古いSF映画
区画を出てはならない、という規則があるわけではなかった。ただ、区画の外にいるやつを、絶対に中へ入れてはならないという規則があるだけだ。その一文で実際上必要な全てのことは記述されているわけだし、“区画の中の人間に対しては”できるだけ自由を与えようとしてくれる、政府の意向も満たされている。僕の知る限りこの規則はかなり厳密に行使されており、ときには政府軍の警備兵が、威嚇のために軽機関銃を撃つのが聞こえる。区画をぐるりと囲む壁は一部では立派な、高さ十メートルにもなる鋼だが、何か財政的な理由があったのだろう、それ以外のほとんどの部分は錆び付いたフェンスや、朽ちた木の棒に有刺鉄線を張っただけのものなのだ。
追放されるのは、よほど酷い犯罪を犯したときだけだ。かつての文明には“死刑”の制度があったが、政府はそれをなくすために“追放”を導入したのだという。これには賛成だ。どんな悪人が相手でも、誰かを殺すのが気持ちのいいことのわけはない。例えば死刑のとき、ボタンを押すのが被害者だというなら話は別だが。
昔の基準でいうと死刑にされるぐらい酷いことをしたときか、規定値を超える放射線源と認められてしまったときだけ、環境ハウスは正式に追放を言い渡す。環境ハウスというのは町中にいくつかある綺麗な政府の建物で、法律の行使や医療、特定の危険物の販売などを担当している。公的に配布されている放射線測定器やストーブなどの修理も、彼らに頼むべきことだ。近所のナイランド爺さんがしょっちゅうガソリンを買いにハウスへ出かけるのを、僕らはよく見かけた。
それと動物。環境ハウスの重要な仕事のひとつに、どこか遠くでたっぷり被爆した動物が侵入したときに、それをすみやかに駆除するというものがある。彼らは怖い防毒マスクと分厚いポンチョを身に付けて、厄介なお客を焼き払う。僕らに放射線測定器が渡されるのはこういう理由なのだ。何かまずいものが入ったらすぐに彼らに報告できるし、たかがネズミや犬ていどのものなら、毒を振りまいて逃げたりしないように、自分たちの力で殺してから報告すればいい。政府軍の人たちが実はとてもいい人たちであることは、よく知られていた。環境ハウスの応対はとてもていねいだし、ときおり町で食事をしていく兵隊の一団もある。彼らは政府軍の秘密を教えてくれたりはしないが、ほかにも僕らの知らない歌や言葉をたくさん教えてくれた。
しかし、もう一度言うけれど、区画を出ることは絶対に禁止されていないのだ。冒険心溢れる誰かがときおりフェンスを乗り越えたって、政府軍は手出ししない。だから僕は区画を飛び出した。政府軍の兵隊がいるやぐらの真下で、わざと物音を立てながらやったのだ。彼らに僕の存在を早めに知らせておけば、侵入者と間違って撃つのを、やめておいてくれるかもしれないと思ったからだった。軽機関銃の兵隊は口笛を吹いたけれど、それだけだった。ある土曜の昼下がりだった。
僕が区画を出るに至ったのは、ものすごく誰かに腹が立ったからでも、ものすごく外に興味があったからでもない。今年で十六歳になるけれど、町の中はよく知っているし、ほかの区画へ行くのには、子供には払えないぐらいお金がかかる。防塵トンネルといって、地下に掘られた巨大な施設を使わなくてはいけないのだ。そして僕には両親はなかった。二人とも疫病で亡くなったのだ。友達に言ったら絶対に引き止められたろうけれど、こんな愚かな計画をわざわざ打ち明けるような相手が身近にいないので、だから僕は、新しい本を開くみたいな気持ちで、簡単にこれを実行することができた。動機が何かと聞かれれば、退屈していたからとしか答えられないだろう。
確かに僕の住むニューパナマ区画はいいところだった。別に大きな町じゃないし、別の区画にはあるという大図書館があるわけでもない。ただ気候はいいし空気はいつでもからっと涼しく、放射線量もそれほど酷くはない。僕はカーチス夫妻の八百屋の、二階建てのしょぼくれたビルの、二階倉庫に住んでいた。お隣はまだ空き部屋で、寂しいコンクリート打ちっ放しだ。倉庫部屋には前の所有者が残した家具や電化製品がたっぷりあったので、少々狭いとはいえ、僕には十分だった。百人ぐらいの学校には友達もあったし、将来の夢は別の区画で八百屋になることだった。カーチス夫妻は老齢だがみんなに愛されていたものだから、職業はきっと、これが最善だろうと僕は腹に決めていたのだ。
しかし僕は、退屈した。長い退屈ではなかった。ただこの土曜の昼下がりに、することがなかっただけだ。明日になれば忙しくなるという可能性は全然あり、月曜になれば学校があるのだから、退屈どころではなかった。しかし僕は退屈したのだ。そして部屋を出、屋台でコーヒーを飲み、そして思い立ったように外に出た。水筒さえ持っていなかった。認めてもいいが、僕は結構愚かなことをしたのだ。
僕はすぐに後悔した。始めのほうこそ大きな建設用の機械が朽ち果てているのや、見たこともない花が一面に広がる野生の庭園やで、少し進むたびに感動したものだけれど、少しお腹が減ってくれば最後、僕は二度と自分の部屋に帰れないことを急速に理解したのだ。人生で一度も壁を出たことなどないのだ、誰がその先を想像することができるだろう。いつもの癖で手のひら大の小さな装置、放射線測定器を取り出す。当然だが、値は町にいるのと大して変わらなかった。
僕はとんでもない事実にがく然とした。僕はもう、外部の人間なのだ。戻ろうとすれば冷酷に撃たれる。僕の放射線強度はみんなと全然変わらないのにだ。
それに外には、ときどき人が現れるということは聞いていたけれども、そいつらがどんな素性かなんて分かりはしない。彼らは常に餓えていて、被爆のために形がおかしくなっていて、きっと野蛮人のような性質のものに違いない。僕らは外のことなどほとんど考えないので、もちろん調べもしなかった。だから何も知らないのである。
もし可能なら、その野蛮人たちとどうにか渡り合って、食事ぐらいはできるだろうか。しかし彼らが、被爆した魚やら真っ白でどろどろした異常に匂うスープなんかを好んでいらどうしよう。僕は結構、好き嫌いが激しいのだ。
僕は愚かな自分を呪ったが、とにかく人の生活の気配を探して道を歩いた。未開の草原には巨大な砲台と、古い電離放射線マークが大きく印刷されたドラム缶が大量に並んでいる。あのドラムは弾薬ケースだろうか。しかし放射線強度は低い。ということはあの弾薬ケースも砲台も、兵隊を被爆させるようにはできておらず、それにこれを扱った兵隊の誰ひとりとして、仲間を被爆させるような間違った使い方はやらなかったということだ。僕は三本脚に支えられたばかでっかい砲台のひとつに近付いてみた。今はシリンダの高圧ガスが抜けて、低く突っ伏しているけれど、これが砲台の射角や方角を調整するためのものだったのだろう。斜め上を仰ぐこの砲台は、今の角度でも三階建てのビルのてっぺんまで届きそうだ。こんなもので戦争をしているから、僕らは退屈な町に追いやられたわけだな、などと僕は感心していた。しかしそれなら、核など使わずに普通の爆弾とかを飛ばせばいいような気もするけれど、それじゃだめだったのだろう。現実はそう言っているのだ。
夏の美しい昼下がりだった。空には真っ白な雲と“天蓋”の灰色の影、それから“塔”たち。あの形は“ノースクリーク”だな、と僕は思った。十六年も生きているんだから、天蓋の名前ぐらい全部覚えている。塔のほうは、あまり覚えていないけれど。雲の形の名前と同じで、結構興味があるとかでなければ、それほど厳密に記憶する必要には迫られないのだった。天蓋には何十万という人が住んでいるらしいのだが、僕にはそれが今でも信じられない。行ってみたいものだが、僕ら区画民はだめだ。遺伝子的に有害な因子を持っていて、上の人間との交流は許されていないのである。それなら旅行にだけでも行かせて欲しいとも思うけれど、もう文句は言えない。環境ハウスの人たちは僕らに同情を示して、できるだけ天蓋の人々と同じ生活を与えようとしてくれているのだ。これ以上何かを要求するわけにはいかないだろう。塔は天蓋と地上を繋ぐための巨大な昇降機だったものだが、今では政府軍や環境ハウスの職員たちだけのものだし、彼らもごく一部の塔だけを使うらしい。天蓋が地上の“区画民”と接触を断たねばならなくなったころに、ほかのものは全部廃棄にして、閉鎖されたのだった。
しかしこういうことを考えていると再び、僕は自分が、かつての生活に戻れないということの巨大さに怯えるのだった。
もう二時間は歩いているけれど、かつての文明の痕跡こそいくつもあれ、現在の人の生活など見当たらないのだった。僕はそよ風に揺れる草原のあいだに、かつて道路であったアスファルトの細長い道を見つけた。今では、区画内でもほとんど自動車は使わないが、政府軍の人たちは必要に迫られれば使うようである。汚染防止のための分厚い装甲に覆われた六輪車ぐらいだが。
そして道路沿いに歩いているうちは、少なくとも、悪い足場に悩まされなくてすんだのだった。アスファルトにまではほとんど植物も侵入できていないのだ。放射線強度はやはり通常通りだった。僕は手のひら大の装置をポケットに戻し、歩き続ける。もうこのころには、野蛮な未開人でも何でもいい、ものを言うウサギでもいい、僕をひとりにしないでくれとばかり考えているのだった。
僕はさらに絶望の二時間を歩いた。全く緩やかにではあるが、日が傾き始めていた。道路は永遠に続くように思えたが、ずいぶん前から見えていた、コンクリート製の小屋にようやく辿り着いた。僕はふたつのことを考えていたのである。今夜はここで眠ろう、ということと、最終的に食料なり何なりが十分に持てるようになったら、ここを新たに家として使う可能性もあるだろう、ということだった。しかし後者については、あんまり絶望的な状況なので、そういう小さな可能性のことを考えるだけでも勇気が出るから、強く想像したというだけに過ぎない。食料がわんさかあるなら、そこにとどまればいいのだから。
そしてみっつめに、僕はありそうもないことを、少しだけ期待していた。ここに食料が、少しくらいあるかもということである。
コンクリートの小屋には、錆び付いた金属製のドアがひつとつあるだけだった。僕はできるだけみっつめの期待のことを考えないようにして、ドアを開けた。中身は空っぽで、あの八百屋の二階と全く同じ調子だった。僕はやっぱり、がっかりした。しかし気を取り直して、ふたつの選択肢について考えた。
せっかく小屋を見つけたのだからまずは休憩して、それから、目が覚めたら続きを歩こうか。それとも、こんなところで時間をむだにせず、どんどん歩き続けようか。
僕は空腹による死が苦痛のないものならいいのに、と想像しながら、結局前者を選んだ。脚が棒みたいだったのである。
埃っぽいコンクリートの正方形の部屋の隅で、僕は膝を抱えた。そして想像するのは、退屈とはいえ楽しかった、平和な日々のことだった。
町の北のほうには、素晴らしい古書店があった。僕は死ぬまでかかっても、あの蔵書を読破することはできないだろうと思った。みんな、読んだ本はあそこへ売り返すものだし、書店のほうはほかの区画からも買い込んでくるので、常に一定数の本は揃っているのだった。僕は友達とバスケットボールなんかをやる気が全然でないときには、あそこでニ、三冊、目を付けておいたのを買いに走った。僕は推理小説が好きで、科学小説は嫌いだった。といっても、推理小説というものは謎とその解法を中心とした芸術だが、僕はもっぱら、登場する人たちの古い生活様式を楽しんでいるのだった。彼らは地上全体に張り巡らされた電気と水とを使って、何でも自由にすることができたのだ。僕らにも電気と水の恩恵はあるが、それは地球全土を覆うほど発達したものではない。それに一番おもしろいのが、飛行機や船の話だった。そういうものは今でも現実に存在するのだが、僕が僕たち“区画民”の一員である限りにおいては、絶対にお目にかかれない代物なのだ。飛行機っていうのはばかでっかくて人が何百人も乗れて、空を飛ぶことで車輌など既存の輸送手段の欠点の多くを克服したものだ。燃料や機器の維持にかなりの金がかかるようだが。それから船というのは、文字通り船だが、当時の船というのはただ楽しみのために乗るものだったのだ。昔の人たちは町では演劇も海も見ないくせに、船の上では見るのだった。彼ら大昔の人々にも日常から離れたいという願望が少なからずあったという事実は、僕を勇気付けもした。
やがて、すぐに本当の眠気に襲われて、僕は眠った。小屋は厚いのでドアは開けておいた。こんなところで布団もなしに眠るのは初めてのことで、実を言うととても寂しく、辛かった。けれども疲労は、僕を優しく包んで寝かせたのだった。
翌朝、僕は夕暮れと同じ色の朝焼けが部屋に注ぎ込む中で、目を覚ました。しかし何も、自然に目覚めたのではなかった。
確かに眠りは浅かったが、そうでなくとも僕は飛び起きただろう。外から、重たいエンジンの音が聞こえたのだ。それもたくさんある。僕は軍隊か、外の人間たちか、とにかく誰かが車で走っているのだと知った。僕はすぐに起き上がって外に出た。政府軍の車輌が何台も並んで通り過ぎるところだった。どれも同じ、ばかでっかい直方体の六輪車で、兵士をたくさん運ぶためのものだ。彼らは区画のほうからやって来て、どこかへ行くところだった。僕は両手を挙げて大声を出し続けた。政府軍は僕を撃つかもしれなかったが、僕はそんなことは考えもしなかったのだ。
すると、誰かが僕を見つけてくれたらしい。車の行列は減速して、ずいぶん離れたところで停車した。それからいずれかの車輌から降りたのだろう、僕のところまで兵隊がふたり、走って戻ってきてくれたのだ。僕もそれに応じて走っていった。近付いてみれば、兵隊は普通の人間で、政府軍と分かる真っ白の戦闘服を着ている。
「君は追放されたのかね?」
ひとりが訊いた。僕は違うと答えた。
「僕はニューパナマ区画の住民でしたが、ちょっとした手違いで、区画を出てしまったんです」
ちょっとした手違いときた。僕は自分を激しく呪ったが、しかし嘘としては、当たり障りのないものだった。兵隊ふたりは顔を見合わせ、それから僕を放射線測定器で調べ始めた。もちろん放射線量は申し分のないほどの安全域だ。兵隊は再び顔を見合わせてから、僕に、付いて来いと言った。
「区画へ帰してもらえるんですか?」
僕は期待を込めて訊いた。兵隊のひとりが歩き出しながら答えた。
「それはできん。しかし、町まで連れていってやることはできる。外の人間たちの町にな」
僕はがっかりしたような、それでも安堵したような、複雑な気持ちになったものだ。何にせよ、ここには僕があれほど待ち焦がれた生きている人間が大勢いるのだし、それも心優しい政府軍なのだ。僕は泣き出しそうなほど嬉しかったが、別に自然と涙がこぼれるほどではなかったので、無理して泣こうともしなかったが。
装甲車の中にはたくさん兵隊がいた。僕はびっくりしたし怖かったが、彼らはこちらに敵意を向けたり、からかったりはしなかった。そして車が走り出してからも、さっきの二人の兵隊のうちひとりが僕に話しかけてくれた。
「町はすぐだ。手短に言うと、そこには生活に必要なものはほとんど全部ある。別に飢餓で苦しんで死ぬなんてこともない、ただ、もう区画には戻れんし、政府の手は借りられぬということだけさ。それにちょっとばかし、放射線に対しては脆弱な環境だな。環境ハウスなんてないんだから」
「普通の人間が住んでいるんですか、野蛮人などではなく?」
僕は思わずたずねた。兵隊はびっくりしたように目を見開いてから、愉快そうに笑った。
「いいや、いや。大丈夫、やつらは気のいい連中だよ。向こうにゃ農業もあれば、区画の中と大して変わらない小経済もあるし。仕事だって探せばあるさ、お前さんが一生けんめい働こうとする限りはな。お前さん、親御さんはいるのかい……」
僕は、僕に家族はありませんと答えた。
兵隊は少し関心したように頷き、僕の肩を叩いた。
「そうか、それじゃ、別に寂しくも何ともねえよな。うまくやれよ。だいたい二日で着く」
彼の言葉に僕はびっくりした。いや、冷やりとしたのだ。この車が二日かかるなら、歩いて辿り着ける距離ではないのだ。もしこの一団に発見されていなかったら、僕はその町の存在を知ることもなく死んでいただろう。それに、寂しくも何ともないわけはなかった。友達やたくさんの隣人たちを、僕は失ったのだから。
しかし兵隊は気を利かせて、僕に腹は減ってるかとたずねてくれた。僕はできるだけ控えめに聞こえるように、一日食べておらず腹ぺこだ、と答えた。それで、兵隊はよくくすねた食べ物なんかを見つからぬように身に付けておくらしいのだが、クラッカーをひとつ貰った。僕はこんなものでお腹が元気になるはずはないと思ったが、信じていたよりもずっと効果はあるのだった。食べるものが絶対に、見渡す限りにひとつもないというのと、この先どうにか無理をすれば、手に入れることも可能だというのでは、全然違うのだ。それを僕の頭より先に、お腹のほうが理解してくれたらしかった。
僕は引き続きぐっすり眠らせてもらった。どんなにだらしくなくしていても、僕に比べればずっとしゃんとした兵隊たちの前では、ただ眠ることさえ気が引けたが、とにかく僕は眠ったのだった。しかし日にちゃんと三度ある食事の時間には、かなりまともなものを食べさせてもらった。一緒に拾われたらしい病人らしき女の子があったが、彼女はあんまり食べないし、ほとんど口も聞かぬということだったので、僕は興味を失ってしまった。僕はがつがつと食べ、気のいい幾人かは、ふだんなら仲間にあげてしまうようなおのおのの苦手なメニューを、全部僕にくれたのだった。僕はこのとき、思いがけず泣いてしまった。周囲に親切な人がいて、食事を腹いっぱい食べられるというのは、それほど幸福なことだったのだ。
旅の終わるころには、何人かの兵隊の名前は覚えてしまった。それから彼らの目的も分かった。
彼らは、いまだに政府軍に楯突いているというゲリラ組織なんかを、退治しに出かけるというのだった。実は天蓋から地上に派遣されている政府軍はそれほど多くなく、装備も不足しがちなのだという。僕は天蓋に軍資金がないからだと思い、そう言ってみたが、兵隊はきっぱりそうではないと答えた。しかしそれ以上たずねる気にもなれなくて、天蓋から地上に派遣される軍隊が不足している理由を、僕は知ることはなかった。
とにかくそうしたわけで、軍隊は戦闘が起これば、区画を拠点としつつ各地を転々としなければならないのだった。
そして町で、僕は手短に降ろされた。軍隊はまだまだ南西に向かうということだった。僕は心から礼を言ったが、もはや彼らともお別れだ。二度と会うこともないのだろう。
区画を出発したときと同じような昼下がりだった。
町は、僕が一晩を過ごしたあの小屋のごとくに、灰色のビルに覆われ、埃っぽかった。金属という金属は錆び付いてひしゃげ、たくさんの機械が朽ち果てている。恐らく正規軍にとって敵だったやつらのものだろう、四輪のジープや、砂袋を積み上げた防壁などがある。僕にはそれらが何であるか、すぐに分かった。区画の人間で、外の文明についてかなり詳しい人は多い。星座のようなものだ。生活とは関係がないが、興味を誘うものなのだ。それで僕も、詳しいのだった。
これら廃棄物の数々は用もなければ邪魔でもないので、ずっと放置されているのだろう。そして僕が驚いたことには、街路には人の往来があるのだ。
僕は心細い気持ちと安心したような気持ちを同時に味わっていて、つまり、必死だった。
軍用車の列は去った。僕はさっそく通りに入ったが、ここが区画と同じようにただの町なら、話の分かる大人だって何人か混ざっているはずだ。
「君、名前は何と言ったっけ」
僕は思いがけぬ声に驚いた。振り返ると、あの病人の女の子であった。色白でいかにも陽光を知らぬという感じであり、髪は染めたのだろうが雪の白色だった。光を入れれば銀と呼んでもいいくらいの白さではあった。それをたっぷり伸ばして、上品で柔らかいウェーヴをかけている。長旅のせいか癖毛ぎみだが、それもこの色合いに複雑な乱数の飾りを加えて、おおむねいい効果を与えているのだった。
そして両目は、こんな趣味は見たこともない、赤色だった。血の赤だ、僕は怖くなった。それに着ているものだって、レース地で複雑な模様をたくさん付けた白のワンピースに、上から何やら砂漠の野戦仕様のジャケットみたいなものを羽織っているのだ。このジャケットは薄い砂色で、幾何学の迷彩に染められて、何か民族衣装らしき布切れで裾を飾ってある。食事のときも彼女のことなど全然考えていなかったので、こうして目にすると僕は気おされてしまった。まるで知らない文化圏の人だった。遥か遠くの区画では、これが当然の格好なのだろうか。新しい場所で生活していくことへの緊張がなければ、もっとずっと怯えるはめになっただろう。
しかし僕は、頑張って答えることができた。
「僕はヨナ」
「ヨナ?」
女の子は氷で冷やした金属みたいな声だった。僕は怒鳴られるのが分かっているときに質問に答えるのと、全く同じ調子で答えた。
「そうだよ、ヨナ。君もこれを女性名だと言うんだね?」
「いいえ」
と女の子は言う。
「とても有名な男の人の名前だわ。ただ、知っている名前だったもので」
「僕は知らないよ、有名な女の人以外にはね」
そう答えてみると、先ほどよりはましな気分になった。自分がよくからかわれた名前のことで、少し彼女に気を許すことができたのだ。僕には何と、このように聞き返すことまでできた。
「それじゃ、君は何ていうの?」
「私はエリック」
僕は思わず彼女の目を見た。
「それ、男の人の名前だよ」
すると少女はこちらをじいと見つめ返し、しばらく沈黙した。僕の目の中を見れば、僕がどんな人で、どんな人生を歩んできたのか、全部はっきり見通せるというような目だった。僕はこのあいだ、彼女の厳しい美貌とでも呼ぶべきものに注目することができた。彼女はあの、幼い女性だけが持つことのできる“完璧な”美しさを保ったまま、それでありながら肉体の幼さを引き抜き、さらには厳しい知性によって十分にこれを冷やしたという印象である。僕はこんな少女を見たことはないのだった。
それから、ついと目をそらし、彼女は言った。
「有名な女の人の名前よ」
再び僕を見るときには、いくらか人間らしい目付きになっている。
「今のは嘘。あなたが人の名前をからかうかどうか、見たかったから。誰かに食われるものは、やはり誰かを食うのね?」
僕はもしかすると、道徳的な欠陥をそしられているのだろうか?
しかし彼女は笑って、僕の前を横切って、通りを歩き始めた。
「本当の名前はヴァイス。あらゆる言葉で“白い”って意味だよ。ほら、もう行きましょうよ。案内してあげるわ」
僕は彼女の申し出にいささかびっくりして、よほど変な顔をしたのだろう。彼女は眉を持ち上げた。
「実はね、このあたりに詳しいの。何かの縁だから、ここで上手くやっていけるように、手伝ってあげるよ」
僕には、彼女がどうしてそこまでしてくれるのか分からなかった。けれど、ついに知ることになった。というのも、彼女はとても気さくな人で、迷子の少年ひとりを少し手伝うくらい、何とも思わないおおらかな人だったのだ。
そして僕は、彼女にいろいろ訊いたが、彼女はいらだつということを知らなかった。彼女はたいてい何でも知っていたけれど、どれくらい自分が知らないかについても熟知していた。そしてたずねられたことにはできうる限りよく答えた。
彼女は区外の人間だった。いくつかの町を旅行のつもりで定期的に渡り歩き、たいてい、自由気ままに暮らしているという。日銭を稼ぐのはバーの給仕やら、農業の手伝いらしい。農業といっても、農業のために使う道具や機械の整備ということらしいが。移動は徒歩で構わないのだが、運悪く軍隊に捕まっても、どこかしら人のいる町には連れていってもらえるので、今のところ彼女の転住生活はうまくいっているようだ。この話をしているときに、彼女は興味深いことを教えてくれた。
「あなたも放射線強度を測られたでしょ?」
「うん。測られた。まるで実験動物にでもされたみたいな――」
「私はね、荷台に、武器やなんかと一緒に入れられてたんだ。あのテストに合格してもそうでなくても、ちゃんと運んでくれるのよ。いい人たちでしょう」
僕は喜びの声を上げた。
「全く、政府軍ってのは素晴らしいな。欠点なんてまるで――」
「今みたいな関係である限りはね」
とヴァイスは言った。
「でも、それは軍人に限ったことじゃない。誰だって、利害がそぐわなければ、そのときには敵なんだから。家族や友達でさえも」
「しかし、それだけじゃないぞ」
僕はまた、話を変えた。訊くべきことはまだあった。
「君は町から町へ移動するのに歩くと言ったけど、食事も飲み水もなしに、何日も歩くなんてむりだ」
「この通り」
と、彼女の砂漠ジャケットからはいくつも、袋が出てきた。売りものらしいアルミ蒸着の包みや、ソーセージ、そのままの干し肉。これらの重みを僕に分からせようと、彼女は全部をいちいち手渡してくる。僕の手に持ち切れぬほど大量の非常食やら保存食やらがのっかり、それで僕は確かに納得した。彼女が軍隊との食事をほとんど欲しがらなかったのも、これらのおかげなのだ。
僕らは通りを歩いた。
驚くべきことに、彼女を知るものは大勢あった。通りすがりの老人や子供たち、そのうちのほとんどが彼女を知っていた。
そのたびにヴァイスは静かにではあったが、本当に誠実な挨拶を返すのだった。まるでつい昨日までの、相手の生活を全部隣で見ていたというような親密さで。
ことに、彼女が懇意にしているという酒場に入ったときの歓迎ぶりは盛況であった。彼女の連れということで、僕も比較的早いうちに受け入れてもらえたようだった。たくさんの大人、それに僕より年下の少年から、老人まで。いろんな人がいた。女性もちらほらとではあるが、やはりいるようだった。僕は“外の世界”と恐れていた場所に、これほど温かく人間味に溢れる世界が広がっていたとは知らなかった。これには感銘を受けて、ついつい血の気の少ない僕ですら、いくらかはしゃいでしまったほどである。
店長の大男は僕にビールを飲ませようとして、この気持ちはとても嬉しいのが、僕はやはりだめだと言った。あらゆる酒類は成人しなければ飲んではいけない決まりなのだ。環境ハウスの規則にはっきりと書かれてある。そして体の耐性が完成されていないごく若いうちにこれらを摂取するのは、とても危険なのだと僕も知っていたのである。
しかしこのことを伝えると、店長は首を振り、穏やかな笑みを浮かべた。
「そいつは連中の嘘っぱちさ。ここにいる子供たちはみんな、そんなもの、おやつのビスケットと一緒に飲むんだぜ」
「だがおれは八十まで生きてる」
と、別の老人が声を上げた。
「しかしあんたは例としては適切じゃないぜ」
また別の誰かが、老人に向かって言った。
「あんたの頭は、あんまりまともじゃなくなってきてるからな」
ここで大笑いが起こった。僕の体は震えていた。こいつらは狂っているのだ――あんなに危険なアルコールを少年のうちから日常的に摂取して、そして年寄りになれば嘲笑われるほどの知能の障害を発露するのだ――、僕はそんな考えに囚われたのだった。それは誤解だ、じきに分かる、と彼女は言い、僕を知人の空き部屋まで連れてきてくれた。さらには、食事などが欲しければむろん働かねばならないが、仕事を見つけるまでの食費は、私が貸してやろうとまで言うのだ。僕は彼女のために使用人として働きたいなどと冗談を言ったが、仮にその通りになったとしていても何ら不平はなかっただろうと思う。
日はゆっくりと傾いていた。ヴァイスは僕に、案内したい場所があると言った。
僕が連れてこられたのは、町から一時間も歩くミサイル施設だった。その道すがらも、僕は彼女のいろいろな知識を吸収して、飽きることはなかった。
辿り着いてみると、広大なコンクリートの広場で、地下のミサイルを隠しておくための分厚い金属の床扉がいくつもある。これらの中には開け放したままのやつもあり、だから暗い底を見ることができるのだが、危険なので僕は近付かなかった。ちらと中をのぞいたところでは、長年の雨がついに中ぐらいまで溜まって、汚れた貯水槽になっている。ミサイル自体は見当たらないので、もしかすると、ここからも核ミサイルが飛んでいって、任務を果たしたのだ。
これらはいわゆる“サイロ”というやつで、かつてはこんなものが世界中どこにだって、余るほどたくさんあったらしい。しかしこのコンクリートの広場には大量の砂が侵入しており、島状のひと塊の上には、何やらいろいろな植物が生えていたりするのだ。ここはいささか寂しいにしても、コンクリートの庭だった。遠方にはいくつも、出発の日に見かけたような砲台が等間隔で並んでいる。僕はすっかりここが気に入った。
「悪くないでしょ」
「とっても綺麗だ。大して、綺麗でもないのに……」
ヴァイスはしゃがみこんで、コンクリートの裂け目から伸び出ている細長い草を引っ張った。
「でも、気を付けてね。このあたりは少し汚染が始まってるから」
僕は測定器を使ってみた。確かに標準よりは高レヴェルだ。ヴァイスはこの装置を珍しそうに一瞥したけれど、また草との格闘に戻り、続けた。
「爆心地が近いの。近いと言ったって、うんと離れてはいるんだけど」
「この近くでも爆発が?」
「国境の向こうだから、直接の目標はこの国じゃなかったんだけどね。何にしたって、どこで爆発しようが、地球上の誰にだって関係はあるんだから」
僕は彼女がこの口調になると、質疑応答の時間なのだと勝手に解釈した。
「たった一発で、国ひとつを滅ぼすほど恐ろしいものだというのは本当?」
ヴァイスは首を振り、涼しげに笑った。自分が今話しているものについて、自分自身は考慮する必要など全くないのだという自由を、心から愉しむような笑いだ。
「一発なら、町を丸ごと何十個も滅ぼせるってぐらいね。でも、これをどこの国も何万発も持ってるんだから、大した違いじゃないよ」
「恐ろしいんだろうな」
僕は大した感慨もなく、ごく当然の言葉としてそれを言ったが、彼女は急に、いくらか寂しげな声で言った。
「もう誰も、あんなもの見なくていいんだもんね。それがいいよ」
帰り道には、建設用の機械だという首の長いやつが朽ち果てている道を、あえて選んだ。僕は彼の長い金属の首の上を、両手で平衡を取りながら歩いた。彼女は僕の知らない鼻歌を歌っていた。長い音がたくさん使われていて、必要な場所に必要な音程が与えられているような旋律だった。僕は思わず、彼女が歌っているのを遮って訊いてしまった。
「それ、古い歌なの?」
「そうだよ、古い歌。ずっと昔からあって、みんなのあいだで歌い継がれてきたもの」
と、ヴァイスは背筋を伸ばす。
「昔知り合いだった人が、これを聴くのが好きな人だったんだ。もう病気でいなくなってしまったけど、それで私はこの歌を忘れない、ってわけ」
「そうかあ」
そんな具合で、僕らの帰り道はやはり、退屈しなかった。かつては生活の活発な地域だったらしく、道の近くには建物や機械が、たくさん放置されていたのだ。そして僕らが町に帰ってみると、僕に仕事が見つかったという手紙が届いていた。ほかのどこでもない、今日世話になったあのバーに、若い男性の働き口がひとつある、というのである。僕はこの、誰から届けられたとも知れない手紙を本当に大事にテーブルの上において、新しい部屋のベッドで眠った。今日は新しいものをたくさん見過ぎたためであろう、僕の夢はちゃちな想像における古い文明の隆盛、そして戦争の白い光。奇妙に親しみやすいその光景の中で、僕は、憧れていた海を見るのだった。
夢で見た海が忘れられず、僕は翌日には、仕事のあいだに時間さえあれば海へ行く方法を調べようという気分になった。核のせいで海が干上がったとかいう事実がなければいいが。僕の知る限り、汚染レヴェルはまちまちでも、遠くから見る分には何千年も前から変わらない、その巨大な水たまりはまだ実在するはずだった。
目が覚めたのは日も出ぬうちだった。ベッドを抜け出し、僕はさっさとバーへ向かう。もしかすると店長はすごくまじめな人物で朝早くから店を開けているかもしれない。
道はそれほど複雑でもなくて、僕は迷うこともなかった。店の前に来ると、明かりはまだなかった。道には犬の散歩に付き合わされている子供なんかとはすれ違った。僕はヴァイスがやったみたいに愛想を振りまくべきかと考えたけれども、気が進まないのでやめた。朝とはいえ、夏なので寒いなんていうことはない。僕は店の前の階段のところで眠って待てばいいと考えたのだった。
結局、僕は眠れなかったが、区画にいたころと同じく、知りようのない世界の真実に思いを巡らすのだった。あのいくつもある塔たち。天上を一定の周期で動く巨大な天蓋。人は核の荒廃と、放射線の危険から逃れるために天上を目指したという。僕たち危険な遺伝子特性を持つ区画民を置き去りにして。
一時間ほどすると、遠方からヴァイスが歩いてくるのが見えた。あの白髪と赤い瞳はかなり離れていてもすぐに分かるのだ。僕は最初の友達に対してすでに大きな信頼を寄せている。立ち上がり、手を振る。彼女も手を振ったが、砂漠ジャケットの袖がするりと落ちて、やたらに細い手首があらわになるのだった。
「早いのね」
ヴァイスは言って、店の中を見やる。
「店は昼過ぎまで開けないのよ。あなたを起こしに行ったら空っぽなんで、ここじゃないかなって思った」
「僕を起こしに、どうして……」
「探検に興味があると思って。私にも見せたい場所がたくさんあるの」
僕は海のことを話した。
「ああ、それなら」
とヴァイスの表情も明るくなる。
「ちょうどいいよ。西に一時間歩けばいいんだから」
「そんなにすぐなの?」
「そうとも。行きましょうよ。ねえ、お腹減ってる……」
僕は減っていると答えた。
「だと思った」
彼女のジャケットにはいろいろ入っているのだろうが、しっとり焼き上げたクッキーもあった。楽しみのための料理を行うことは自分の趣味なのだと彼女は説明してくれた。僕は一枚を受け取って夢中で食べた。それから、それを絶賛した。まるで百年もクッキーばかり焼いていた人が作ったみたいな、余裕に満ちた技巧の高みだった。僕には区画の量販店で買ってきた簡易食料を混ぜ合わせることくらいしかできないから、これには衝撃を受けたのだった。僕の知っているクッキーというのはもっとでかくて、ひと口かじればヒビ割れが即座に成長し、粉々に崩れ落ちるようなものだったのだ。
僕らは海に向かって流れるという用水路を辿った。白いコンクリートでできた川で、跳んで向かい側まで行けるかどうかという幅だった。歩いていれば、錆び付いた水門やバルブが、それに沿ってときおり現れる。用水路の中にも砂がたくさん流れ込んでいて、この砂の上には植物がたくさん棲み着いている。白い海鳥なんかがときおり、魚を食べに残虐な口を開けて降りてきた。遠景にはやはり未開の草原地帯や、まばらな建物の亡骸がある。それと核砲弾を撃つための巨大な砲台も。
「この川はね――」
ヴァイスは言った。
「昔は工場や町の排水を流すためのものだったの。今はとっても綺麗でしょう」
「うん。コンクリートでできているってこと以外はね」
「私にはこんな気がするの。人間たちは自然が作った、一種の、地上の形を神様の思い通りにするための働き蟻みたいなものだったんだって。神様が地上をこんな形にしたかったんだとしたら、結構、いい趣味だと思う。それに人も、役目を終えたら自分たちで店をたたんで、さっさと職場を離れてしまったでしょう」
と、手近に見える天蓋をひとつ、指差すのだった。結晶性の巨大な金属が、空の青にかすんで、遠くに浮かんでいる。
「人がもたらした破壊は絶対に許されるべきじゃないよ」
「ちゃんと、許されなかったでしょう?」
「そうかな」
僕はポケットに手を突っ込んで、のんびり歩いた。ヴァイスはどうやらこの問題に、格別の興味があるらしかった。
「それじゃ、戦争は愚かなことみたいに言われているけど、犬でも猫でもやっていることじゃないの?」
これには、僕も少し考える。
「個人レヴェルではね。縄張り争いに核を使い始めたら、やっぱり愚かだと思うもの」
「地上を犬だけが支配している世界を考えてみましょうよ。しかもその犬は、チームを組んで行動することができる、社交的な生き物に進化してるの。犬たちは食べ物が少なくなってきたとか、同じ理由でこちらの縄張りを脅かそうとするやつがたくさんいるものだから、追い返してやろうと考える。ほら、二億匹の犬が同じチームの犬で、同じ目的のために戦おうとする。これが戦争」
「犬を人間みたいに設定したところに問題があるんじゃない?」
「ないと思うわ。人間って、とても賢くなったせいで愚かにもなったとは言えないかな」
僕が返事を考えているあいだに、ヴァイスはくるりと回って前に向き直った。
「しかし戦争で同族を何億匹も殺すことが愚かなことかしら。だとしたら生き物ってみんな愚かよ。生きるために食べて殺すことだけが、その目的の全てなんですもの」
「それじゃあ僕らは、そうした破壊や殺戮といったことを、“愚かで忌むべきもの”と定義して、やめようと努力したってことにはならないかな」
「どうしてやめようと思ったのかしら?」
僕は眉をひそめる。
「僕らには高潔なものに憧れる癖でもあるんじゃないかな」
ヴァイスが笑った。僕も笑い出しそうだったが。それから、ヴァイスはいかにも明るい調子で言った。
「お腹いっぱい食べて、よく眠り、できるだけ長く死なないでいることだけが、生の充足の全てじゃなくなったよね。人は本来補助的なものであったはずの社会性をこじらせて、頭もよくなり過ぎた。それで社会的な欲求というものも満たさねばならなくなったわ。ときには生物的な欲求を差し置いてもね」
彼女が皮肉を言っているのだと、僕も遅れて気が付いた。
「高潔さや賢明さを求めるというのは、それによって社会的によりよく評価されたいという欲求のために決まってるわ。縄張りを守るために平気で核を撃って人をたくさん殺しておいて、仲間内では、これは愚かな行為だと言い合って偉い人物にでもなったつもりでいるのが、人間なんじゃないかしら」
「酷い言われようだね。僕、そこまで酷くないと思うんだけど……」
「悪く言ってるんじゃないの。ただ、平均を取ればそんなところなんじゃないかって、思うだけ。私、みんなのこと好きだもの」
いよいよ海が近付くと、背の高いビルがたくさん現れた。傾いているのや、崩れているのもある。途中までしかないものも。
「ここは戦闘があった場所なのよ。戦術レヴェルの核も使ったんじゃないかな」
「人は住んでないの?」
「ひとりもね。汚染強度が高いから」
僕は反射的に測定器を取り出している。
今すぐ逃げ出したいというほではないが、確かに安心して何年もとどまれるような数値ではない。僕は測定器をしまった。
「この何日かで、結構、被爆してしまった気がする。何か月分だろう」
「死にゃしないわよ。でも、そうね、今でもほとんど近付けない場所も、この世界にはたくさんあるのよ」
引っ繰り返ったまま朽ち果てた車、崩れ落ちた看板。焼け焦げたビルのロビイ。ここで人をたくさん殺す戦争があったのだ。
「私、一度だけ行ったことがあるんだけどね。綺麗な丘。ほかのとこに比べて、さほど華やかな場所ってわけでもないんだけど、景色もよくて、花がたくさん咲いてた。そこにあったレーザ観測所を壊すために核砲弾が二発も打ち込まれて、一帯の汚染は深刻になったってわけ」
「でも、砲弾の放射線なら、あんまり残らないはずだよね?」
「相手をもっと長く痛め付けるのに遠慮なんかいらないわよ。砲弾の弾頭には工業レヴェルで大量に生成した核汚染のための物質が、たっぷり入ってるんだから。それをやらない“高潔な国”もあったみたいだけどね」
「大した違いじゃないでしょう?」
「ええ、もちろん。核ミサイルを撃ち落とすのに核ミサイルを使ってた時代よ、まともな国なんかひとつもないわよ」
ヴァイスはなおも続けた。
「でも、あの丘は本当にいいところだったな。あなたが被爆を気にしないんなら、一度だけ、ほんの数分でもいいから、連れて行ってあげたいな」
「そんなに酷いの?」
「うん。あそこに数時間もいれば、もうだめね」
僕らはそれから、海に辿り着いた。
僕は海の手前には砂浜というものが広がっているのを忘れていた。浜辺は大小の貝殻や海草で埋め尽くされ、戦車のための障害物であるらしい金属製の巨大な構造物が、大量に敷き詰めてある。それは高さが僕の身長の二倍もある鋼の構造物で、とても無骨な形状をしていたが、僕にはえらく原始的な守備に見えたのだった。
沿岸には、上陸してくる敵に向けられた砲台が数え切れぬほど並んでいる。この国は砲台がお気に入りだったのだろうか。
海は広かった。人工物にせよ、自然のものにせよ、僕はこんなにでかいものをほかに見たことはなかった。あの天蓋でさえ、地平線まで届くほど巨大ではないだろう。塔は長さの上では勝負ができるかもしれないが、表面積や体積ではどうだろうか。そしてこの見渡す限りの水は、僕が思っていたよりもずっと陰鬱な色合いで、決して青いとは言えなかった。濁った深緑色なのだ。僕は突き抜ける秋の空のように、青いのを想像していたのだった。この汚さには何かわけがある、例えば核攻撃による汚染で、おかしくなった微生物が大量に発生したのだ、などと僕は考えた。
この意見に対しては、彼女は首を振った。
「海ってこういうものなのよ。たいていは」
「君は本当に何でも知ってるんだな。まるで、何千年も生きて、それを見てきたみたいに?」
「あなたと一緒に区画へ入ったら、私も今のあなたと同じ気持ちになるわよ」
ヴァイスは波から遠いところでしゃがみ込んで、名前もない小さな花を摘み取った。紫色の素朴な花だ。
「そんなものかな」
「そうですとも」
僕は波の近くへ行ってみた。汚染の具合はやはりそれほど酷くはなかったが、区画の中でならあまりないような数値を出していた。水が汚れているのではなくて、このあたり一帯がどうしようもなく影響を受けているのだ。僕は振り返った。波に触れてみたいのだが、ひとりでやるのは怖かったのだ。
「君も来たらいいよ」
ヴァイスは摘み取ったばかりの花をつまんだまま首を振る。
「私、海が怖いの」
僕はがっかりして、それからいくらか考えたけれど、諦めて彼女のところに戻った。
「僕もだよ。海の波ってあんなに、振幅の大きいものなんだね」
「もっと酷いときもあるわよ。地形にもよるし」
朝の九時とか十時ぐらいまで、僕らはしばらくゆっくりした。砂浜に腰を下ろし、僕が知らないものについてたくさん話した。彼女は水筒を二人分用意してくれたので、僕は綺麗な水をたっぷり飲むこともできた。海鳥が寂れた声で鳴いて、まるで世界が終わったあとみたいな、鮮やかな青空が広がっていた。
僕らは帰ることにして、今度は複雑な三角形を組み合わせた、大きな鉄橋を渡った。自然の川に渡してあるもので、鉄橋の両端近くには歩兵向けの機関銃が放置されていた。
「ねえ、今でも戦争があるんだよね?」
真っ黒な重機関銃を見やりながら、僕は訊いた。ヴァイスは頷く。
「ええ。思ったよりたくさんね」
「でもそれって、誰と誰が戦ってるの?」
「政府軍と、反乱軍。私たちみたいな区画外の人間の中には、区画に対する劣等感があるのよ。それで、自分たちにも区画の中で過ごして、環境ハウスの恩恵を得る権利があるはずだって主張してるわけ」
「君にも区画に対して劣等感があるの?」
ヴァイスは振り返る。
「あるように見えて?」
僕は肩をすくめた。そうは見えなかった。
「それじゃあ、あの町にも反乱軍がいるってことなの?」
「今はいないわ。死んだか、戦うことをやめてしまったから。バーに何日も入り浸ってみたら、政府軍の悪口を言う人は見つかるんじゃないかな」
帰ってみても店は閉まっていて、僕とヴァイスは二人して待った。
「ねえ、ヴァイス」
戦争の一番激しい時期には、原子力発電所がテロ攻撃によって失われることはもはや常識だったなどという、うまく感動の付いてゆかないような話を聞かされたあと、僕は呼びかけた。
「君が言ってた丘のことなんだけどね」
僕は今日、この瞬間までのいろいろな旅が本当に面白かったので、こんな決心をしたのだった。
「僕は行ってみようと思う。できる限り近付くだけでもいいんだ。君さえよければだけど」
「一度ぐらいなら大丈夫ね、近付くだけ。それなら、きっと」
ヴァイスは思いのほか嬉しそうだった。きっと、それほどお勧めの場所だった。
「でも、少し遠いのよ」
「どのくらい?」
彼女は困ったように顔をしかめる。
「まる一日ね。東に」
と、指を刺す。僕は訊いてみた。
「このバーには定休日はないのかな」
「一日ぐらい、休ませてもらえばいいじゃない。どうせ名誉職なんだから」
あんまり彼女が平気で言うので、僕は心配になる。確かに彼女の言う通りだけれど、わざわざもらったものを、子供みたいな都合で付き返すのはどうだろうか。
「それって何だか、悪い気がするな」
「私から話せば何とかなるわよ」
「そうかな?」
ヴァイスは頷いた。
「任せて」
店長が現れて、僕らを店の中に入れた。それから僕はびっくりするはめになったのだが、何と、彼女もここの店員になるのだという。ジャケットを脱いで、入り口のところの、客のためのハンガーにかけてしまう。例の豪華な白のワンピースの上から、使い古された紺色のエプロンを着て腰の紐を締めると完成だ。僕もそれにならった。安っぽい作業ジーンズと白いカッターシャツの上に、緑色の裾が長いエプロンを着るのだ。
店長は名前をフランシスと名乗った。大男で、一日分の無精ひげがあり、短い銀髪だ。それから皮膚は褐色だった。とても力強く、陽気な笑顔の似合う男性なので、僕は早速、彼に好意を覚えていた。昨日はアルコールのことで酷く怯えさせられたけれども、文化や精神のレヴェルは同等のはずだ。宗教が違うからといって殺し合う必要はあるまい。
フランシスは僕に食器洗いを任せた。酒を作るほうにはコツがあり、すぐには覚えられぬだろうという配慮だった。食器洗いと給仕、テーブルの掃除なんかが僕の仕事になった。これで丸一日、ラジオでも聞きながら店が回せるぜと、フランシスは喜んだ。自分にもできそうな仕事で僕はありがたく思ったものだ。それでも、客が増えてくると大忙しになると、ヴァイスは忠告してくれた。
開店が近付き、僕らの準備も終わったころには、僕らは会話をして楽しんだ。ここではフランシスが区画の暮らしに興味を示したので、僕もどうにか、嫌味たらしく聞こえないように工夫して答えたものだ。だが、話しながら、区画の生活より町の生活が劣っているというのは全くの誤りであることが分かってきたのだ。僕は無意識に持っていた区画民としての誇りを失ってがっかりした。
「燃料が欲しけりゃハウスで買わねばならんのか」
「そうです、そこでしか買えないんです。必要なものは地下のトンネルを通って、区画に運ばれてきます。町にないものを探したければ、お金を払ってトンネルを通らなきゃいけません」
「それって不自由じゃないか?」
僕は疲れ果てて頷いた。
「僕もそんな気がしてきました」
こんな具合で僕たちが話していると、外が騒がしくなった。聞き覚えのある音だった。
僕ら三人が出ると、例の政府軍の軍用車の列が並んでいる。そして兵隊がひとり出てきた。僕の世話をしてくれたあの人だったが、今回ばかりは僕のほうに目もくれず、店長のところへ走り寄ってきた。近付いてきてからようやく、僕をちらと一瞥し、「よう、坊主」とは言ってくれたが。
「フランシス、とんでもないことになったぞ」
兵隊は息を切らして言った。
「どうしたんだ、何があった」
「何があったなんてもんじゃねえ、これからだよ。こんちくしょうめ」
どうにか呼吸を落ち着けると、兵隊は言った。
「沿岸で核実験だ。強制立ち退き。区画民は二十時間以内にカーゴで搬出される」
「何だと?」
「実を言うとな、ゲリラがあんまり粘るもんだから、ここのところ“天蓋”も痺れを切らしてたんだよ。それで今回、見せしめのためさ、核実験と称して大規模な掃討作戦を行うつもりなんだ。おれたちが向かってた戦地な、ありゃゲリラの中でもビッグネームの根城だったんだよ」
店長は緊迫した声で言った。
「おれたちはどうなる?」
「すまんがおれたち軍人にゃ、お前さんがたをただのひとりとして助けちゃいかんと命令が出てる。逆らえば同じく“追放”さ。だから伝えるだけのことは伝えたぞ。どうにかして逃げろ。作戦実行は明日の正午だからな」
彼自身が、良心に苛まれているようだった。大事な友人を救えないこと、その上で自分は確実に助かると分かっていること、それらに気付いているのだ。兵隊は苦悩を押し殺して、すぐに背を向けて行ってしまった。やがて軍用車の旅団は走り去っていった。それからしばらく、店長は黙ったまま、自分の無精ひげを撫でていた。
「明日の正午までに逃げなければいかん」
彼はようやくそう言った。ほとんど気持ちが入っていなかった。
僕らは顔を見合わせる。ヴァイスが店長に向かって言った。
「ねえ、どうしても行きたい場所があるの。店の手伝いを放り出して申し訳ないと思ってるわ。でも――」
「行きなさい、ヴァイス」
店長は言った。そしてドアを開けて、ヴァイスにジャケットを返すと、ひとりで店内に戻ってしまった。全く打ちのめされた様子だった。
しかし僕らはみんな気付いていたのだ、僕らには逃げることなどできないのだと。
そして僕らは早速、彼女の言う丘への旅を始めた。エプロンにもお別れだ。水はたっぷり僕が背負ったし、食料は彼女が持っていた。
不思議な感じがした。僕は自分が死ぬことを何とも思っていないようだった。むしろ、この若く健康的な体を保ちながら、新たな世界での冒険の喜びに満ちた生のうちに死ねることを喜んでさえいるようだった。僕は浮き足立って歩いた。朝の旅行の疲労はかなりのものだったけれども、苦痛より大切な喜ばしい未来への想像というのも、この世にはあるのだ。僕は苦痛などほとんど無視して、歩き続けることができた。僕にとってはこの喜びこそが世界の全てだった。
「あの軍人が言ってた核実験って、どんなだなと思う?」
僕は訊いてみた。彼女なら正確なことを知っているかもしれないと考えたのだ。
ヴァイスは干し肉を辛そうに噛み千切って、顔をしかめた。塩辛いのだ。
「掃討作戦って言ってたわね。それで、区画民がみんな運び出されるほどだとすると、すごい破壊力の爆弾を使うつもりね。あなたが名前を聞いたことがあるような全ての区画、それに私が行ったことのある全ての町が、ものの数秒で失われることになる。かつて地上の文明を綺麗さっぱり洗い流してしまった、あの爆弾がもう一度使われるんだわ」
「そうか。区画ももうなくなってしまうんだな」
「でも、区画のあなたの知り合いはみんな助かるわ。環境ハウスが責任を持って避難させるから」
僕は頷いた。彼らが無事というだけで、どんなにか心強いことだろう。
草原には、あの砲台の列がやはりあった。崩れ落ちた巨大なホーヴァクラフトが、草原の主みたいに眠っている。そいつは、端から端まで歩くのに一分はかかりそうな長さだった。
「これはソヴィエト連邦のエアクッション艇。歴史上作られた中で、一番大きい」
「あの海から来たのかな?」
「そうだと思う。それとも、あの海に向かうところだったのかも」
このエアクッション艇は見上げるほどの高さだった。僕は古い文明に感嘆したが、やはり“塔”や天蓋を作ったほどの文明なのだ、このくらいはできて当然なのかもしれなかった。このホーヴァクラフトに出会ったあたりから、大量の軍施設や兵器群と出くわすことになった。長大な筒を背負った、ムカデみたいにタイヤがいっぱい付いた車を見かける。細長くて緑色だった。
「これは一般的な大陸間弾道ミサイルの車輌。冷間射出ね」
「何?」
「そういう発射方式があるのよ」
僕はこれには興味がなかったので、それ以上訊いたりはしなかった。
ときおり、道沿いに広い花畑が広がることがあった。野生の花畑というのは、僕には信じがたく、自然の造形能力の高さを思い知る機会をくれた。自然のものだからこそ、色の違う花がモザイクのように入り乱れてはいるけれど、それは否応なしに好ましい静けさをたたえていた。この花畑を荒らすものはない。僕らは自然という巨大な系に比べてずっと矮小なのだ。しかし放置しておけば人を食うほどに肥大化するともいえる。人間の長い歴史は自然を打ち負かすためのものではなかったろうか。その意味では、僕らと自然の敵対関係は常に同じことではないだろうか。やがて相手を食ってしまうのはお互い様だ。そして攻守をときおり入れ替えるというだけのことかもしれない。
大きな戦車が転がっている。四本足の戦車で、例の三脚の砲台が歩けるようになったらこんな見た目になった、という風だ。艶のないグレイのペンキ塗りで数字や型番などが書き加えられている。脚のひとつひとつが、僕を乗せたあの軍用車のように大きい。あの装甲車を三台つなげればちょうどだろう。関節が三つある脚というのは、僕は自然界の生き物でそれを持つ種は知らないので、どことなく恐ろしい。
「すごいな、これが動いてたところ、見てみたかったな」
僕は見上げるほどの高さの車体に見ほれた。ヴァイスは通り過ぎるときに、図太い脚のひとつの、すねのあたりに弱々しい平手打ちを食らわせる。
「こんな忌々しいもの、私は見たくないわ」
「そうかな、きっととてもおもしろいと思うけど」
ヴァイスは肩をすくめた。彼女は素晴らしく精巧で巨大な機械といったものに何か恨みでもあるのだろうか。僕なら、かつての文明の技術の高さに驚くばかりだし、これが実際に動いているのが見られないとは、腹立たしいほどに寂しいものだが。
夕方には焚き火というものを教えてくれた。近くに林があったので、手ごろな枝をたくさん運んで、火を付けたのだ。ヴァイスは火を付けるのがうまかった。僕はガスやガソリンのない場所で、生活のために火が用いられるのをほとんど見たことはなかった。背の低い山々に夕暮れが消えるころには、僕らは夕食を取った。それから、いろいろな歌を聴かせてもらった。彼女は綺麗で細い声と、わりあいに子供っぽい声と、その両方が使えた。ときには僕の知らない過去をさえ思い出させるような寒々しい旋律を歌ったし、そうでなければ町の子供たちが今でも歌うようなものを歌った。橋が落ちたとか教会の鐘が鳴るとか、そういうものだ。教会というのは今の僕らにとっての環境ハウスみたいなものらしいのだが、しかし意味合いは全然違って、比較できるものはもう残っていないという。この地上から宗教をなくすというのは、天蓋の連中の非常に大変な仕事のひとつだったのだという。
夜には星を見上げた。天蓋の邪魔さえなければ完璧な星図だ。
それと一緒に、ヴァイスは紅茶を淹れてくれた。そのための装備を隠し持っていたのだ。器具が一度に一杯しか作れない大きさので、まずは僕がもらって、それから彼女も飲んだ。しかし彼女が言った通りに心の落ち着く味だった。
「これが人生で最も重要な仕事のひとつだった時期もあるんだから」
僕が味のことを誉めると、ヴァイスはそんな風に言って胸を張った。
火もあったし、毛布なんて必要じゃなかった。少々寝心地は悪いけれど、僕らは草原の上で眠った。ときおり僕の知らない大きな虫が寄ってきて怖かったのだが、旅に慣れているからか、ヴァイスがそんなものはすぐに退治してくれた。というのも、彼女は枝をたいまつのように使ったり、キックで虫を弾き飛ばしたりというのがとてもうまいのだった。それに、僕が眠っているあいだから彼女は起き上がっていたりして、僕は彼女が物音を立てることで、敵の接近を知ることができるという具合なのだった。
夢は見なかった。まるで、そうして定期的に中断される浅い眠りが、目を覚ましたときに感じる草々の湿って温かい感じや、ぬるい風や、火の燃える音といったものに、混ざり合っているようだった。眠る僕を包むその世界こそが、鮮やかだが弱々しい夢だったのだ。
そして朝、日の出ないうちから僕らは出発した。時間を無駄にしたくないという気持ちは一緒だった。
ついに今日、今日なのだ。
暗い早朝の道を歩いていると、得体の知れない巨大な物体が、隊列をなして上空を通り過ぎていった。僕らと同じ東の方向に向かっている。
「あれよ、区画の人たちを乗せてるのは」
ヴァイスが言った。
「それじゃあ、みんなは無事なわけだな」
「友達はいたの、区画に?」
僕は頷く。
「それだけじゃないよ、お隣さんや、僕の借りてる部屋の大家さんだって、大切な知人だよ」
「そっか、それじゃ、よかった」
ヴァイスが本当にそう思っているらしいので、あらためて僕も嬉しくなった。そうだ、本当によかった。
そして僕も思い当たったのだった。彼女の友達はみんな、今日で死んでしまうに違いないのだと。
日が出てくるころには、遠くに町を見た。連なる丘陵地帯にも緩やかに分け入るような、広い町だった。あの海沿いにあった町よりずっと栄えていたようだ。建物の数も全然違う。鉄塔やいくつかのビルはあまりにも巨大なので、ここからでもはっきりと見えた。のどかにも見える町並みには酷く不似合いだったが。
「あのふもとのあたり。もう少しだね」
ヴァイスはそう言って、細い指を前方に向けた。節の出た細い手だった。長く無造作に癖の付いた白髪が、どっちつかずの風に揺れている。
町へ続く道の左右は、かつて立派な広い畑だったらしい。貯蔵庫のような大きな円筒がたくさん見えるし、昨日見かけた歩く戦車のような機械がへこたれてもいる。農業のための機械だったのだ。あんなものが本当に使えたら便利だろうと僕は思った。
しかし今では畑の住みやすい土のためだろう、たくさん雑草や野生の花がひしめきあって、僕らの胸と同じぐらいの高さまで伸びているのだ。アスファルトの道路がなければとても進めなかっただろう。この自然は恐らく、ものの数年でこれだけの隆盛を取り返したのではないだろうか。僕らの数世代前のご先祖たちが大挙して“塔”を上り、天蓋に移り住んでから。
「ねえ、ヴァイス。僕は考えたんだけどね――」
と、僕は焦るでもなく言った。彼女の指差した町への距離を考えれば、議論する時間はありそうだった。それに彼女が興味を示さないなら、さっさと捨て置いてしまってもいいような話題だと思った。本当に、今日の正午で少なくとも僕の世界は終わるといったって、こんなにのんびりしていられるのだ。
「君が言うように、僕たち人間が一種の装置のようなものだという考えは、頷けないことはないよ。でもそうだとしたら、それじゃ僕らは一体、何のためにこんな破壊や、繁栄を任されたんだろう?」
「風雨が山を作るように、川や波が砂州を作るように、それは神様のお好みだったからとしか私には言えないわ。言ったでしょう、“いい趣味だ”って」
「思うに、神様は、僕らを使って実験をしたんじゃないのかな?」
昼が近付いている。少なくとも朝と昼とのあいだのどこかだ。陽光は白く、僕らを向かいの端のほうで照らしている。
「この前話した、愚かさや高潔さといったものの振る舞いを、神様も知りたかったんだよ。そのために僕らには知恵を与えて、いろんな、いいことと悪いことを思い付くようにした」
「結果はどうだったのかしら?」
ヴァイスが訊いた。僕は唸る。
「よかったんじゃないかな。だって、僕はこんなに幸福なんだもの。人間は幸福になれるような素晴らしい生き物だよ」
「あなたはね。でも、ずっと前には、苦しみや怒りの中に死んでいった人たちが、どれだけ多かったことか」
全くその通りだった。僕は悩んでしまう。
「それじゃあ、やっぱり、あんまりよくなかったのかな」
「私にはそう思えるのよ」
「でもね、ヴァイス、僕は今思いついたんだけど」
僕は背の高い雑草やら、茎の太い花やらを蹴ったり叩いたりしながら、続ける。
「それもやがて、全部なくなる。人は星や宇宙ほど長くは生き残れないに決まってるよ。天蓋が全部落っこちて塔が残らず折れちゃう日が、きっと来るんだ。そのときには地上の人間もみんないなくなる。世界中で、今日と同じように実験やなんかがあったりしてね」
「悪いものだけ吐き出し続けて、それでいなくなっちゃうの?」
「いいものもあったんだよ。ただ、絶対に忘れてはいけないぐらい、悪いものもたくさんあっただけで。それでね、ヴァイス、僕らがみんないなくなったあとには、だよ――」
僕はあたりを見回した。今まで見てきた全ての、外の世界の景色を思い浮かべることができた。
「こうやって、僕らなしでは作られることのなかった世界が残って、そこでは、鳥や草や、風や花だけが平和に暮らすんだ。やっぱり僕らは、景色を作っただけだったね。ビルや砲台や、鉄橋や、金属の障害物が置いてあるような景色を。精神や学問や、目的の全てを使って、僕らはこの景色だけを残したんだ」
「それにしては、あんまり苦痛を味わい過ぎたわ」
ヴァイスは言った。それから、再び僕を見る。
「ねえ、私はね、こんなこと言っても笑わないかしら――」
「笑わないよ。僕の知性のほうが君より愚鈍で、ずっと無知なんだから」
「分かった、それじゃ言うよ。私はね、戦争のころに生まれたの」
僕は首を傾げた。
「どういうこと?」
「そのままの意味だよ。ずっと昔にはね、お金持ちの家で、給仕をやるのが私の仕事だったの。知性があって、人間らしく見えるけれど、体だけは少なからず機械のままなんだ。昔にはね、私みたいな“もの”がたくさんあったの、どこにだってあった。お金持ちなら、誰だって持っているというような性質のものだったのよ」
僕は面食らった。でも、それは喜ばしい驚きだった。
「君は過去の文明の生き残りだったんだね、あの砲台や、農業の機械や、町の建物みたいに?」
「そうだと思う」
ヴァイスは控えめに言った。前を向いてはいたが、後ろ姿は見た目の通りの女の子に感じられた。戦争のあったころといえば、一世紀より昔のことなのだ。彼女は続けた。
「私は戦争で、自分の大切なあるじを失ったの。優しくて物知りのお爺さんだったわ。避難民のキャンプに、別の国の部隊が攻め込んできたの。私は条例の上では“もの”扱いだから、わざわざ塔を使って避難させてもらったりはしない。私だって、あるじを失ってまで、それ以上生きのびる意味なんてまるで分からなかった」
「それで、どうしたの?」
「自分の町で、あるじの家で、ずっと待つことにしたの。どこかの国が最後の仕上げに核を撃ち込んでくれるのを。でも、それは今日まで起こらなかった。いつの間にか世界が今みたいな仕組みになって、私の町を訪れる貧しい人たちが現れた。彼らを助けているうちに、私はこんな生活に落ち着いちゃったってわけ」
彼女が自分の過去を話してくれたことを、僕は嬉しく思った。それは誇るべき素晴らしい人生だったと思う。彼女は大切なものを奪われたのに、誰かを助け、それから、今でもたくさんの愛情に囲まれて生き続けているのだ。
ついに町に踏み込んだとき、僕はそこに息づいたたくさんの生活や人々の感情の片鱗に触れた。ここには生活があったのだ。そしてたくさんの人生が。僕は見知らぬ、とても古い人たちの安らぎや苛立ちや、深い愛情といったもので鳥肌が立った。たくさんビルが朽ち果てたまま、突っ立っている。今まで見たどんな建物より背の高いのが、たくさんあった。翼が壊れたヘリコンプターが、建物の一階に突き刺さっている。このあたりも戦闘地域だったのだろう。建物の中には、綺麗さっぱり崩れてしまったものもある。そこには信じられぬ量の瓦礫の山が積み上がっていた。
「まるで昔から、ここに住んでたみたいだ」
「どこに住もうと同じだよ、人の住む場所なんだもの」
丘を登るのは少し大変だったけれど、とにかくやりおおせた。建物の階段をいくつも連続で上るつもりになれば、いくらか気分は楽になるのだ。それで、自分の部屋まで二十度ほど上がったつもりになったあたりで、僕らはその展望台を見つけた。階段はずっと続いていて、そのまま行けば山の頂上に辿り着けるのだろう。
「昔はただの展望台だったんだけど」
と彼女が言ううちにも、僕はその光景に圧倒された。視界一面が、正体不明の白い花に覆われているのだ。かつて人が行き来したのであろうコンクリートの土台が、崩れてきた土砂に飲み込まれ、そこにこの花が根付いたのだ。ヴァイスは自分の名前と同じ色の畑の、できるだけ外側を歩きながら、僕を案内した。
「ユリだよ。純潔を象徴する花」
「そうか、これがユリか」
僕は言った。名前は知っているし、今までの人生で一度も見たことがないとは言い切れないはずだった。しかし、こうしてちゃんと意識して見るのは初めてだった。僕の知っているどんな花より綺麗だった。それに彼女の言うように、これらの花は“純潔”だった。僕は自然の最も愛らしい側面に触れているのだと知った。人を飲み込み危険にさらす、あの巨大な森林や草原や、海といった恐怖の側面とは正反対にある。だがどれも根底は繋がっていて、ただ巨大なこの自然という系の無限の相のひとつに過ぎないのだ。
「お昼ごはんを食べよう」
僕は言った。彼女も笑って頷いた。いい考えが提供できて、僕も嬉しかった。
そして僕らは、見渡す限りの花畑の端のほうに座った。雑草の絨毯が用意されていたのだ。こうして端のほうから見ると、視界のほとんどを花が占めることになる。手前のほうには崩れたビルが重なっているけれど、その向こうには、海が見えるのだ。そして空があり、塔があり、見上げれば深い青の空に、天蓋が浮かんでいる。ここは何て素晴らしい場所なんだろう。
「火を起こせるようなものを持ってくればよかった」
彼女が紅茶を淹れたいと言っているのが分かった。また今度、持ってくればいいさとは言えなかった。でも僕は、そんなことを言うような口ぶりで言った。
「本当だね。僕、あれ好きなんだ」
彼女が食事になるようなものをジャケットから出しているあいだに、僕は放射線測定器を取り出してみた。スイッチを入れると、数字はみるみるうちに上がり、警報音がビービーと鳴った。早く逃げないと死ぬぞと、こいつが言っているようだった。僕はスイッチを切って、これを放り投げてしまおうかとも考えたが、長い付き合いの装置なのだった。僕はいつも通りポケットに収めて、両手を突いて遠くの海を見やる。
「今、何時ごろなのかな」
「十一時、ちょうど」
彼女は言った。
「時間が分かるんだ。時計はこの中」
と、自分のこめかみを指差す。
僕らはビニルで包んだソーセージを食べて、彼女が持ってきたイチゴジャムを、半分ずつにしたパンに塗った。あんまり甘くなかったけれど、それこそ狙いだったのだと、彼女は誇らしそうに言った。もう彼女は、あの無骨なジャケットを脱いでしまって、ワンピースだけになっている。青白い撫で肩や細い二の腕を見るのは初めてだった。その肩に、冷たい首元に、柔らかに波打つ白髪が流れ、昼の陽光を受けて銀色に輝いた。赤い血の色の瞳も、このユリたちに祝福された世界では、はっきりと純潔だった。
「実を言うとね、ヨナ」
彼女は膝を抱えて、風にそよぐユリたちを見ながら、少し恥ずかしそうに言う。
「ここにユリが育つようにしたのは私なの。庭のために貯蔵してるのから、球根をいくつか持ってきてね。何十年も経てば、この通り」
「そうなんじゃないかな、って思った。君がずっと長生きしてるって話を聞いたときに。それにこの花も、君が歌ってた歌も、君がかつて仕えていた人の好きなものだったんだよね……」
ヴァイスは頷いた。
「私なりに、あの人とのことを忘れないでおきたかったの。こんなことに意味はないと言われれば、確かにそうかもしれないけど」
彼女は急に明るい声で、僕に向かって言った。
「でも、久し振りに自分の仕事ができてよかった。あなたのおかげだと思う」
僕らはのんびり話をして、食事をした。全てがおいしかった。彼女の料理の腕と食べ物の選択のよさもあるだろうが、それ以上に、無意識のうちには肉体が、終末を予感していたのかもしれない。とはいえもう、後悔はなかった。失うものなど何もないではないか、そして取り返すべきものも。僕はこの年齢まで生かされて、そして多くを与えられてきた。今ではそれだけでなく、素晴らしい話し相手がいるし、彼女はとっておきの場所をも教えてくれたのだ。
僕は幸福だった。
そしてヴァイスは、残り時間のことは何も言わなかった。大きな飛行機が空を飛んで、海のほうからやって来るのが見えたとき、僕らは静かにそれまでの会話をそれとなく終わらせ、寄り添って座った。温かい夏の一陣の風が、僕らのすぐそばを通り抜けた。それは十六年間の僕の人生のどこにでもあった大気が、僕にさよならを言ったのだった。僕はこれまで自分のすぐそばにいつでもいてくれた彼に感謝した。そして風が去ると、もう静寂と、ユリの花々を歌わせるようなそよ風だけが残った。
足元の草には水滴が光り、海には銀色の輝きが残る。海は本当に、見渡す向こうまで、地平線の向こうまで満たしていた。
彼女はずっと昔のものなのだろう、あるじを失った悲しみの涙をもう一度だけ流した。それはたったひと粒の涙に過ぎなかったが、それで全ては語られるのだった。僕は深い感謝と愛情の念からこれを拭き取ってやりたくなったけれど、彼女の大切な人との思い出を邪魔する気にもなれなかった。そしてまた僕は、あらゆるささやかな幸福に感謝し、ありもしない“これからの自分の未来”への希望の巨大さに、胸が熱く、息が詰まった。
遠方がきらりと光った。
最後の数秒には、穏やかに落ち着いた気持ちで、僕らは肩とこうべを預け合い、その真っ白い光が全てを消し去るのを見た。
何もかもがなくなったこのあとで、また今日のような夏の日に、どこかで白いユリの花がたくさん咲いてくれるのなら、それで僕らの生きたことの全ては報われるのだと、僕にはそう思えた。
この小説のタイトルは、amazarashiの「千年幸福論」からお借りしています。