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人目につかないように、薫はそっとため息を吐く。今日も残業だ。パソコンの画面で時刻を確認すると、定時から一時間ほどが経っていた。
(今日は、コンビニで新作スイーツを買って帰ろう)
頭の中で、とろとろの食感が売りのプリンを思い浮かべる。本格的なスイーツを売りにしていて、今まで食べた物はどれも薫を満足させていた。最近甘い物を食べ過ぎな気もするが、頑張った自分へのご褒美だと納得させる。その味を想像しながらも、キーボードを打つ手は止めない。
薫は元々甘い物が好きだが、疲れた時に食べるスイーツは格別で、日々のモチベーションへと繋がっている。そう人に話すと単純だと笑われるが、単純で結構。上手くストレスを発散していると言って欲しいものだ。
「よし、終わった」
最後の数字を入力し終え、疲労の溜まった体をほぐすように肩を回す。パソコンの電源を切り帰り支度を始めていると、隣のデスクの藤堂が頭をかく姿が目に入った。
「藤堂さん、難しい案件ですか?」
藤堂が頭をかくのは、考えが煮詰まった時にする癖だ。ひょろりとした長身を大きく伸ばして、薫の方に視線を移す。その顔には疲労が浮かんでいた。
「ああ、面倒なのが回ってきてな。江田はもう終わりか?」
「はい。申し訳ないんですけど……」
「いいって、気にするな。それより帰り道気をつけろよ」
藤堂はひらひらと手を振ると、笑顔を向ける。些細な気配りの出来る藤堂の存在は、仕事をする上で大きな支えになっていた。先輩よりも先に帰るのはいささか気が引ける。だが新人の薫に手伝えることでもないので、その言葉に甘えることにする。
「では、お先に失礼します」
デスクの下からカバンを出すと、薫はその場を後にした。
* * *
夜の色に染まりつつある街に、飲食店などの明かりが存在感を放っている。時刻は夜の六時過ぎ。今日のおかずは何にしよう、さっぱりとした物が食べたいな。そんなことを考えながら歩いていると、肩に何かが当たり薫はそのまま体勢を崩した。その場に見っともなくしりもちをつくと、ぶつかって来た誰かはそのまま歩き去ってしまう。
「もう、最悪」
恥ずかしさと痛みから呟くと、目の前に手が差し伸べられる。
「大丈夫ですか?」
「あ、ええ。ありがとうございます」
差し出された手を遠慮がちに掴むと、そのまま立ち上がった。ひんやりとした手の感触に、一瞬どきりとする。
助けてくれた人物に目をやると、意外にも無表情だった。黒いスーツを着込んだ男性は、二十代半ばほどに見える。男性の服装に疎い薫でも、そのスーツが仕立てのいい物だと分かった。眼鏡をかけたその顔は、少し神経質そうにも見える。
違和感を男性に感じて、薫は内心首をかしげる。人を寄せ付けない、厳しさのようなものを感じるが、こうして親切に手を貸してくれた。スーツを着込んでいるが、風貌からすると平社員という訳ではなさそうだ。
(もしかして、どこか大きな会社の重役? それにしては若すぎるような)
ミステリードラマが好な薫は、いつもの癖で自然と推察してしまう。
「お姉さん大丈夫? 片瀬さんの顔が怖いから怯えてるよ」
男性のすぐ横から声がし、そちらを見やると中学生くらいの子供がいた。少年とも少女とも取れる顔つきの子供は、隣の男性をからかうように笑っている。ショートカットと膝丈のオーバーオールも相まって、活発そうな印象を受けた。
「そんなことは」
まずい、じろじろ見すぎたかも。不躾だったよね。心の中で反省し慌てて返せば、片瀬と呼ばれた男性は黙り込んでしまう。気を悪くさせたかと不安になれば、片瀬がゆっくりと口を開く。
「あなた、帰りは電車ですか?」
「ええ、そうですけど」
唐突な問いに戸惑いながらも返答すると、意外な言葉が返ってくる。
「なら、他の交通機関を使うことをお勧めします」
「え?」
片瀬の意図が掴めず、薫は間抜けな声をもらす。それだけ言うと、片瀬はきびすを返してしまう。
「お姉さん、僕もその方がいいと思うよ。じゃあね!」
屈託のない笑顔で側にいた子供が言うと、片瀬の後を追ってそのまま去ってしまった。二人はあっという間に人の波に溶け込み見えなくなってしまう。
「何だったの?」
残された薫は呆然と呟く。やがて人の邪魔になっていることに気がつくと、足早にその場を後にした。
* * *
「おはようございます」
翌日、出社するとすでに数人が立ち話をしていた。自分のデスクに着き、カバンを下ろすと藤堂が声をかける。
「昨日は参ったな」
「何かあったんですか?」
昨日、藤堂は難しい案件を抱えていると話していた。しかし、自分に共感を求めてくる言い方に違和感を感じ、薫は質問を投げかける。
「何って、江田は電車通勤だろ?」
「そうですけど。それがどうかしました?」
全く会話がかみ合わない。藤堂が不思議そうな顔をするが、何かおかしなことを言っただろうか。意味が全く分からないと、薫も少し怪訝そうな表情をする。
「江田が帰った後、人身事故が起きてしばらく電車が動かなかっただろ。駅に着いたら、人が溢れててえらい目に遭った」
「人身事故?」
「おい、本当に知らないのか? 江田が駅に着く頃に事故が起きはずだけど」
それを聞いて、昨日の記憶がよみがえる。普段は前述したように電車を使っているのだが、昨日は違った。街で会った男性、片瀬に電車で帰らない方がいいと言われ、気まぐれでその通りにしたのだ。
家に帰ってからは録画していたドラマを見ていたので、ニュースは見ていない。朝もぎりぎりまで寝ていたので、テレビを見る時間はなかった。つまり、人身事故のことは知らないのだ。
「昨日はバスで帰ったので」
「運がいいな。俺なんていつもより一時間余計にかかったぞ」
片瀬はどうして、電車を使わない方がいいなどと言ったのか。あの時点では、まだ事故は起きてなかったはずだ。突発的なことだけに、誰にも分かる訳などないのに。
「何か難しい顔してるけど、大丈夫か?」
「あ、何でもないです」
きっと、たまたまだろう。そう思い、薫は話題を切り上げた。始業時刻までにすることはたくさんある。薫は思考から片瀬のことを無理やり追い出した。
* * *
「でね、朝から忙しかったんだよ」
「薫も大変だな」
携帯のストラップを指に絡ませながら、良介に愚痴を溢す。スピーカー越しに、良介の労わる声が聞こえる。仕事が終わり、自宅で良介と話す時間がやはり落ち着く。
見えないのをいいことに、部屋着のままベッドにだらしなく寝そべったままだ。付き合って二年も経つと気が抜けてくる。だらしないなと言いつつも、良介なら笑ってくれるだろう。それでも恋人にこんな姿は見せられないな。
「良ちゃんは凄いよね。職場での評価も、成績だっていいし」
それに比べて、私は……。そんな言葉を、薫は飲み込む。
食品会社の営業をしている良介は、入社二年目だが成績もよく、上司や同期との関係も良好らしい。それは単に良介の人柄だけではなく、努力を惜しまない性格もあるのだろう。
物腰が柔らかで、冷静沈着。顔だって、ひいき目に見てもかっこいい。本人は垂れ目がちなのを気にしているが、逆にそれが親しみやすくて好感がもてる。それだけに、女性社員からも人気があるらしく、薫としてはあまり面白くない。
「薫、仕事で何かあった?」
「ううん。今の職場は嫌じゃないんだけど、私って流されてばっかりだなって」
薫の心情を読み取り、寄り添ってくれる良介につい甘えてしまう。よくないと思いつつ、良介に度々愚痴を溢している。
「薫は流されやすいんじゃなくて、人の気持ちに合わせることが出来るんじゃないかな」
「そうかな」
「薫はもっと自信を持った方がいい。大丈夫だよ」
優しい声音に、心が温かくなる。良介が言う、「大丈夫」が薫は大好きだった。その場限りの励ましではなく、心から薫のことを信じ応援してくれている。良介の「大丈夫」は不思議な力があるようで、たちまち暗い気持ちもどこかへ飛んでしまう。
「えへへ。ありがとう」
薫は、幼子のように表情を崩して笑う。ふと部屋の時計を見ると、かれこれ一時間ほど話していた。
「もうこんな時間。良ちゃん、明日早いんだよね?」
「本当だ。じゃあ薫、また今度ね」
「うん、おやすみ」
「おやすみ」
通話を切ると、急に寂しさが襲ってくる。お互い仕事を持っているため、毎日電話をするわけにはいかない。それだけに、時間が過ぎるのがあっという間に感じる。
「おやすみ、良ちゃん」
気を紛らわすようにベッドにもぐり、そのまま薫は目を閉じた。