二話
誰にでも経験があると思う。
耳から離れない曲。頭の中で回り続けるフレーズ。絶対に、何処かで聞いたはずの唄。けれど、タイトルが解らない。
幼いころの俺は、ずっとそれを探していた。何処の共鳴器からも流れてこないし、歌ってみせても、誰にも伝わらない。忘れようとしても、ふとした拍子に思い出して、気になって仕方がない。
だから俺は、時々夜中に家を抜けだして、一人で島を散策した。どうして夜かと言うと、曲調が夜っぽかったから。暗いのではなく、しっとりとした、寄り添うような曲だった。今思えば、手のかかる子供だ。
その日は空模様が悪かった。雨が振りそうなのではなく、街明かりが強すぎた。空が七色のオーロラ光に覆われていて、星が見えない。どうせ星が見えないのだからと、俺は地下に潜ることにした。
タバコ屋裏のマンホールを開けて、ハシゴを下る。そこには蒸気管が幾重にも蠢き絡み合う、底の見えない空間が広がっていた。管迷宮。島全体に圧縮蒸気を行き渡らせる、街のインフラだ。
ハシゴを40メートル程下ったところで、蒸気管565番を足場に整備用の通路に飛び移る。突き当りまで歩いて、螺旋階段を十五分ほど下り、管のうねりを抜けて、下層三区の裏道に出る。
下層三区はアンティキティラ島に二十七つ存在する地下街の一区画だ。昼は暖色、夜は寒色のオーロラ光で、仮の日光と月光を浴びる街。新聞にはよく地下住民の日照権がどうのと書いてあるが、俺は知っていた。住民の半数は、オーロラ光が日光よりクールだと信じて疑っていない。
古いオイルの臭い漂う、薄汚れた繁華街。通りに出ると、ジャンク屋と骨董屋が並びたち、『激安爆音』だの、『ベートーヴェンの認めたオルゴール』だの、怪しげな文句で人を呼んでいた。道行く人は誰も彼も一曲二癖三隠し事ぐらいはありそうな連中で、改造義肢も多い。
ここまでは、いつもの散歩ルートだった。庭みたいなものだ。鳥のマスコットキャラを描いて謎の串焼きを出す屋台にも、もう騙されない。
問題はこれから何処に向かうか。捨てられた野良オルゴールが見つかると言う、音の墓場がいいか。それとも、前から気になっていた、故モルガン男爵の館にでも繰り出そうか。さて、どうしよう。しばし思案していると……突然、人混みの狭間から、白い手が俺を引っ掴んだ。
「キミ、一緒に来て下さい!」
「はっ?」
女の子だ。売り物の人形と間違う程に整った目鼻立ち。廃油や鉄屑で所々汚れていて、それが逆に肌の白さを際立たせていた。見た目だけ話すなら、か弱いとか儚いなんて形容がしっくりきた。二の腕を掴む指も細く、その気になれば振りほどけそうだ。けれど、何故か俺はその子に逆らうことが出来なかった。年上だとか、身長差だとかよりも、有無を言わせぬ迫力に負けたのだ。
何処をどう歩いたのかは覚えていない。蒸気と排煙を浴びて、人混みに揉まれ、生ゴミにも揉まれた先、人通りの潰えたところで、その子は足を止めた。
そこは、打ち捨てられたオルゴール工房だった。看板が傾き、窓も割れていた。配管が千切れていて、全体的に錆びていた。
「ふう、ふう……こっちです」
肩で息をしていても、少女は足を止めない。破れたシャッターを跨いで、中へ突き進む。工房内は薄暗く、空気も冷えていた。風に揺られる破れたカーテンを見て、流石に俺も不安になった。
「ねえ、ここ何処……」
「しーっ」
唇を汚れた人差し指で抑えられた。粘っこい廃油の臭いに、思わず顔をしかめて……。
俺は聞いた。正確に言えば、聞いていたことに気付いた。
絡み合う歯車の音。擦れる布の音。吹き出す蒸気音。風の音。人の笑い声。罵声。水滴の音。車の音。蠢くオルゴールの音。野良犬の遠吠え。隣の子の息。そして、自分の鼓動まで。パズルが噛み合うように、全ての音が同期していた。
(この曲だ)
静かで、柔らかで、背後から寄り添う音色。頭の芯がじんと痺れる。探していた曲が俺を包んでいた。その時、アンティキティラ島は一つのオルゴールと化していた。ただ、そのメロディを奏でる為だけに、島中の全てが動いていた。
どれだけの時間聴き入っていただろうか。数分と言われも、数時間と言われても納得出来た。やがて、風の音が調和を乱し、人の声が邪魔になった。一つ、また一つと音の調子が外れていき、街の唄は溶けるように消えた。
「って、あっ! しまったです!」
甲高い叫びが、意識を現実に引き戻した。少女が何やら慌てた様子で、ポケットから懐メモ帳サイズの楽譜とボールペンを取り出した。要領が悪いのか、運動神経が悪いのか、手が滑ってボールペンを取り落としてしまう。床を転がるそれを拾って、渡そうとすると。
「それ、あげます!」
「え、でも……」
「あげますから、キミも書いて下さい、覚えてるうちに、早く!」
ぐい、と追加で楽譜を押し付けられた。
「で、でも俺、楽譜あんまり……」
「尾びれのないオタマジャクシが四分音符、普通のオタマジャクシが八分音符、長年のストレスで枝毛になったオタマジャクシが十六分音符です。良いですね」
「本当に良いのかな。十六分音符は、カエルにならないのかな」
「カエルは串焼きにされてしまうのです。さ、早く!」
それから俺達は、十五分ほどかけて、耳に残ったそれを出来るだけ詳細に書き起こした。と言っても、俺の方は聞いた音を言葉で表現したので、半ば感想文になってしまったけれど。それでも少女は、俺の書いたミミズ腫れのような文字を眺めて、満足気に頷いた。
「ふぅ。助かりました。キミのお陰で、ボクはまた一歩、夢に近付いたのです」
「こっちこそ、良い物聞かせて貰ったから。でも、その、君って何者なの?」
「ボクは香箱ようこ。いずれ、この街を作曲する天才お姉さんですよ。キミは?」
「俺は……」
彼女は少し目線を下げて、俺の顔を覗きこんだ。青白いオーロラ光が窓から差し込み、その黒髪を艶やかに照らしていた。