虹づくりの弟子
空の上では、今日もみんなてんてこ舞いでした。
月の姫君が機嫌を損ねたせいで、夜になっても地上を照らす準備をしてくれないというのです。
日の王子が仕事を終えるまで、もう数刻しかありません。
柘榴石の星は言いました。
「誰か行って、月の姫君をなだめて来てよ」
橄欖石の星は言いました。
「ぼくは嫌だよ。拗ねたときの姫君は手に負えないもの」
藍玉の星は言いました。
「そもそも、姫君は何で機嫌を損ねているんだい?」
蛋白石の星は言いました。
「何でもお気に入りだった天の川のドレスが破けてしまった、と聞いたけれど」
「それなら天の川のドレスを縫い直して差し上げたらどうだい?」
「縫い直すために必要な流星群の軌跡が不足していて、今すぐにはできないらしいよ」
「なら、夜空をかためて作った瑠璃の飴玉を差し上げるのは?」
「この前、みんなきみが食べてしまったじゃあないか」
そのうち星達は言い合いをはじめてしまいました。
埒が明かないと思ったのか、金剛石の星は言いました。
「確か、姫君は虹がお好きだったはずだ。仕方がない、わたしが虹を作ってもらえるように、虹づくりの元へ行ってこよう」
そうして虹づくりの元へ赴いた金剛石の星でしたが、肝心の虹づくりの姿がありません。
ようやく見つけたのは、虹づくりの弟子である、アルビレオの少年でした。
「虹づくりを知らないか?」
星が少年にそう尋ねると、少年は琥珀と蒼玉の瞳を瞬かせて、ぽつんと建っている小屋を指差しました。
「お師匠は今、体調がすぐれないようで寝込んでいます。なにか御用ですか?」
「月の姫君が機嫌を損ねたせいで、夜になっても地上を照らしてくれないというんだ。虹づくりに虹をつくってもらい、機嫌を直してもらおうと思ったんだが……」
体調が悪くて寝込んでいるのならば、それは無理かもしれません。
がっかりした金剛石の星でしたが、一応虹づくりに相談してみることにしました。
「虹づくり、姫君の機嫌を直すために、あなたに虹をつくってほしいんだ」
虹づくりの老人は言いました。
「申しわけないが、ちょうど虹をつくるための材料が欠けてしまっている。いまのわたしの体では、とても集めてくるのは難しいだろう」
「虹をつくるための材料というのは、なんなのだ?」
「人から集めることのできる、六つの感情だ。空の上のものたちからも集めることはできるが、彼らの感情は強烈でないぶん、鮮やかな色になりにくい。だからそれは人から集めるよりも、とても難しいのだ」
星は残念そうに肩を落としました。
「……そうか、ならばほかに手を考えてみよう。急に邪魔をして悪かった」
そう言って星は去っていってしまいます。
けれど、月の姫君がきちんと仕事をしてくれないと、のちのち空の上全体にまで悪い影響が出てくることは目に見えています。
考えたすえ、アルビレオの少年は虹づくりに言いました。
「お師匠、あなたの代わりにぼくが地上へ行って材料を集めてきます。それではだめでしょうか」
「お前が?」
虹づくりは驚いて目を見張りました。
「この子は感情の少ない、無表情な子だ。それなのに、うまく人から感情を集めてくることができるだろうか」
虹づくりはそう思いました。
弟子の仕事のほとんどは虹の材料を紡ぎあわせることで、材料を地上に取りに行かせたことはいままでなかったのです。
しかも虹づくりが知るなかでこの少年は、空の上でもめっぽう感情の劣る子でした。
けれど迷っている時間はありません。
虹づくりは弟子に言いました。
「いいか、よく聞きなさい。虹の材料は人の六つの感情。
情熱の赤、幸福の黄、慈しみの緑、悲しみの青、強欲の藍、憎悪の紫の六つだ。地上に行って、それを人から集めてきておくれ」
「はい、お師匠」
「しかし気をつけなさい、お前が思うより人は欲深くて、意地汚く、けれどときに純粋で美しい。とても複雑なものたちだ。危ない目にあったのなら、すぐに戻ってくるんだよ」
「わかりました。行ってきます、お師匠」
そうして、虹づくりの弟子は六つの感情を集めるために、地上へ向かったのでした。
◇*+*◇
【強欲の藍】
少年がまず降り立ったのは、にぎやかな港町の一角にある、活気のある居酒屋でした。
船乗りたちのだみ声、乾杯のグラスがふれあってたてる金属音、喧嘩するものたちのせいで壊れるものの音。
あふれかえる音はまるで競いあっているかのようです。
全てが少年にとってはじめて聞くもの、見るものでした。
「よう坊主。ちびがこんなとこに何の用だ? もうおねんねの時間だろう」
店にいた、顔を真っ赤にさせた一人の男が少年にそう話しかけました。
「感情を探しているんです。人の、六つの感情を集めなくてはいけないので」
「感情だぁ? 何わけのわからないことを言ってるんだ」
そこで男はいったん言葉を切り、まじまじと少年の顔を見つめました。
「こいつぁ驚いた。宝石みたいにきらきら輝く、琥珀と蒼玉の瞳じゃあないか」
「服も上等で見目も悪くない。それに珍しい瞳の色。これは高い値がつくぞ」
男はにやりと笑って舌なめずりをしながら、そう思いました。
実はこの男、人攫いだったのです。
「坊主、いい場所を紹介してやるからこっちへおいで。おまえの言う“感情”ってやつもすぐ見つかるだろうさ」
男は少年の腕を引いて店を出て路地裏に連れて行きました。
そのとき、少年には男の中に、菫青石のようにかがやく藍色の光が見えたのでした。
「ああ、強欲の藍だ」
少年は思いました。
「なぜ急に強欲の藍が出てきたのだろう? よくわからないな。やはり、人間とは不思議なものたちだ」
少年がぼんやりとそんなことを考えているうちに、男は少年をはがいじめにしようと襲いかかってきます。
けれどそのときです。
男の目の前で、何かがかっとまぶしく光りました。
「うわっ!? なんだ?」
「アルビレオの少年よ、早くその男から強欲の藍を取って、逃げなさい」
何が起こったかわからず目をまんまるくさせている少年にそう言ったのは、なんと金剛石の星でした。
あのあと少年が地上に降りて行くの見て不思議に思い、そっと着いてきていたのです。
星が男を目くらまししているうちに強欲の藍を男から集めると、少年と星は急いでその場を逃げました。
あとに残ったのは、何が起こったのかわからずにほうける、人攫いの男だけでした。
「星さん、どうしてあなたがここにいるのです?」
ずいぶんと逃げ切って、落ち着いてから少年がそう尋ねると、星は言いました。
「きみのことが心配だったのだ。ついてきてみれば案の定、人に襲われているではないか。きみが地上に降りたことのない箱入りだとは知っていたけれど、無防備にもほどがあるぞ。
もう安易に人を信じてついて行ってはいけない。わたしだって、そう何度も助けてあげられるわけではないのだから」
「ありがとう、これからは気をつけます」
こうして、今度は金剛石の星と一緒に、六つの感情のうちの、のこり五つを探すことになったのでした。
◇*+*◇
【幸福の黄】
少年と星が次に降り立ったのは、夕焼けに染まる街角の、噴水の前でした。
布のカンヴァスを広げている男が噴水のふちに座っています。
くたびれた白いシャツに、不精に伸ばした後ろ髪を無造作に束ねている彼はどうやら、画家のようでした。
「ああ、そこのきみ!」
少年と目があうと、画家は目を輝かせてこちらへ呼びかけてきました。
「そう、きみです。琥珀と蒼玉のような、きれいな瞳を持つお坊ちゃん。目があった瞬間、きみしかいないと思いました。ぜひ、わたしにきみを描かせていただきたい」
「ぼくをですか」
「そうです、さあここに座って。わあ、なんだか不思議なかがきを放つ宝石を持っているのですね、それは金剛石ですか?」
「……まあ、そのようなものです」
少年が画家にいわれたとおりに座ると、画家は新しいカンヴァスを取り出して興奮したように手を走らせました。
「きみみたいな、本物の宝石よりも美しい瞳をもつ人は、よく人を観察しているわたしでもはじめてみましたよ。なんて幸運でしょうか。おお神よ、彼と出会わせてくれたことに感謝いたします」
「あなたは絵を描くことが、本当にお好きなんですね」
「ええ、絵を描くことは、わたしの人生そのものですから」
しかし少年は、夕焼けの街中を鮮やかに切り取った絵と、みすぼらしい格好の画家とを見くらべてふとおもいました。
「けれど、あなたの才能を理解してくれる人は少ないのではないのですか? げんに、こんなに素晴らしい絵を描かれるのに、あなたはとてもお金持ちにはみえません」
「それでいいのです。わたしはお金をもうけるために描いているわけではありませんから。全て、自己満足に過ぎないのです。描きたいから描いているのです。評価なんてもの、はなから望んでいません」
彼は、とても楽しげに鉛筆を滑らせながら、幸福そうに笑いました。
「わたしは絵を描きつづけること以外、どんなものに対しても、何も負うことはないのです。絵を描くことによって、わたしは名を、ところを、行動と判断の自由を得ているのですから。
わたしはそれに対してのみ責任を負い、神はその技量と思慮分別とをご覧になり、導いてくださるのです。そしてそれは、歳月によって磨かれるものです。神や、これまで磨いてきたわたしの経験による技術は、わたしの努力を裏切りません」
「……それが、あなたの幸福なのですか」
「ええ、満足に絵を書き続けることができるだけで、わたしは幸福なのですよ。……さあ、もうすぐです。残念ながら色をつける時間まではありませんので、クロッキー画をきみに差し上げましょう」
もう描きあがり間近のその絵をのぞきこんでみれば、そこには無表情な少年が白黒で描かれていました。
けれどなぜでしょうか、絵の中で彼の瞳だけは、まるで色づいているように鮮やかに見えるのです。
「きみは無表情な人ですね。けれど、感情がないわけではないようだ。その瞳の中、なにを思っているのかわたしにはおしはかることができなかったけれど。
今度あったときには、ぜひきみの笑顔を描かせてもらいたいものです」
そういってクロッキー画を差し出す画家の手を、少年はやんわりと押しとどめました。
「いいえ、これはぜひあなたが持っていてください。ぼくは、もっと価値あるものをあなたからもらっていってしまうのですから」
そのときすでに少年には、画家の中に黄玉のようにかがやく黄色の光が見えたのでした。
「絵を描くこの腕以外なら、なんだってもっていってください。きみに出会えた代償ならば、安いものです」
「さようなら。あなたはきっと、有名な画家になる気がします」
その言葉に、画家は心からうれしそうに満面の笑みを浮かべました。
「そのときは、きっときみのことを描いた絵がわたしの代表作になっていることでしょう」
幸福の黄を集めて画家に別れを告げ、手にかくし持っていた金剛石の星をみれば、星はぽつりとちいさく呟きました。
「人間とは、なんとも不思議だな。幸福とは人それぞれ、同じものは一つとしてないのかもしれない。
……ああ、夕闇が迫っている。先を急ごう、日の王子もそろそろ無理をしているにちがいない」
少年はゆっくりとうなずきました。
「ええ、行きましょうか」
◇*+*◇
【情熱の赤】
少年と星が次に降り立ったのは、夕暮れ間近の繁華街にある、とある食堂でした。
少し人のさみしい店内では、女性が一人、ぼうっと外を見つめて座っています。
テーブルにおかれたお酒にも、あまり手はついていないようでした。
「どうしたんですか、ぼんやりされて」
少年が唐突にそうたずねると、女性は長くのばしたまつげをまたたかせて、すぐに口元だけで妖艶な笑みをつくりました。
「まあ、坊やの方こそどうしたのかしら。ここは、あなたのような小ぎれいな子供のくるところではないのですよ」
「あなたはなにを見ているのかと思って。そんなに、あそこにいる男性とご令嬢が気になるのですか?」
少年がそういうと、女は動揺したように瞳をゆらして、顔をこわばらせました。
女が先ほどまで見ていた視線の先には、立派な紺色のお仕着せをきた男性と、ほがらかに笑うまだ歳若いご令嬢の姿がありました。
楽しそうに談笑をするふたりは、お似あいの恋人そのものです。
「お似あいのお二人ですね」
わずかな沈黙のあと、さびしそうな横顔をみせて女性はほほえみました。
「……そうですね。とてもお似あいです」
「けれどあなたは、心からそう思っていないようにみえます」
「そうでしょうか? そんなことはありませんよ。
とてもご立派なお方でしょう? あの歳で、たいへん重要な地位にいるお方なのですよ。――近々、結婚なさるそうです」
仮面のように動かない女性の笑みは、言葉どおり彼女にとっての最後の武器のようでした。
「あなたは、なにが欲しいのですか。とてもうちに秘めた思いがあるようですけれど」
女性は一瞬、純粋な驚きをみせたあとに、まつげを震わせながらも、鮮やかな笑みをつくりました。
「なにより望むものを口にしてはならぬのが、わたくしどもの定めです」
女性がそういった瞬間、少年には女性の中に、紅玉のようにかがやく赤色の光が見えたのでした。
「娼婦の身であるのに、たった一度でも、あのお方にじかにお会いできた。それだけでわたくしは満足です。この想いは、死ぬまでもっていくつもりです」
「報われずとも、告げなくていいのですか」
女性は、真っ赤な唇をもちあげて、美しくほこりたかくほほ笑みました。
「いいのです。あのお方を困らせたいわけではありませんもの。言ったところで、必ずしも幸せになる道があるわけではありません。わたくしは、そういう星の下生まれてきたのですわ」
少年が情熱の赤を集めて女性に別れを告げ、店内から出ると、金剛石の星は言いました。
「あの女性ならば、その気になればあの男性を振り向かせることぐらいできるだろうに。あれだけの情熱を秘めていながらあきらめることができるとは、やはり人間は不思議なものたちだ」
「相手の幸せを願う、ということなんでしょうか。なんだか、あの女性が不憫です」
すると星は驚いたように少年を見た。
「……なんです?」
「いいや、きみが“不憫に思う”だなんていうから、驚いただけだ。……そろそろ日の王子もお疲れだろう。はやく次へ行こう」
その言葉に、少年はゆっくりとうなずきました。
「ええ、先を急ぎましょうか、星さん」
◇*+*◇
【憎悪の紫】
少年と星が次に降り立ったのは、寂れた民家がつらなる村のようでした。
降り立った瞬間、少年はいやな視線をいくつも感じました。
「……なんだろう、このいやな感じは」
人々に視線をめぐらせようとして、少年は思わず息をのみました。
彼らの目はいやなくらいにねばっこくこちらを凝視していて、なにやら物騒な表情でかま、すき、くわといったものをもちだそうとしているのです。
「どうして、突然」
けれど聞き出すひまも何もなく、少年は投げられる石からよけるはめになってしまいました。
「少年、ここは危険だ。はやく逃げよう」
星がそういったとき、村の人の中からこんな言葉が聞こえました。
「こいつは化け物、異形のものだ! みろ、この奇妙な瞳の色! きっと悪魔が人に化けているに違いない。はやく追い出さなければ、村が呪われてしまう」
「そうだ、土地の神の怒りをかうぞ」
「追い出すなんて生ぬるい、いっそのこと……」
少年には、そう叫んでいる大勢の村人の中に、紫水晶のようにかがやく紫色の光が見えたのでした。
「少年、急いで憎悪の紫を集めるんだ。そしてここを出よう」
「はい、星さん」
少年はそういって憎悪の紫を集めました。
しかし、そこで今度は金剛石の星が村人につかまってしまいました。
「星さん!」
「これは、素晴らしく大きな金剛石ではないか! 売れば高い値がつくぞ」
けれど星は少年だけでも逃げられるようにと叫びました。
「はやく、はやく行きなさい、アルビレオの少年よ!」
「星さん、でも!」
「きみには、無事に帰ってもらわなければ。わたしのことはいい、はやく!」
そういっている間に、少年を追ってくる村人たちはもうすぐそこまで来ています。
口々に物騒なことを叫んでいる彼ら。
このままでは、ふたりとも無事に空の上へ帰ることなど難しいでしょう。
ついに、金剛石の星は覚悟を決めたようでした。
「いいか少年、よく聞いてくれ。このままきみは、この道をずっと走っていくんだ。なにがあっても振りかえってはいけない。どんなことがあってもだ。いいな?」
「そんな、でもあなたは」
少年はなおもいいつのろうとしましたが、星はそのひまを与えませんでした。
「合図をしたなら、一目散に走れ。
ほら、……いち、に、さん……行けっ!」
星のその言葉の勢いに背を押されるかのように、少年は目をつぶってその道をかけました。
と、そのときです。
うしろで強烈な白い光が見えたかと思うと、人々の叫び声と、それになにかが砕け散る音がしました。
「星さん!」
少年は後ろへかけもどりたい気持ちでしたが、星の思いをむげにするわけにはいきません。
そのまま、星の言うとおり少年はその道をかけぬききりました。
夜の闇はもうそこまで迫っています。
時間はそれほどのこされていません。
身を切られるようなおもいのまま、少年はその場を離れ、次の感情を集めに行くことにしたのでした。
◇*+*◇
【慈しみの緑、そして】
少年が次に降り立ったのは、暖炉のそばでねむっているおばあさんの枕元でした。
暖炉の中でぱちぱちとはぜる炎は、まるでおばあさんののこりの命をあらわすように穏やかで小さいものでした。
「ああ、この人はもうそれほど生きることができないのだな」
少年は少しだけ悲しく思ってきゅっと眉をよせました。
おばあさんは薄く目を開け、少年を見つけると口元に笑みを浮かべました。
「あらまあ、かわいらしいお迎えがきたものだこと」
「ぼくは、死神ではありません」
「それでは天使さまかしら。ああきっとそうね、きらきらと輝くお星さまも連れているんだもの」
おばあさんの言葉になぜだか胸が苦しくなった少年は、もう空になってしまった手をぎゅっと握りしめました。
「あらあら、天使さまはなにをお嘆きになって、そんな悲しそうな顔をしているのかしら」
「……悲しそう? ぼくは、そんな顔をしていますか」
「ええ、大切なものを失った顔をしているわ」
今にも消えてしまいそうな死に近い命の灯火をもつというのに、優しく語りかけてくるおばあさんが少年は不思議でなりませんでした。
「あなたは、死ぬことがこわくないのですか」
おばあさんは目じりのしわを深くさせて穏やかにほほえみました。
「生と死と、一体どちらがこわいのでしょうね。こんなにしわくちゃなおばあちゃんになっても、結局わたしにはわからなかったわ。けれどね、不思議と死ぬことがこわいとは思わないのよ。見送る方になったときは、とても寂しかったけれど。
お隣のお花屋さんは毎日窓辺に新しい花を置いていってくれるし、向かいのパン屋さんは毎朝焼き立てのパンを届けてくれるの。それにね、わたしの娘は孫をつれてお見舞いに来てくれるわ。血をわけた家族がいてくれるのはとてもいいことよ。こんなに幸福なことはない、そう思わないかしら。
わたしにはね、世界の全てがやさしく、まるでわたしを真綿で包みこんでくれているように思えるのよ。なんて、なんて素晴らしくいとおしいのかしら」
小さな出来事一つ一つをいとおしげに語るおばあさんの口調は、少し弱々しいものでしたが、凪いだ海のようにおおらかでした。
「あなたは、この世界の全てを慈しんでいらっしゃるんですね」
「若いころは、毎日生きるのに精一杯で目先のことしか考えていなかったわ。一日一日、一瞬一瞬が、こんなに素晴らしい、ものだと、気づけたんですもの、……歳をとるのも、悪く、ないものね――」
そういってふうっと息を吐くと、しゃべり疲れてしまったのかおばあさんは微笑んだまま眠ってしまいました。
そしてそのとき、少年にはおばあさんの中に翠玉のようにかがやく緑色の光が見えたのでした。
「慈しみの緑。このおばあさんにぴったりな、純粋で美しい色だ」
その光にそっと触れ、壊れものをあつかうようなていねいな手つきで少年はそれを集めました。
「お師匠から人は欲深くて、意地汚く、けれどときに純粋で美しいと聞いていたけれど、あれは本当のことだったんだ。強欲の藍をもつものもいれば、こんなに美しい慈しみの緑を持つ人もいる。けれど卑しい感情であったとしても、それら全ての感情が宝石にも星にも劣ることのない、まばゆい輝きを放っている。
六色の心をもつ“人”というものたちは、なんて奥深いんだろう。感情というのは、なんて素晴らしいものなんだろう」
そして少年は、金剛石の星と最後にわかれた場所へと、わきめも振らずにかけていきました。
「ああ、星さん。ぼくはいまやっとわかりました。ぼくは、あなたがいなくなってしまって悲しいんだ。胸が張り裂けそうなほどに、叫んでしまいたいほどに。
あなたはもう、帰ってこないでしょう。どんなに望んだとしても。こんなぼくを守っていなくなってしまったんだから。
感情とは、こんなにも厄介で制御できないものだったのですね。ああ、どうにかなってしまいそうだ」
ついにその場所へついて少年が見つけたのは、きらきらと雪のようにかがやく、砕けて粉々になってしまった金剛石の星のかけらでした。
その砕けた星のかけらを優しく両手で包み込みながら、少年は嘆きました。
そしてその感情があふれてしまったのでしょうか、彼の蒼玉の瞳よりも鮮やかな光のつぶが、ぽつりと目から零れ落ちたのです。
それはまぎれもなく、虹の材料となる感情の最後のひとつでした。
◇*+*◇
空の上へ帰った少年はそのあとすぐに、集めた六つの感情を紡ぎあわせて虹をつくりました。
その虹を見た月の姫君は機嫌をなおし、きちんとご自分の仕事を果たされ、月のない夜がおとずれる、という混乱は避けられたのでした。
しかし、砕け散った金剛石の星は、もとに戻ることはありませんでした。
「お師匠、星さんは、ぼくの大切な友達なのです。一緒に地上で感情を集めて、助けてくれました。どうにかなりませんか」
「……お前は、幸か不幸か地上で感情を手に入れてしまったのだな。星は砕けれしまえば、もう戻らん。
しかし、ひとつだけ。お前がわたしのあとを正式に継ぎ、虹づくりになったとき、砕けた星のかけらをわたしに渡しなさい。
虹づくりの本分は、紡ぎあわせること。この老骨の手にかかれば、星だって紡げるだろう」
けれど、虹と星とでは全く勝手が違います。
そんなことをしてしまえば、虹づくりの老人の力がすっかりなくなってしまうことなど、目に見えていました。
「しかしそれでは、お師匠の虹づくりとしての力が……」
虹づくりの老人は、その大きな手で少年の頭を少し乱暴になでました。
「それを見越して、お前がすべてを継いだあとと言っているんだよ。この老いぼれにできることといえば、あとはお前が一人前になるのを見守ることくらいなのだ。最後にはなむけとして、これくらいやらせておくれ。
わたしにとっても、お前は大切な弟子なのだから」
少年にとっては、金剛石の星が六色にかがやく感情の全てでした。
けれど老人にとっても、少年は鮮やかに色づく世界そのものだったのでした。
◇*+*◇
【アルビレオの虹づくり】
――少年が正式に虹づくりとなる日がやってきました。
空の上は祝いのファンファーレと、王による祝福のヴェールでおおわれています。
そしてなんでも、またひとつ、新しい星がうまれるといううわさがあるのです。
ひさびさの星の誕生に、空の上はわきたちました。
それを聞いた、空の上でゆいいつ六色の感情をもつといわれる虹づくりは、静かにわらって、涙をこぼしました。
「おひさしぶりですね、星さん」
そう言いながら虹づくりは、彼の琥珀の瞳よりも美しく鮮やかな光のつぶをこぼし、泣きました。
「ずっとあなたに会いたかった。そして、伝えたいことがたくさんあるんです」
アルビレオの虹づくりだけが、その星がうまれるずっとまえから、その星のかがやきを知っているのでした。