まで来るとここには平安時代の猛将「平将門」の首塚がある。
行ったことがなかったので訪れてみると、そこはまるで若い女の子の集会場のようになっていた。
一人できている子、集団で来ている子達。首塚まで行列ができている。
何事かと思い訪ねてみると、ここは今流行りのパワースポットという場所になっているのだそうだ。
何でも仕事が上手くいったり、恋愛が上手くいったりする不思議な力がもらえるのだそうだ。
何が何に効くのか話を聞いてもよく分からなかったが、中には首塚の前で写真を撮っている者もいた。
一千年近くも前の人物がパワースポットなどという便利屋にさせられてしまうとは、もし本当にいまだに霊力を持った将門公がここに居るのだとして、この状況を見て何と言うか、聞いてみたいものだがな。
きっと訝しげな顔をしていることだろうさ。
首塚を立ち去りながら考えてみたが、関東平野で紛争を繰り返しながら勢力を広めていった平将門。
しかし時の権力は京の朝廷にあり、何度も京へ呼び出されていた。
当時、関東平野は朝廷の馬を育てる場所であり、将門も長洲馬牧と大結馬牧をはじめとし馬牧で官牧をさせられていたのだが、その馬と乗馬技術で騎馬軍団を作り上げ常陸の国府を襲い朝廷に対して反逆を開始する。
下野・上野国までを手中に治めると、自分を「新皇」と名乗り朝廷に対して反旗をひるがえす。
これを朝廷が放っておくはずはない。
大ムカデ退治で知られる「俵藤太」こと藤原秀郷が将門討伐の大軍を率いて京から押し寄せ、あえなく首を斬られてしまう。
将門の首は京へと運ばれてさらされたが、この首がまた再び戦うことを誓い憤怒の形相ををして胴体の残る関東に飛んで行ったという。
だが故郷の下総の手前、武蔵国芝崎(現・大手町)まで来て力尽き落ちてしまう。
その後たびたびこの場所で祟りがあったため、ここに首塚を作って鎮めたのがこの将門塚の始まりだということだ。
まぁこれは今見てきた首塚に書いてあった縁起の受売りなんだが。
自分が働いていた建築業界でまことしやかに話されていたのは、将門を討った藤原だったが源平合戦~戦国時代~江戸時代にかけて辛酸を舐めることになった。
それが明治維新で復活して富と権力に返り咲いた。
都市化によって将門塚の周りにも建物が建つようになったとき、塚が見えるような窓を作ると祟りがあったために以後は首塚に向かっては窓を
作らず、ビル化をした後も窓はおろか非常階段も首塚に向かっては作らないという。
あるビルの設計士がそれを無視して窓のあるビルを建てようとしたら現場で死人やけが人が多発したという。
そのビルの施工主はビルが出来てもとうとう入居しないまま手放したとも聞いていた。
いまもって首塚に向かって壁以外は作らないというのが続いているのは、人が何かを恐れるということが根深いところで損得を超えた影響力を持っているということなのだろう。
建築業界では想像以上にこれらの縁起担ぎが多く存在していて、先祖の出身地に向かって玄関を作ったり、土地に信仰があればビルにするときに屋上まで地面からパイプで屋上まで土をつないで、その上に社を建てたり。建物全てが信じる縁起の数で割り切れるようにしてあったりと、知られないところで縁起が担がれていた。
そんな業界にいたからだろうか、人は祟りのようなものに縛られていてまずそれらを排除することを考えているように思える。