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「今日の映画は当たりだったね」
興奮気味に言う薫に、良介も笑顔で応える。二週間ぶりのデートは、本格的なミステリーとアクションが人気の映画にした。伏線の張り方が絶妙で、派手なアクションもあり最後までどきどきし通しだった。
ゆっくり話せるようにと、映画館から少し離れたカフェに来て二十分ほど。気候が暖かかったこともあり、歩道に面したテラス席を選んだ。目の前には、中身が半分ほど減ったグラスが二つある。
「ヒロインと主人公が対照的でよかったよね。捜査の仕方で対立したり」
「あの性格だったから、主人公が際立ったのもあるよな」
薫は興奮を押さえるように、氷の溶けかけたアイスコーヒーで喉を潤おす。映画のパンフレットをカバンから取り出して、人物紹介のページを開く。
「パンフレットを見た時は、脇役だと思ってたけど。まさか先生が犯人だったなんて」
「今から思えば怪しいところはたくさんあったな。ほら、主人公が現場に行こうとした時だって」
「そうそう。自然だったから分からなかったけど、ちゃんと伏線になってて……」
ふと、どこからか絡みつくような視線を感じ、薫は途中で言葉を切る。嫌な感じがして辺りを見渡すが、怪しい人物は特に見当たらなかった。
「薫?」
「あ、ごめん。何でもない」
良介に呼ばれ、そう返した時だった。視界の端に見覚えのある何かが映る。その姿に、薫は言葉をなくした。一瞬しか見えなかったが、間違いない。不安が一気に体を駆け巡る。
「どうした? 具合でも悪くなった?」
「うんん。ちょっと、知り合いに似てる人を見つけて驚いただけ」
曖昧な笑みを浮かべてごまかしたが、心臓は早鐘を打っている。きっと偶然だ。そう、偶然に決まってる。薫は自分に言い聞かせ、先ほどの光景を頭から追い出そうとするが、その姿が頭から離れない。
建物の影にすぐに隠れてしまったが、あれは間違いなく片瀬と弥生だ。射抜くような冷たい視線だった。それが薫の不安をあおる。偶然にしても、こんな短期間で三回も遭遇するものだろうか。もし以前、街で会ったのも偶然ではなかったら? そう思った瞬間、全身に寒気が走った。
「薫、本当に大丈夫?」
良介が心配そうに、薫の顔を覗き込む。薫は心配をかけまいと無理やり笑う。ただでさえ良介には普段から心配をかけているのに、憶測で余計な気を遣わせたくない。その思いが、良介に本心を言うのを妨げた。
「うん。ちょっと疲れちゃったみたい。そろそろ行こうか」
カバンを手にして、テーブルから立つ。良介は心配そうだったが、それ以上は何も聞かなかった。店を出る際、片瀬と弥生がいた場所をもう一度見たが、そこにはもう誰もいなかった。
「じゃあ、また今度。ゆっくり休めよ」
「うん。またね」
自宅まで送ってもらい、良介を見送ってから部屋に入る。あれから、薫は何ともないと言ったが、良介が心配したため早めに帰って来た。夕食も一緒に食べる予定だったが、それもまたの機会になった。せっかくのデートだったのに楽しい気分も台無しだ。
「もう、嫌になっちゃう」
ため息を吐いた時、タイミングよく自宅の電話が鳴る。こんな時間に誰だろう。どうせセールスの電話なんだろうな。重たい気持ちのまま、ゆっくりとした動作で受話器を取る。
「はい、江田ですけど」
電話に出ると、相手は何も言わない。普段なら気にしないが、昼間のこともあり少し怖くなり受話器を強く握る。
「あの、どなたですか?」
相手は返答をせず、代わりに唐突に通話が切れた。
「いたずら電話……?」
受話器を置き、確かめるように呟く。いたずら電話なんて今までなかったのに急にどうして。それにタイミングがよかったのも気になる。ふと、片瀬と弥生の顔が浮かぶ。
「そんなはず、あるわけないじゃない」
そう、いたずら電話だ。今日のことと何の関係もない。深呼吸をして、もう一度言い聞かせる。
(たまたま。偶然が重なっただけ)
少しは気持ちも落ち着き、薫は大きくため息を吐く。何だか一気に疲れた。メイクを落とすのも着替える気力もなく、そのままベッドへ倒れこんだ。
* * *
「……薫? 聞こえてる?」
「えっ?」
携帯越しに良介の心配そうな声がして、薫は意識を引き戻す。いつものように良介と話していたが、上の空になっていたようだ。
「最近変だよ? ぼうっとしてるし。何かあった?」
案じるような優しい声音に嬉しくなるが、同時に心配をかけたくないと思う。
あれから二週間ほどが経ったが、視線を感じる頻度は多くなった。気のせいと言い切るには無理がある状況に、ここ最近悩まされている。だが実害があるわけでもないし、大げさにしたくない。もう少し様子を見よう、そう思い良介にも黙っていた。
片瀬と弥生の姿はあれから見てはいないが、あの時感じた不安は忘れられない。
「何でもないよ。仕事が忙しいから疲れちゃって」
嘘だ。最近は定時であがっている。薫が不安だと一言発すれば、その不安を取り除く努力を良介は惜しまないだろう。大切にされているという自覚があるだけに、重荷になってしまうことが怖かった。だから、出来るだけ明るく振る舞う。
「本当に何もないから。良ちゃんは心配性だなぁ」
「だったらいいけど。何かあったら言うんだぞ?」
「うん。分かってるよ」
不安を押し込めて、良介の言葉に頷く。
(ごめん、良ちゃん。本当は怖い。でも、良ちゃんの重荷になることの方が嫌なの)
心の中の呟きは、良介に伝えることは出来なかった。
* * *
その日は、急な仕事が入り帰るのがいつもより遅くなってしまった。自宅までは、一時的に人通りの少ない道を歩かなくてはならず、自然と早足になる。街灯で照らせれているとはいえ、辺りは暗く心細い。
自宅まで後少しという所で、一人の男性が道の真ん中に立っているのが目に入る。男性は帽子を目深に被りうつむいていた。その異様な姿に心臓が跳ね上がる。視線を合わさないようにして、男性の側を通り過ぎようとした時だった。
「こんばんは」
男性が急に声を発し、薫は驚いて足を止めてしまう。恐怖で声が張り付いて出てこない。絡みつくような視線には覚えがあった。ここ最近、ずっと薫を悩ませてきた元凶。では、この男性が……。
「こんな時間に一人で危ないよ。でも安心して、僕がいるから」
薫を見つめるその顔には覚えがない。人のよさそうな笑みを浮かべているが、この状況では逆に異様さを際立たせていた。男性は口元を緩め優しく微笑むと、一歩近づき手を差し出す。
「ほら、一緒に帰ろう」
「い、いや!」
後ずさりして、何とかそう声を絞り出す。怖い、怖い、怖い。私が何をしたって言うの。頭の中が混乱して、体の振るえが止まらない。
「僕はね、君のことを愛しているんだ。初めて会った時、君は笑ってくれたね。誰も僕に笑いかけてくれないのに、君だけが笑ってくれた。一緒に、幸せになろう」
「知らない。私、あなたのことなんて知らない……!」
薫は必死に叫ぶが、男性の態度は変わらなかった。むしろ、笑みが深くなる。
「恥ずかしがらなくてもいいんだよ。君の気持ちは知ってる。あの男と一緒にいたのだって、僕の気を引きたかったんだろ? 浮気はいけないけど、君が僕と一緒にいてくれるなら許すよ」
「だから、私、あなたのことなんて知らない! どこかに行って!」
その言葉に、男性の瞳の奥がぎらつく。異様な雰囲気を察して、薫は凍りつく。
「まだ、そんなことを言うのか。僕はこんなにも君のことを愛しているのに!」
逆上した男性が怒りに顔を歪ませ、薫に掴みかかろうとする。薫は恐怖から目をつむり、良介のことを思い浮かべ助けを呼んだ。
「助けて……!」
「がっ……」
男性の呻き声が聞こえ、薫は恐る恐る目を開ける。そして、目の前の光景にただ呆然とした。
薫につかみかかろうとした男性が、顔を抑えて地面にうずくまっている。そして、その隣には冷たい目をした片瀬と、無邪気に笑う弥生がいた。
どうやら、片瀬が男性のことを殴りとばしたようだ。しかし、なぜ片瀬と弥生がここにいるのだろうか。薫は震える体を両手で押さえ様子をうかがう。
「これ以上、彼女に関わらないでください」
「お前、誰だ……!」
「関わるな、そう言ってるんです」
敵意をむき出しにする男性に、片瀬が有無を言わさぬ冷たさで言い放つ。その声には一切の感情が含まれていないようで、薫は恐ろしくなる。
「お前には関係ない! 僕は彼女と幸せになるんだ!」
「うるさいな。こそこそとつけ回すことしか出来ないクズなのに」
弥生が笑顔を一変させ男性を貶める。その変わりように、薫だけでなく男性も驚き一瞬声をなくす。しかし、すぐに怒りで頭に血が上ったのか、顔を真っ赤にして弥生をにらみつける。
「このガキ……!」
弥生に殴りかかろうとした男性の前に、片瀬が立ちはだかりねめつける。すると、男性は拳を振り上げたまま動きを止めた。
「行け」
片瀬がそう一言発すると、男性は急に素直にその言葉に従って、覚束ない足取りで歩き出す。危険が去ったと思っていいのだろうか。ゆらゆらと揺れながら、男性は路地へと消えてしまった。
「ありがとうございます」
薫は震える声で、何とか片瀬と弥生にお礼を言う。片瀬は相変わらず無表情だったが、その視線は少し和らいだように思える。
「いえ、仕事をしたまでです」
「あなた達は……」
そう問いかけると、片瀬がわずかに笑う。初めて見る片瀬の笑みは、作り物のようで生きている人間のように感じなかった。
「……と……」
「えっ……」
部屋に騒がしく目覚まし時計の音が鳴り響く。カーテンの隙間からは、朝日が漏れていた。いつの間にかベッドで眠っていたようだが、どうやって部屋に戻って来たか覚えていない。
「頭いた……」
頭が鈍く痛み、薫は手で押さえる。寝起きに頭痛がするなど、今までなかったのに。それに、頭の奥がちかちかする。言いようのない違和感に、薫は起き掛けの鈍い思考で考える。
昨日は、残業で帰りが遅くなったはずだが、いつ寝たか忘れるほど疲れていたのだろうか。薫は、他にも何か忘れている気がして首をひねる。ここ最近、何か悩んでいたような気がするが。一体何だっただろう。
それに、変な夢も見た。内容はよく覚えていないが、不思議な二人組みが出てきて……。最後に何か言っていた。上手く聞き取れなかったけど、あれは……。
そこまで考えて、薫は我に返る。時計を見ると、家を出る時刻が迫っていた。
「遅刻しちゃう!」
慌ててベッドから飛び出すと、薫は支度を始める。
こうして、江田薫の非日常は幕を閉じた。